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第87回:「喜び」で飛躍する!!

今日は、「喜び」とは何なのかを、「パワーか、フォースか」の意識のマップを使って分析していきたいと思います。

*赤い線や文字の色は私の好みで付けています

こちらは、私の記事で度々紹介させて貰っている「パワーか、フォースか」の「意識のマップ」のポジティブな意識の部分だけを注目した表です。

ご覧のように「喜び」はポジティブな意識の中でも上位の意識であり、人が「喜び」を多く感じられるようになると、生きることそのものが喜びになるといっていいでしょう。

この「意識のマップ」の中央にある「レベル」の欄にある9つの言葉の「勇気」の意識から「悟り」に上がっていくにつれて「思考」より「感性」が強くなっていくということに、最近、気づきました。

下の図は、このことを表したものです。

なぜ、こういうことを思いついたかというと、天気のよい暖かいある日、ぼんやりとしたなかで「幸せ」を満喫していたら、今日は、何をテーマにして記事を書こうかと考えていても「思考」がほとんど動かなくなってしまい、何もできなくなってしまったからです。

その日は、いい意味で「やる気」が全く起きず、夕方になる頃に思考が働き始めます。

そして、その日の幸せ体験を振り返っっていたら、ふとした拍子に、その経験が「意識のマップ」と合致し、上の図のような、人の意識の中で上位の意識であればあるほど、「感性」が強くなっていくというひらめきを得ることが出来たのです。

特に「愛」や「喜び」、「平和」の意識は「感じる」ことで得られる意識であり、感性が強くなっていけばいくほど、人の意識は上位へと上がっていくということが理解できました。

もちろん、「愛」や「喜び」や「平和」について「思考」することはできます。

しかし、「愛」や「喜び」や「平和」はやはり感じるものであり、人が「幸せ」を感じれば感じるほど、「思考」が弱まっていき「感性」が強くなっていくものなのです。

また、「意識のマップ」で「愛」や「喜び」や「平和」より上にある「悟り」の意識とは、まさに思考で捉えることができる意識ではありません。

思考で捉えることが難しい状態とは、言語化が難しい状態といってもいいででしょう。

こういったことは、人の「感性」が上がっていくと、波動が軽くなるということであり、反対に「思考」が強くなると人の波動が重くなるということを意味しています。

人は、意識がネガティブになっているとき思考は絶えず働いています。

人が思考のループにはまっている最中は気分が重くなるものであり、何かに悩んでいる人は、どんよりとした重さを感じたりするものです。

その一方で、幸せな気分を感じているときは、気分は軽くなるものであり、その人が出している波動も自然と軽くなるものです。

こういったことから、人の「幸せ」である「愛」や「喜び」、「平和」を感じている状態は、それだけで波動が軽くなるものなのであり、人の意識が上がっていくにつれて、思考の働きが弱まって感性が強くなっていくものなのです。

人が感覚の中にいるときは「今」にいるときです。

思考は「今」を考えることが出来ません。

思考の対象は常に「過去」と「未来」だけであり、「今」に意識を向けると、人は感覚に身を委ねるしかありません。

このため、人が幸福感に浸っていると、思考が弱まっていき自然と感性が強くなっていくものなのです。


わたしがすごく大切だと思ったのは、感情がからだにどのような影響を与えるか、ということ。喜びというものは、からだの中の感覚だったのです。平和も、からだの中の感覚でした。

「奇跡の脳」(新潮文庫)


これは「奇跡の脳」という本からの引用ですが、私たちが「喜び」や「平和」を感じられるようになると「からだの中の感覚」と一体となっていきます。

人は「感じること」と「思考を働かせること」を同時に行うことはできないため、からだ全体を使って「幸せ」を感じていると「思考」がぴたりと止まってしまうものなのです。

これが「瞑想」の状態です。

このため、人が幸せになるためにすべきこととして、感性を豊かにしていけばいいということになります。

よく生きるには、感性を豊かにすればよい。

人がよく生きるのは、簡単なことなのだ。
それには、感性を豊かにすればよい。

身体を通じてものごとを感じれば、
自分がどうすればよいか、
自分がどのようにすればよいか、
ただちに分かる。

このように感性が豊かに機能して、
生き生きと生きる状態を、
「仁」と呼ぶ。

人間ばかりでなく、天地もまた、感性を持っている。
もし天地が、その感性を失って、「不仁」であるなら、
天地は万物を無慈悲に扱うだろう。
しかし実際には、天地は常に仁である。

もし聖人が、その感性を失って「不仁」であるなら、
聖人は、人々を無慈悲に扱うだろう。
しかし実際には、聖人は常に仁である。

「老子 あるがままに生きる」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)


こちらは「老子 あるがままに生きる」という老子道徳経の超訳本のからの引用ですが、人は「感性を豊かにすればよく生きられる」とあります。

マインドフルネスとは、現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程である。瞑想、およびその他の訓練を通じて発達させることができるとされる。
語義として「今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに捕らわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。 しかし、とりわけ新しい考え方ではなく、東洋では瞑想の形態での実践が3000年あり、仏教的な瞑想に由来する

ウィキペディアより

こちらは、ウィキペディアからのマインドフルネスの引用です。

マインドフルネスとは、今に意識を向ける行為であり、今に意識を向けるということは、感覚に意識を向けるということでもあります。

そして、意識を徹底的に「今」に向き合うことが出来るようになると「喜び」や「愛」、「平和」という幸せの感覚を味わうことが出来るようになっていきます。

私が天気のいい日に、幸せを感じていたときに思考が止まってしまったのはこういった状態にあったためです。

マインドフルネスや瞑想をする理由は、「喜び」や「愛」、「平和」といった「幸せ」の感覚を得るためであり、「意識のマップ」にあるような上位の意識を、思考で得るのではなく体感として得るためといっていいでしょう。

つまり、マインドフルネスや瞑想は、意識を下から順次上げていくのではなく、感性に磨きをかけていくことでダイレクトに「幸せ」を体得しましょうというアプローチだったりします。

もちろん、マインドフルネスや瞑想をしなくても「喜び」を感じられるようなことをして過ごしていると、「喜び」はもちろんのこと「愛」、「平和」も感じられるようになるものです。

なぜかというと、人が「喜び」の意識の中で何かに没頭できているときは「感性」の中にいることになるからです。

だからこそ、老子は、「よく生きるには、感性を豊かにすればよい」というのです。

そこで、私たちが「幸せ」に過ごしていけるようになるには、感性を豊かにし、難しいことを考えるのをやめて、「喜び」や「平和」、「愛」の意識を体感として得ることが出来るようになることが大切だったりします。

そして、感性を豊かにして、生きる原因を「喜び」や「平和」、「愛」に置くことが出来れば、それに付随するような形で、結果も「喜び」や「平和」、「愛」に繋がっていくものです。

また、感性を豊かにしていると、直観という「気づき」を得ることが出来るため、この直観という「気づき」によって人の精神性がさらに高まっていきます。

こういったことを念頭に置き、人が感性や感覚に着目して生きていけるようになると、跳び箱の前にあるジャンプ台を使うような感じで、少ない力で高く飛べるようになったりします。

感性でジャンプする、そんな生き方が主流になる時代がくるといいなと思います。

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