一日一柿の収穫
庭中にキンモクセイの香りが漂う季節になった。
洗濯物を干す朝、ひよこのお散歩が始まる昼過ぎ、ヤギを小屋へ戻す夕方。どの時間帯でもキンモクセイの存在を感じられる。わが家だけでなく、近所の多くのご家庭でキンモクセイの木が橙色をして賑わっている。
そんな秋真っ盛りの最近、毎日とても楽しみにしていることがある。
それが、庭にある柿の木から一日一個の柿を収穫することだ。
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いま暮らしている古民家には、柿の木が何本か植わっている。甘柿もあれば、渋柿もあるが、品種は不明。以前の持ち主さんが丁寧に育てたのだろう。毎年秋になると、たわわに実をつける。
とはいえ果物のような「実りもの」は、各年で収穫量の多い少ないを繰り返す、とご近所さんがおっしゃっていた。
わが家の柿は、今年の夏にイラガの幼虫に葉を盛大に食われてしまったことが恐らく原因で、昨年より実り方が少ない感じだ。イラガの幼虫が大量についたのは初めてだったから、ショックだった。うっかり触ると死骸も含めて本当に危険だし。
それでも柿は全く実らないわけではなくて、収穫量が減ったくらいで済んだ。むしろ少ない分大切に食べよう、という心理が昨年よりも強く働いた。
秋晴れの空のもと、「今日はどの子を収穫しようかな」と木を見上げてみる。
艶やかなオレンジ色の姿に気分が上がる。まだところどころ実が青いくらいがちょうどよい。ヘタぎりぎりのところで収穫する。
手に収まった柿の姿はなんとも愛しい。丸くて、ぽてっとしていて、日光の影響でまだあたたかい。そのあたたかさに触れて、心も顔もにんまり。
木からもぎたての果物の姿は特別だ。かわいい。
一日一柿の収穫。この時間はまるで宝探しみたいに思える。
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わが家は柿をどこかに販売しているわけではないし、農家でもない。ごくごく普通に家庭で楽しめる程度に暮らしのなかに柿があるだけだ。家庭で消費しきれなければ野鳥が勝手についばんでいくし、熟しすぎたものは落下して土に還る。
自宅で作っているヤギフン堆肥を根っこにまいたりはするけれど、そこまで手をかけて特別な世話をしているわけではない。家庭菜園であるような、そうでないような。
そういう意味ではどちらかというと、弥生時代の稲作よりも、縄文時代の狩猟採集に近い印象。だからより一層、宝探しに感じられるのかもしれない。
秋の朝食は、しばらくシャッキリした歯ごたえの柿が続きそうだ。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。