八百万の神と新時代の考え方。

古くから日本には八百万の神と言うすべてのものに神が宿ると言った教えがあった。

今回は宗教の教えに関する深い考察はしない。

今回考察したいのは八百万の神と言う教えを浸透させようとした人の意図に関しての考察をしたい。


そもそも八百万の神とはざっくりいうと、すべてのものに神が宿るという教えでその辺にある石や木にも神が宿るので大切にしようと言った考え方である。(その辺の深い考えが間違っていて気分を害したなら申し訳ない。)


昔の人はこの考えをなぜ浸透させたのか私なりの考察をしてみたい。

動物であった人間は道具を使うようになり火や土地の開拓の技術など動物には思いつくことのできない事な事をするようになった。


火を使うことや開拓をする事は自然や他の動物から土地や文化を奪う事であり自然から人間が距離を置くすべとなっている。

人間は人間が生きやすいように世界を変えるすべを覚えて、自然や動物から距離を置く方法を覚えた。


それは同時に自然や動物から自由を奪ってしまう形になってしまうが人間は生きる為に開拓を進める。開拓を進めれば自分たちのルールが広がっていくからである。


それを危惧した人達は宗教を使って、人が自然や動物が全てを奪ってしまうのを抑えるために、八百万の神と言った全てのものに神がいることにして、偉大な自然に、尊厳や、畏怖の念を与えることにより、人に恐怖や畏敬の念を持たせたのではないだろうかと思う。


情報社会になった現代では自然が破壊されて八百万の神が破壊されても、呪いや不幸などがない事が情報やデータとして学び、八百万の神を誰も信じる事がなくなりつつある。

かつて恐怖や尊厳の対象であった自然は人間の情報により開拓が行われるようになわれるようになった。

その結果、山から木がなくなった事で土砂崩れがおこったり、川を開発したことで液状化現象がおこったり、山で綺麗になっていた水が山がなくなった事で飲めない水になっていたり、地球の温暖化が自然が少なくなることによって進んだり、開拓した自然から潜んでいた未知のウィルスが人間界に現れたりしている。


結果を知ってか知らずかはわからないが、昔の人は八百万の神と言った言い伝えによって自然に恐怖や尊厳を人々に与え、人類の過度な進歩を抑えていたのではないだろうかと思う。


宗教がフラットになった現代、神のいなくなった現代では、情報という新たな神に従っている。

情報と言う神と人類は共に新たな答えを見つけなければならないのではないのだろうかと思う。

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