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『しゆ』と『呪』

自分が何者であるかを縛る。

怖い話ではない。
女装をしているときの名前を『しゆ』と云う。
この『しゆ』という人物には前期と後期があり片方を『欠片野しゆ』と云い、もう片方を『乱童SLC呪』と云う。
どちらも名前の読みは『しゆ』だ。
現在は『呪』の方のしゆさんとして活動している。

『しゆ』と『呪』の違いについて色々と考えていた。
少し前に『自分が愛しているのは自分自身であった』という事を書いたんだが、それからというものメンがヘラることが無くなったのだ。
どうもしゆさんと現在の呪さんでは、このメンタルの状態の違いがネックになっているのではないかと思い至った。

メンヘラで在るが故に因り人に愛されようとしたしゆさん。
愛しているのは自分だけなので、自分が自分を愛せるように好きなようにしようと思った呪さん。
この違いである。
そう都合をつければ納まりが良い。
思えばしゆさんだったころは色々ともがいて居た気がする。

『欠片野しゆ』としての妾は、結果として沢山の方に愛していただけたので、メンタルは酒さえ飲まなければ安定して居たし、私生活でもやたらめったら優しく成ったので、名前の楔を解いて一人の人間として見た時も、いい傾向だったと思える。

然し、矢張りそこは他人在りきで、自分自身で『安定』を生成できないので、現在の呪である方が気持ちが楽である。
自分は自分を愛しているのは知っているので、自分の好きなように行動すればいいのだから楽なのだ。

因って、私はこれからも好きに生きるという意味で『呪』のしゆさんで居ようと思う。

『呪』についての解釈等。

『呪』という漢字をなぜ使うのか。という点に説いては過去にも言及はしたのだが、夢枕獏の陰陽師シリーズで『呪』をしゆと呼ぶからである。
因みに、欠片野しゆのしゆは『雌雄』からきているのでそもそも漢字も違う。これは余談である。

『呪』について、妾の見解はこうだ。
もしかしたらどこかで読んだものを忘れてしまって自分の考えて紡いでしまっている可能性は否定できないので、妾の見解というのはちょっと違うかもしれないが、便宜上そのようにする。

思考はアナログである。
思考と思考の間は無限。はっきりと仕切られてカテゴライズされているわけではない。
然し言葉でデジタル化できる。
アナログである思考を言葉という記号で括る。
括った途端に思考と思考の間ははっきりと区切られてカテゴライズされる。
この言葉というものによりデジタルに切り分けられたのが『妾の考え』として整理される。
(ここまで書いて思い出したが、多分京極夏彦がこれを言っていた気がする)

言葉で括る。
『思考をデジタル化し、考えとして整理する』という行為こそが『呪』であると考えている。

形のないものに言葉で形を与えて縛る。
妾は『呪』をそのように理解している。

自分の感じたことを何とか言葉にしようと苦心している妾にピッタリなんじゃないかと思い、名前のしゆを『雌雄』から『呪』に変えた。

呪により形を与えたデジタルな言葉は、発して手放した後に誰かの目や耳にはいり脳へと到達する。
その後、デジタルとしての言葉は受け取ったその人の中で改めてアナログ返還される。
この際、妾の脳の思考と、受け手の脳の思考が全く別の物に変化することがある。
人それぞれ今まで生きてきた中での経験や学びや環境が全く違うので、それは当たりまえなのだが、これが原因でトラブルにつながることがある(そういうつもりじゃなかった。等)

なので、出来る限り勘違いさせないようにきちんと言葉を選び、丁寧に渡してあげないといけない。

今後こういう所までしっかりと考えて人と接していこうと思う。






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