第79回:「喜び」の3つの要素が「あり方」になる
今回は、「喜び」の3つの要素が「あり方」になる、ということを書いていきます。
どういうことかというと、「喜び」には、主に「気づき」と「行動」、「結果」の3つあり、これら3つの総和が人としての「あり方」になるということです。
たとえば、「何かをしよう」とか「何かをしたい」という「気づき」が「喜び」の始まりであるなら、それするという「行為」も「喜び」です。
また、楽しんでできたという達成感や周囲からの評価という「結果」も「喜び」であって、「気づき」、「行動」、「結果」の3つの「喜び」の総和が、その人の「あり方」を作っていきます。
そして、この3つの「喜び」の中でも、「行動」が一番大きな要素であり、この「行動」の部分を充実させていくことで「喜び」の総和を大きくしていくことができるようになるでしょう。
ちなみに、私の「気づき」:「行動」:「結果」の「喜び」の割合は2:6:2ぐらいの感覚だったりします。
「充実感」を得るという喜び
私は、以前、ある施設の職員として、その施設で暮らしている人の生活を支援するという仕事をしていたことがあります。
その施設での仕事は、対人支援をはじめ、掃除、洗濯、食事作りが主な仕事で、私が一番楽しいと感じていたことが食事作りでした。
食事を作ることは、それまで自分や家族、知人のためにすることはありましたが、それ以外の人に、しかも仕事として食事を作って提供するということは初めての経験でした。
そこでの食事作りは施設で暮らす人とスタッフの分を合わせて一度に10人分くらい作ることになり、たとえばお昼ご飯を作るとなると、10時くらいから2時間かけて一人で作ることになります。
食事を作り提供するということを始めた当初はプレッシャーに感じることもありましたが、慣れてくると一番楽しい仕事となりました。
その施設では、何を作って提供するかは、そのときの冷蔵庫などにある食材を見ながら自分で考えるというやり方だったため、食事担当の日は、朝、出社して食材を見て、何を作るかとということを考えるところから始まります。
食事は、基本的にご飯、味噌汁、おかず、副菜2品になるので、ご飯を除いた4種類を作らなければなりません。このため、お昼ご飯を作るまでの2時間で、献立を考え調理する順番を決めて、同時進行でいくつかの料理を作り、最後に盛り付けをしていくため、かなりの集中力が必要でした。
しかし、この集中し頭を働かせ絶えず身体を動かし、我を忘れている瞬間に私は楽しさを感じるようになります。しかも作った物を「美味しい」といって食べて貰えるとさらに嬉しい気持ちになるものです。
施設で働き始めた頃は2時間ですべてを作り終えることができませんでしたが、慣れてくると予定通りにテーブルに食事を並べられるようになり、料理のレパートリーも増えていきます。
休憩時間には、料理の本を読んだりして、次は何を作ろうかと考え、新しいメニューにチャレンジします。
こういった感じで、何を作るか考え、実際に作って提供し、そのの評価を得るという循環に楽しさを感じるようになりました。
特に、夢中になって調理をしているときには、なんともいえない充実感を得ることができたし、テーブルに料理したものを並べたときの安堵感や達成感が「喜び」という手応えになったといっていいでしょう。
「充実感」から生きているという実感を得る
何によって充実感を得られるかということは、人によって異なるものですが、何かに夢中になるという感覚は誰もが同じように持っているものだと思います。
特に、集中して何かをしているときの「我を忘れて何かをしている感覚」は、すべての人に共通するのではないかと思います。
この「我を忘れて何かをしている感覚」は、年齢も性別も職業も役職も関係ないものであり誰にとっても同じものといっていいでしょう。
幼い子供が夢中になって遊んでいる感覚も、大人が夢中になって仕事をしている感覚も、その質は一緒のはずです。
つまり、「我を忘れて何かをしている感覚」は、年齢や性別、職業や役職といった「自我の要素」を忘れさせるものであり、人としての「本質」を感じさせるものなのです。
こういった「忘我」の感覚は、誰にでも備わっているものであり、この「忘我の感覚」が「喜び」の本質なのではないかと思います。
そして、我を忘れて夢中になれる時間をたくさん作って行けるようになると、生きることが楽しくなっていきます。
人が夢中になって何かをしていると、新しいアイデアが浮かんでくるものであり、そういった「気づき」が喜びになります。
また夢中になって何かをし「行動」ていると、それだけで技術を身に付けられるようになります。
さらに夢中になってしたことで得た「結果」からも、新たな「気づき」を得ることができるでしょう。
こういった「気づき」「行動」「結果」の「喜び」の循環から得た経験は、何か別なことをするときでも応用できるものであり、我を忘れて夢中なれることをたくさんしていると、自分に自信を持てるようになり新たな可能性も広げていけるようになります。
「気づき」「行動」「結果」の3つの「喜び」を循環させる
何かに気づいても、何もしなかったら結果を得ることができないものであり、動機だけでは何もしないのと一緒です。
たとえば、映画についての感想は、実際に映画館に足を運んで映画を観ないと語ることはできません。
また、その映画の善し悪しは、夢中になって観ることができたかどうかで判断することになります。
「喜び」の感情を得られたかどうかは、映画を観ていて楽しいと思えたかどうかと一緒で、それをして最中に夢中になれたかどうかで判断できるものです。
こういったことから、「喜び」の中でも「行動」の部分に「楽しさ」や「嬉しさ」を感じられるかどうかが一番、重要だったりします。
何かに気づいて、それをやってみようと思うことも「喜び」です。何かをし終えて達成感を得たり、他者からの評価を得ることも「喜び」です。しかし、一番胆になるのが、夢中になってそれをしている瞬間だったりします。
さらに、楽しさを感じながら行動しているときに、たくさんの「気づき」が生まれるものです。
このことは映画を観ながら泣いたり笑ったりすることと一緒で、何かをしている最中に感じたことが大きな「気づき」となるものです。
もちろん、やり終えたあとの「結果」からも「気づき」を得ることもできますが、比重としては行動している中から得られる「感覚的な気づき」の方が大きいように思います。
いずれにせよ、楽しいと感じて夢中になる「行動」を中心に、「気づき」「行動」「結果」の3つの「喜び」を循環させながら、「喜び」を感じて生きていけるようになると毎日が楽しくなっていきます。
「気づき」「行動」「結果」の「喜び」が「あり方」になる
「気づき」「行動」「結果」の3つの「喜び」を循環させて、ひとつの「喜び」の形にすることができたとき、それがその人の「あり方」になっていきます。
たとえば作家とか画家とか料理人というような肩書が一つの「あり方」の名称になっていたりします。
しかし、そういった肩書は関係なく、心から楽しいと思って何かをすることができると、それがその人の「あり方」になるものであり、毎日を「喜び」の循環の中で過ごしていけるよういなると、それがその人の「あり方」になっていきます。
また「喜び」の「あり方」もひとつに限らず、食事を作るといったことや散歩をするというような日常の一場面の中にも「気づき」「行動」「結果」の循環を作ることができ、生活そのものを「気づき」「行動」「結果」の循環の中で過ごせるようになると、存在そのものが「喜び」となって、それがその人の「あり方」になっていくことでしょう。
いずれにせよ、どんなことでもいいので、心から楽しいと思えるようなことを日常の中心に置くことができるようになると、「私」という存在を「喜び」にすることができるようになり、今度は周囲に「喜び」を与える存在へと変わっていくことになります。
こういった誰もが存在として「喜び」となることができるようになると、世界のあり方が「喜び」となって「喜び」を創造する社会へと変わっていくことでしょう。
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