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成し遂げるを手放して

「いつだって何かを頑張っていてすごいよね、頑張り屋さんだね」

そんな風に言われる人はきっと頑張り屋さんなのだ。または、人に言われなくても頑張り屋さんの人は自分がそうであることをひっそりと自覚している部分があると思う。場所や環境が変わっても、きっとどこかで何かに向かってひたむきに努力をしていることだろう。

ここまで綺麗で器用な頑張りができるわけではないけれど、自分も根詰め族だから、頑張りすぎてしまう人の気持ちは何となく分かる。大変さも、嬉しさも。

だからこそ、同じように頑張り屋さん気質の人を傍から見ると「息苦しそう」とも思う。分かるからこそ苦しさも伝わってくる、というか。きっと今根詰めてやっているだろうな、涙を流しているだろうな、けれどもまた前に進もうとしているだろうなって。

頑張ることは大切だけれども頑張りすぎは良くなく、どこかに必ず無理が生じてくる。体の不調か、心の不調か、人間関係の亀裂か、フラストレーションか、いろいろな形で表面化してくる。それでも頑張ってしまうのが頑張り屋さんというもの。

根詰め族の自分も長いことこの霧から抜け出せずにいたけれど、徹底的に落ちてみたら、逆にここ最近になってふと森に光が入るような考え方が湧いてきたので、ここに記録してみる。家族からの助言も大きかった。

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そもそもとして、頑張り屋さんというのは何かを「成し遂げよう」としているものだ。勉強、スポーツ、仕事などなんでもいいけれど、本気でいつも何かを成し遂げようとしている。念のため「成し遂げる」というのは、計画をたてて目標に向かって最後まで全うしようとすることの意。

これはもしかしたらその人が生きてきた環境が影響するかもしれない。受験、部活、就活、昇進、など現代人の大多数は競争に晒されている。だからこそ次々とやってくる対象を成し遂げようとする癖が染みついている。その機会が多ければ多いほど「成し遂げよう精神」は旺盛である可能性は高い。

けれども人生は何かを「成し遂げる」ことがゴールではないんじゃないか。

短期的に見て何かを成し遂げる瞬間が細切れにあったとしても、人生全体で言えばそれ自体が目的なわけではなくて。大体人がなぜ生きているかなんて誰にも分からないし、大層立派な理由などなく、ただ時間の流れと共に命が減っていくだけの話。泣いても笑っても命が終わる、という万人共通のゴールがあることだけは確実だ。

思うに人生のゴールはあくまで「命を終えること」なのである。

頑張り屋さんというのは、ここのところを履き違えているから生きづらいのだと思う。なんでもかんでも「成し遂げよう、頑張ろう」と強迫観念に囚われてしまっている。しかし、人生の断片で何かを成し遂げることはあっても、人生全般で言えば「ただ流れている」だけで十分なのだ。というか、地球の長い歴史から言えばそれしかできないだろう。

わたしは趣味でカヌーをやるが、人生は「カヌーの川下り」にそっくりだなと思う。

カヌーをやるときは、まず川の上流へ行って船に乗り、スタート後はパドルで船のバランスを取りながら波を楽しむ。そしてゴールがくれば船を降りる。川下りの最中、勢いよく漕ぎたいときはオラオラ漕ぐし、川沿いの森をゆっくり眺めたいときはそうするし、パドルを一切動かさずただただ空を見上げてダラッとすることもある。

川下り中はこんな感じで様々なテンションが巡ってくるけれど、基本的には川の流れに乗っているだけで、勝手にゴールへと向かっているのだ。スタートからゴールまでずっとオラオラやっているわけではない。逆にいうとそれではせっかく自然を間近で楽しめるカヌーの意味がない。いつだってなんだって成し遂げよう、だなんて気負わなくたって船は最低限進んでいくよ。人生も同じはず。

しかし頑張り屋さんというのは、多少苦しい状況に自分を置くことに慣れているため、生ぬるく甘っちょろい「頑張らなくていい」という言葉は好まない。というか、一時納得してもすぐに忘れるのだ。そして元の頑張り屋さんに逆戻り。

そこで非常に大事なのは「純粋に楽しむ」という視点だ。

どうせ川の流れ(人生でいえば時の流れ)は誰にも変えられないのだから、そして船は勝手に進んでいくんだから、とにかく流れを楽しめた方が得だなと思う。今は気合い入れて漕ぐ練習するぞってときはやればいいし、魚をゆるゆる眺めようってときはそれを楽しめばいい。どっちかに偏る必要はなく、楽しい方を選んでいけばいいでしょう。楽しい気持ちは威力抜群の筋肉だ。

何かを成し遂げようと切羽詰まる気持ちを手放して、純粋に楽しんでいこうと考えるだけで、体に張り付いていた「頑張り屋さん」の看板が消えていくようである。もし頑張り屋さんのなかに生きづらいなと自分を責めてしまう人がいたら、ぜひ看板を降ろし「楽しみ屋さん」を掲げてみてはと提案してみたい。

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最後に「他人に迷惑をかけない」ことも大事だと思う。

いくら自由にゴールに向かって船を漕いでいたって、他人の船の進路を妨害したり、みちづれで溺れさせるのはいけない行為。

カヌーは、チームメンバーが船から落ちた時にレスキューできることを考慮し、複数人のチームで船を出すことが多い。そういう意味で、人生でお世話になる家族(または近くにいる人)というのはカヌーのチームメンバーに同じかな。溺れたときは互いにレスキューし、一緒に競争したいときはそのようにし。ゴールが全く同じではないのがカヌーと人生の違うところだけど。

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