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アメリカ初、歯科照合で有罪〜19世紀ハーバード大医学部猟奇殺人事件

1849年、ボストンの実業家で医師のジョージ・パークマン(George Parkman)はハーバード大医学部講師であったジョン・ウエッブスターに謀殺され、証拠隠滅のためバラバラにされた遺体がハーバード大学医学部内で発見された。今も昔も「ハーバード」は人々の注目を集めるということもあって、この事件はボストン中にセンセーションを巻き起こしたが、被害者が賞金もかかった著名人であったこともあり、公判では遺体の照合が焦点となったことから、「法医学・法歯学」の先駆け的な事例としても記憶されている。公判で提示されたた石膏の義歯床や、パークマン医師の家などは現在でもボストンに残されており、それらの関連するスポットもあわせて紹介したい。

被害者 名士パークマン医師

ジョージ・パークマンはボストンの資産家に生まれた実業家で、スコットランド留学を経て医学も修めた医師でもあった。彼の寄付した土地でハーバード大は医学部をボストンに新設することができたくらいである。彼は「ケチ」であり、維持にお金のかかる馬車を持たず、方々に貸した金や賃貸料を徒歩で集金しまわっていた。痩せ型で背が高い彼が顎を突き出して歩く様は相当印象的で、人々の記憶に残っていた。

歩くパークマン医師。米国立医学図書館より引用 (1)
今でもボストン市8 Walnut Streetに残るパークマンハウス (2)。ジョージ・パークマン医師の呪いがかかっていると噂される。1999年、この家の3階の水洗トイレのトラブルにより、家が水浸しとなった。これが起こったのは奇しくも11月23日、パークマン医師が殺害されてから150年後のことだった。トイレに遺体が捨てられていたことと関連付ける向きもある。
パークマンハウスのすぐ先はボストンコモンで、冬季にはスケートリンクが目と鼻の先に広がる立地の良い場所にある。

加害者 ウエッブスター講師

ジョン・ウエッブスター氏(John Webster)はハーバード大学医学部を卒業後、ロンドンなどで鉱物学を勉強し、英国地質学会の在外会員に推挙されるほど優秀な鉱物学者であった。帰国後は開業を志したがうまくゆかず、1827年より母校ハーバード大学医学部の化学の講師をしていたが、経済的な問題を抱えていた。ケンブリッジ市の持ち家を手放し、1849年には借家住まいをしていたが、彼の給与は生活を支えるのに十分ではなく、多くの友人より借金を抱えていた。彼は1842年にパークマン医師から400ドル(現在の100万円ほど)の借金をしたが、ほとんど返せなかったことから1847年には貴重な鉱物コレクションなどを含む家財を担保に2432ドルの手形をパークマン医師に振り出した。ところが、1848年にウエッブスターは別人のショー氏から同様の担保で1200ドルを借りたため、これがパークマン医師を怒らせることとなった。

公判中のウエッブスター講師。米国立医学図書館より引用 (3)

パークマン医師、失踪する

1849年11月22日、感謝祭の1週前、怒り心頭のパークマン医師はケンブリッジ市のハーバード大の会計に赴き、ウエッブスター氏の講義料から借金を直接回収できるように掛け合った(当時のハーバード大学医学部には授業料という制度はなく、学生は各講義のチケットを購入するという様式をとっていたため)。翌23日、パークマン医師はいつものように集金のために歩いて家を後にした。その日、ウエッブスター氏はパークマン医師宅を訪れ、午後1:30に医学部で会うように話をつけていた。事実、午後1:45パークマン氏はノースグローブストリートにある医学部の建物に入っていくのを目撃されているが、その後の行方は杳として知れず、忽然と姿を消した。ウエッブスター氏は23日の夜6時には帰宅し、友人のトレッドウエル夫妻の主催するパーティーに特に変わった様子もなく出席している。

ウエッブスター氏の研究室のあったハーバード大学医学部は当時マサチューセッツ総合病院の前に位置しており、現在でもNorth Grove Streetはマサチューセッツ総合病院の前を通っている。
ビーコンヒルからNorth Glove Streetをのぞむ。坂を下ると、正面にマサチューセッツ総合病院が見える。
マサチューセッツ総合病院(左の白い建物)の前にハーバード大医学部(右のレンガの建物)があった。1811年創立のマサチューセッツ総合病院のこの建物では1846年初めてエーテルを使った全身麻酔が行われ、左の建物と外科手術に使われたドームは現在でも残されている。現在でも残されている (4)。

事件のキーマン、リトルフィールド氏

エフレイム・リトルフィールド(Ephraim Littlefield)はハーバード大学医学部の用務員で、ハーバード大学医学部の地下にあるウエッブスターの研究室の隣に住み込みをしていた。乏しい収入の足しとして、医師たちのために火を起こしたり、研究室を片付けたり、解剖用の遺体を調達しては売るなどして生計を立てていた。彼は医学部の建物に精通していただけでなく、ハーバードの医師たちの解剖を観察していたため一通りの知識を身につけていたことから、この事件のキーパーソンとなる。リトルフィールドは、パークマン医師が失踪した23日、ウエッブスターの研究室が内側からロックされており、水の流れる音が聞こえたのを記憶している。

リトルフィールド氏。米国立医学図書館より引用 (5)

ボストン、大騒ぎになる

失踪翌日の11月24日、心配したパークマン医師の家族は警察に連絡したが、26日になってもまだパークマン医師は帰らぬままであった。パークマン医師を無事に保護したものには3000ドルの懸賞金が約束され、街には28000部のビラが拡散された (6)。ボストン界隈はこの事件に関する噂でもちきりになり、騒然とした雰囲気になった。当時、ジャガイモ飢饉によりボストンのノースエンド地区には大量のアイルランド移民が急速に流入していたが、彼らがやったという者、またパークマン医師は単に旅行に出かけたという楽観的なもの、お金目当ての強盗にあったのだという悲観的な憶測などが流れた。最後に目撃情報のあった医学部の建物や解剖室はもちろん、パークマン医師の自宅や所有する建物、ボストン湾やチャールズ川の川底までくまなく捜索され、大掛かりな捜索網は周囲の街まで波及したが、手掛かりになるものは無しの礫の状態であった。

ウエッブスターの振る舞い、次第におかしくなる

ウエッブスターは、元々人殺しができるような人物ではなかった。少なくとも、彼を知る者たちは例外なくそう回想していた。彼の内面の葛藤が露見するのも時間の問題であった。彼の行動は日に日におかしくなっていったのである。一方、リトルフィールドは、パークマン医師が失踪してから、ウエッブスターの様子がおかしくなっていたことに勘づいていた。リトルフィールドにパークマン医師に483.64ドルを返済した話などをいつになく饒舌にしたり、不意なことで彼に激怒したり、その謝罪に感謝祭に七面鳥を突然プレゼントしたり、いつになく不自然な行動が続いていたことから、リトルフィールドは次第に懐疑心を抱くようになった。この返済の話は法的に辻褄が合わず、のちに裁判で決定的に不利な材料となる。医学部の建物に自由に出入りでき、社会的な地位の低いリトルフィールドに殺人の嫌疑がかけられそうになっていることも薄々察知していたこともあり、リトルフィールドはウエッブスターの研究室を探索する決意をした。

ハーバード大学医学部とウエッブスター氏研究室の見取り図。米国立医学図書館より引用 (7)

バラバラ遺体、ハーバード医学部内で発見される

11月28日、ウエッブスターが出勤した際、リトルフィールドは隣の部屋の彼の行動を観察することにした。膝下しか見えないものの、ウエッブスターが暖炉とクローゼットをなん度も往復するのを見た。その後、暖炉で何かが激しく燃やされ、隣の壁が熱されさわれなくなるほどであった。11月29日(感謝祭)の日、彼は窓から侵入し、妻を見張りにたて、ウエッブスター研究室のトイレの下の壁を剥がしていった。ここは、警察も捜索してなかった場所である。翌30日、リトルフィールドは汚物の上に人の骨盤、右大腿部、左下肢があるのをみた。肝を潰したリトルフィールドは、警察に通報、知らせは瞬く間に拡散され、野次馬が見守る中、到着した捜索隊によりトイレよりバラバラ遺体は取り出された。警察はケンブリッジ市の自宅にいたウエッブスターを逮捕。当初は否定していた彼も、明かな状況証拠から、しまいには認めざるを得なくなった。

12月1日、捜索は続行された。残りの部分はトイレにはなく、暖炉の中からコインやボタンに混じり義歯やあご骨を含む骨片が回収されたほか、頭部が離断され、内臓は除かれ一部焼かれた毛深い胴体部分が大腿部と一緒に研究室の茶タンスの中より見つかった。本人確認のためにパークマン医師夫人が呼ばれた。気の毒な夫人は、性器と背中にある母斑から確かに夫の胴体だと確認せざるを得なかった。そのほか、ウエッブスターの血まみれの着衣や、腎臓なども見つかった他、方々に血痕を効果的に除去する硝酸銅を使用した形跡が認められた。

トイレより回収された遺体の一部。米国立医学図書館より引用 (8)

世紀の公判、始まる

本事件は、刑事事件としては比較的単純に思える。目撃証言や動機から、ウエッブスターを疑うのは自然な流れであろうし、本人の自白もある。また、被害者の遺体も確保されており、夫人により人物同定もできている。それでもこの事件は裁判に持ち込まれ、法医学・法歯学的検討がなされた。公判での焦点は、もっぱら見つかった証拠(バラバラで一部焼かれた遺体)がパークマン医師のものであるということを証明できるかどうかという点であった。当時はもちろん「法医学・法歯学」という概念はなく、人物照合に使われた技術は極めて原始的なものであったが、当時のハーバード医学の粋が結集され、議論が尽くされた結果、「法医学、法人類学、法歯学」の発展に寄与するという結果となった。
 
公判は大きな関心を呼び、その聴講には多くの人が列を作った。傍聴者は6万人以上になり、アメリカ全土はもとより、ヨーロッパ各地よりジャーナリストが詰めかけた。既に、事件の起こった場所には5000人を超える人が見学に訪れていた。イギリスよりボストンを公演で訪れていたチャールズ・ディケンズは18年後の1868年にここを訪れることを真っ先に切望し、見学後に「未だ遺体の異臭がする」と感想を述べたとされる。

ディケンズのボストン訪問については、以下の拙著を参照していただければ幸いである。

遺体の照合にはハーバードの解剖学者ジェフ・ワイマン氏(Jeffries Wyman)とオリバー・ホームズ氏(Oliver Wendell Holmes Sr)が召喚された。事件が医学部で起こったため、遺体を詳細に調べる施設や人材は揃っていた。ワイマン氏は1850年3月19日に始まった公判で、見つかった骨から推測される全身像を再構成し、それが5フィート10インチの背格好がよく知られたパークマン医師に合致することを示した。ホームズ氏は、左肋間に見つかったナイフ傷が致命傷であろうという見解を示した。

グレーに塗られたのが見つかった部分。暖炉から見つかった義歯も示されている。白い部分は見つかっていない部分を示す。見つかった骨より再構成した骨格が、よく知られたパークマン医師の姿に一致するとされた。米国立医学図書館より引用 (9)

歯科照合、初めて公判で提示される

後にハーバード大学歯学部を1867年に創設することになるパークマン医師の歯科医であったネーサン・キープ氏(Nathan Keep)からは、本公判で最も重要となる証言がなされた。彼は、ウエッブスター氏の研究室で見つかった義歯が1846年の秋に自身が施した歯科治療によるものと証言した。キープ歯科医は、パークマン医師の左下顎が特異で苦労したことから、本件には確信があったのである。公判でキープ氏は暖炉で発見された義歯が自身の作成したパークマン医師の下顎の石膏義歯床にいかにピッタリ合うかということを実演してみせた。感極まったキープ氏は涙したと言われている。彼は、石膏義歯床がパークマン医師のために作ったという刻銘を証拠として示した。これを持って、アメリカで法歯学的証拠が提出された初めての公判となった。
 
これに対し、弁護側は、やはり医学専門家を擁し、提示された証拠が本人同定の根拠としては不十分であり、状況証拠にすぎない、とする反論を試みた。エーテルを使った全身麻酔で有名な歯科医ウイリアム・モートン(William T. G. Morton)は、自分の作成した義歯からこの義歯床にピッタリと合うものを探すことは可能だと証言、実際に自身の作成した義歯がこの義歯床に適合する実演もしている。これに対し、検察側は、3人の歯科医から、自身の作った義歯は作成した視界は間違いなく認識することができること、また1人の医師からは遺体の状態が、失踪してから経過した時間と辻褄が合うことなどの追加証言を得ていった。

パークマン医師の義歯とキープ歯科医の作成した石膏義歯床は、ハーバード大学医学図書館に保存、展示されている (10)。
ハーバード大学医学図書館5階にあるハーバード大学医学史博物館
ハーバード大学医学図書館。希望者にガイドツアーを施行している (11)。
ハーバード大学医学図書館内部

ついに評決下る、絞首刑へ

アメリカの裁判では、19世紀でも今でも有罪は一般から選抜された陪審員の評決による。19世紀の裁判では特に、殺人事件での有罪確定には「確実」性が重視されていた。つまり、遺体は確実にパークマン医師のもので、ウエッブスター氏が謀殺したのは確実で、それが殺意を持って行われたことが明確である必要があった。評決の日、マサチューセッツ州最高裁判所の首席判事のショー氏(Lemeul Shaw)は、12人の陪審員に、本事件では「合理的な疑問を残さない」程度で有罪評決をすれば良いと指導した。これは、当時のヨーロッパの一部や現代の裁判では通例であるが、1880年代のアメリカにおいては通例ではなかった。3月30日、3時間弱の議論の後、陪審員は「有罪」との評決を出した。パークマン医師が裕福な著名人であり、歯科的な証拠だけでなく、背格好がよく知られていたことが陪審員の有罪評決には好意的に働いたであろう。これを受け、ウエッブスターは4月1日に絞首刑の判決を受け、1850年8月30日に刑が執行された。

この裁判の様子は、克明な記録が残されており、出版もされている (12)。

法科学史に燦然と輝く業績

本公判では、法歯学的手法が人物照合に初めて使われた。発見された義歯と歯科医に残されていた石膏の義歯床が、バラバラ遺体はパークマン医師のものであるという決定的な証拠とみなされた最初の例である。150年後の現在でも、歯科治療の記録は法科学の有力な手がかりとして使われ、キープ氏の義歯床と同様に人物照合に使われている。

ウエイマン氏やホームズ氏は近代的な法医学のトレーニングは一切受けていなかった。しかし、その解剖学的知識と手法は確実で、そのアプローチは基本的に現在の法人類学でも使われている。ハーバード大学医学部はこの事件をきっかけに19世紀の法人類学をリードしてゆくことになる。ホームズ氏の後を継いだトーマス・ドゥワイト氏(Thomas Dwight)は法人類学の父と呼ばれ、1894年にはジョージ・ドーセイ氏(George Dorsey)がアメリカで最初の人類学の博士号をハーバード大より授与されている。この事件がなかったら、法人類学という概念の確立は相当に遅れていたであろう。

世紀の事件、その後

今回の事件で最後に笑ったのはリトルフィールドであろう。医師であり、高名な鉱物学者で、ハーバード大学教員であったウエッブスターがボストンの上流階級の仲間であったことから、最初はウエッブスターに擁護的な見方をするものが多かった。第一発見者であり研究室に自由に出入りできる用務員のリトルフィールドが懸賞金欲しさに仕組んだ罠だという見方も有力であった。しかし、公判での彼の毅然とした態度により、リトルフィールドに対する疑念は次第に晴れていった。彼はウエッブスターの公判後、懸賞金3000ドル(現在の1000万円ほどに当たる)を受け取り、待ち望んだ引退生活に入ることができたのである。

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