「幸せ」は、「愛」や「平和」をイメージするところから
マザー・テレサの名言のひとつに平和運動にちなんだ言葉がある。
反戦運動と平和運動は似て非なるものである。
反戦運動と平和運動、このふたつがどう異なるかというと反戦運動は戦争に意識がフォーカスされているのに対し、平和運動は平和に焦点が当たっていること。
反戦運動をすると頭の中で戦争をイメージするするものだが、平和運動をすると頭の中で平和な世界をイメージすることになる。
どちらも戦争を否定しているものの、頭の中で戦争をイメージすると平和な世の中をイメージするのでは、その意味性が異なる。
我々は、イメージしたことを現実化する力を持っている。
反戦運動をするということは戦争の場面を想像するということになるため、皮肉にも戦争を助長してしまうことになってしまう。
だから、マザーテレサは反戦運動には参加せず、平和運動に喜んで参加するという。
戦争の場面をイメージするよりも、家族を愛する姿を思い描いた方が平和に近づくことができる。
また平和運動は、戦争だけではなく貧困や差別といった様々なネガティブな要素も超える運動であり、我々が、平和な世界のをイメージするだけで、より平和的な世界を生み出せるようになっていく。
平和という言葉は、抽象度が高い。
また、愛という言葉も平和と同様に抽象度の高い言葉でもある。
愛ある姿をイメージするとき、平和の様子を思い浮かべることになる。
逆に平和をイメージすると、そこには愛のある場面を想像することになるだろう。
つまり、愛と平和は同意なのだ。
マザー・テレサは愛と平和という抽象度の高い言葉をふたつ並べることで、我々にポジティブなイメージの反復をさせている。
戦争に対して反戦運動をするということは、戦いの意識を使うことになる。
戦いに戦いの意識を使っていては、終わりを迎えることがない。
戦争に対して反戦活動をすると、反対する側も苛立ちを感じるようになるし疲弊もする。
また、そういった運動をすることで抑圧されたりすることもあるため、ますます争う気持ちが生まれてしまう。
よいと思われることでも争う気持ちで何かをすれば、その反動で何かしらの抑圧を受けることになる。
どんなことでも争う気持ちは、やがて自分の所に返ってくる。
だから、戦争を続けている限り、この世界に争いが止むことはない。
しかし、愛の意識を持って何かをすれば、それがいつかは相手に伝わっていくものであり、最終的には愛の意識が平和を導くことになるだろう。
マハトマ・ガンディーはそうやって、イギリスからインドの独立の礎を築いた。
平和や愛の意識からは争いの意識は生まれることはない。
だから、キリストは「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という。
右の頬を打たれて殴り返せば、争いが止むことはない。
争いからは何も生まれないということをキリストは知っているから、あるいはガンディーやマザー・テレサも戦いからは何も生まれないということを知っているから争うという選択をすることはない。
むしろ、彼らは愛や平和の意識をふんだんに使い、多くの人に愛や平和をイメージさせようとする。
キリストの代名詞は「愛」といっていいだろう。
彼は、愛という言葉を惜しむことなく使い、愛のある姿や景色を人々に想起させていた。
そして、多くの人が愛ある姿やその景色をイメージして祈りに変えれば、それが我々の集合意識となり、愛のある平和な社会を生み出すことができるようになる。
そういった祈りを多くの人がすれば、それが人々の共通認識となって世界を変える力となる。
だからこそ祈ることが大切であり、より具体的に平和で愛のある世界を思い浮かべることが大切なのだ。
ジョン・レノンの「imagin」は祈りの歌だ。
彼の歌詞は、我々に自然な形で愛や平和を想像させる。
我々が目指す世界は、すべての人が平和に穏やかに暮らせる世界だ。
世界中の人が愛と平和で生きている姿をイメージし、それを祈りに変えれば、その思いは必ず伝播し広がっていく。
諦めることなく愛と平和で生きている人々の姿をイメージしていけば、やがて身近なところから変化が起こり始める。
そういった変化は、いつでもどこでも誰でも起こすことができる。
それが祈り(意の理)の力だ。
我々には、想像する力があり、この力を使っていけば、新しい世界を創造することができるようになるだろう。
「幸せ」は、「愛」や「平和」をイメージをするところから始まる。
愛や平和に満ちた世界を創造すること、それが我々の願いでもある。
意識を向けるのは常に「愛」や「平和」の方なのだ。
いつもサポートありがとうございます。感謝ですー😆👍💓