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感じて気づいて、人は進化していく

昨日のつぶやきで、次のようなことを書いた。

意図して五感を活用していると、その感受性によって思考する力が高まっていく。

この一文は、事前に用意していたわけではない。

ただ、この前の文章を書いていて、ふと思いついた。

文章を書いていると、こういったことが思い浮かんでくるから、楽しいし辞められない。

といったわけで、今日の本題は、感じることの大切さについて。

たとえば、街を歩いていて風が吹いてきて、身体で風を受けることで心地よいと感じる。

これは、身体で風を受けたことで、心地よいという思考が生まれたといっていい。

つまり、感じたことを言語化したものが言葉になる。

だから言葉が出てくるということは、まず感じることが先にあるということ。

であるならば、言葉を持つということは経験するということといっていい。

今の季節、窓を開けると心地よい風が入ってくる。

これは、「春の晴れた日に窓を開けると心地よい」という経験則から生まれた認知である。

とはいえ、夏に窓を開けると暑くなるし、冬に窓を開けると寒くなるということも我々は知っている。

こういったことも、四季を身体で感じて得た経験則から生まれる認知であり、感じることがあるからこそ、「暑い」とか「寒い」とか「心地いい」というった言葉が生まれ、それらを繰り返して経験則となり、その経験則を通じて、それぞれの季節の対応の仕方を使い分けるようになっていく。

だから、人は様々な経験をすることで言葉を持てるようになっていく。

ヒマラヤに登頂した人は、ヒマラヤを登頂したことで感じたことを言語化することができ、それがその登頂者の言葉となることだろう。

経験することで認知が生まれ、その人独自の言葉を持てるようになっていく。

様々な経験があるからこそ、いろんなことを知ることができ、自分の言葉を持てるようになる。

「知る」とは「気づくこと」であり、その気づきを言葉にあてはめていくこと。

そして、人はたくさんの気づきを得ていくことで、やがて抽象度の高い言葉を持てるようになっていく。

前回、「幸せ」は、「愛」や「平和」をイメージするところから、という記事の中で、「愛」や「平和」は抽象度の高い言葉だということを書いた。

「愛」や「平和」は様々な意味性を包括する言葉であり、そういったすべてを包み込んでしまうような言葉だからこそ、抽象度の高い言葉になる。

「愛」や「平和」という言葉には、戦争も差別も悲しみも存在しない。

あるいは「愛」や「平和」には、境界も所有という概念も含まないということもできる。

戦争や差別、悲しみという言葉は、限定的である一方で、「愛」や「平和」は、いろんな言葉を包括している。

「愛」や「平和」を別な言い方をするならば、ネガティブな要素が一切ない状態といってもいいかもしれない。

「愛」や「平和」には、「喜び」や「自由」といった言葉も含まれている。

色々な要素を含む言葉が抽象度の高い言葉といっていいだろう。

こういった「愛」や「平和」といった抽象度の高い言葉を理解して使えるようになるのには、経験が欠かせない。

様々な経験を通じていろんな言葉を得ていった先に、「愛」や「平和」といった抽象度の高い言葉にたどりつく。

幼い頃、兄弟や友人同士でケンカをするものであり、こういった経験から怒りの気持ちを認識するようになる。

しかし、ケンカを重ねていると心も身体も傷つくことになるため、もうケンカはしたくないと思うようになる。

このケンカをしたくないという思いは、ケンカをしてきた経験から生まれる気づきであり、それが新しい認知となって、ケンカをしないような行動を取るようになっていく。

そういった経験を通じて、人と仲良くなる方法を身に付けていく。

もちろん、ケンカをしなくなったからといって、すぐに「愛」や「平和」の認識にたどりつけるわけでなはい。

「愛」や「平和」の認識にたどり着けるようになるのには時間がかかる。

「愛」や「平和」は、様々な経験を色々な角度ですることで認識できるようになっていく。

人生を通じて様々な経験をして気づきを得ていくことで、「愛」や「平和」の認識にたどり着けるようになる。

人生とは、色々な経験をする場なのだ。

不安な気持ちを感じたり苦しい思いをしたり、嬉しいかったり悲しかったり、楽しいと感じたりする経験をして、そういった経験から得た気づきを包括していった先に「愛」や「平和」の意識に近づいていいけるようになる。

苦しみや悲しみも、喜びや楽しさといった様々な経験から、「愛」や「平和」といった意識を獲得できるようになる。

だから、経験したことに何ひとつとして無駄は存在しないということができる。

経験のすべてが、「愛」や「平和」といった抽象度の高い概念に向かわせている。

我々の全ては、「愛」や「平和」の意識に向かって様々な経験をしているものであり、そういった様々な経験の中から気づきを得ながら、それを新たな経験に変えていくという過程を絶えずしている。

我々は、なぜ生きるのか。

この「なぜ」の部分が、不明確だったりする場合が多い。

なぜ学校に通うのか、なぜ仕事をするのか、なぜ結婚をするのか。

学校や仕事や結婚という経験を重ねていくことで、自然と「なぜ」の部分が明確になっていく。

この「なぜ」を知り、それを目的に変えていけるようになるとシンプルに生きていけるようになる。

そうやって明確になった「なぜ」を見つけることができるようになると、その目的に向かって生きていけるようになる。

そして、「なぜ」の答えを見つけることができると、これまでの経験のすべてを肯定できるようになっていく。

「なぜ」を知るには経験が欠かせない。

様々な経験を通じて様々なことを感じ、それらの一つひとつから気づきを得て、さらに新たな経験を積み重ねていく。

そうやって経験を重ねていくことで「なぜ」を発見できるようになり、その「なぜ」を目的に替えて生きていけるようになる。

感じることは気づくことであり、そういった気づきによって人の行動原理を創っていく。

一度、創った行動原理を大切に守って生きてもいいし、新しく作りなおしても構わない。

それは、個人の自由である。

ただ新しい気づきを得たなら、それをもとに変化させていかないと進化していくことはないだろう。

我々は、常に進化の過程にいる。

我々が、そういった進化の過程に存在することができたとき、人は「幸せ」を実感できるようになるだろう。

「幸せ」という言葉も「愛」や「平和」と同様に抽象度の高い言葉である。

「愛」や「平和」を感じるとき、人は「幸せ」を感じるようにうなる。

「幸せ」とは、「愛」や「平和」と同意だといっていいだろう。

抽象度の高い言葉を行動に変えて生きていく。

これができれば、生きる目的を達成できるようになる。


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