私の中の「自然」に気づくとき平和が訪れる
個人が抱える葛藤のひとつとして、「やりたいのにできない」とか「やりたくないのにしなければならない」といったことが上げられる。
こういった状態にあるとき、自分自身を前に進ませることができないため、苛立ちを感じたりするものであり、それがストレスとなる。
人はストレスを感じて過ごしていると、心身ともに疲弊してしまうものだから、こういった葛藤を手放すことができれば、ストレスを軽減させることができスッキリとした気分で生きていけるようになる。
このため、「やりたいのにできない」とか「やりたくないのにしなければならない」といった思いの片方を変える、つまり「やりたいからやる」、「やりたくないからやらない」と決めれば葛藤を手放せるようになる。
とはいえ、「やりたいのにできない」とか「やりたくないのにしなければならない」といった思いが生まれるのは、現代社会のシステムでは当然のこととでもある。
現代社会のシステムは、いわばお金というシステムによって我々の自由に制限が掛けられているため、葛藤が生まれやすい社会となっている。
だからこそ、多くの人が葛藤を抱えて生きるようになる。
僕自身も、こういった葛藤に散々振り回されたし簡単に手放すことはできることではなかった。
しかし、そういった制約を感じることもなく自由意思で生きることができれば、我々は、自然と進化・発展できる存在なのだ。
だからこそ、そうさせないように今の社会のシステムはできているといってもいし、現在の社会は、ある意味で我々の力を削ぐためにできているシステムといってもいいだろう。
つまり、こういったシステムを生みだした「彼ら」は、我々の本質を知っているのだ。
逆にいえば、彼らのやり方は非常に的を得ている分、そこに答えが隠されているということもできる。
さらに、もう少し高い視点で見るならば、我々の魂は敢えて制限のある世界に望んでやってきている。
「自分とは何か」を知るために、今の制限のある世界に望んでやってきて、葛藤を抱えるという経験をするためにこの世界に生を受けている。
そこで、この制限のある社会の中に身を置くことで「自分とは何か」を知るために生まれてきているということを認知できたのであれば、それこそ勇気を出して自分の意志を優先させて、葛藤を手放す選択をしてもいいだろう。
自分を肯定するには、自分が肯定できることをすればいい。
自分を受容するには、自分が受容できることをすればいい。
肯定できないことをするから葛藤が生れるものだし、受容できないことを敢えてする必要はない。
むしろ、自分の心が望むことをしていった方が、生き方として健康的だ。
我々は葛藤を抱えやすい社会の中にいるけれど、だからといって選択の自由がないわけではない。
無理をしてやりたくないことをして生きる必要はないし、やりたいと思えることをして生きることの方がむしろ自然な生き方といえるだろう。
昨日のつぶやきで以下のようなことを書いた。
このつぶやきの真意は、我々は進化・発展できる存在であり、そのことに気づくことができれば、今のシステムに生かされるのではなく自分を生きることが出来るようになるということ。
自分を生きることができれば、それが喜びに変化していく。
そして、一度、勇気を出して「自分を生きる」ことにフォーカスを当てることができれば、自然と成長・発展していくものであり、あとは今この瞬間に心を込めて楽しんで過ごしていけばいい。
勇気を出したからといって肩に力を入れて生きていては、上手くいくことも上手くいかなくなってしまう。
自分を生きるということは、リラックスした中で今という瞬間を楽しんで生きるということであるから、あとは自然体で、自分が望んだことを淡々と楽しんでいけばいいだけのこと。
そうやって流れに乗って楽しんで生きていけば、自分の素地を活かて生きていけるようになるだろう。
勇気とは飛躍を起こすパワーであり、そのパワーの流れに乗って生きていけばあとは自然の流れを楽しんで生きていけばいい。
夢中になれることは、余計な力を使わなくても自然と楽しめるようになるものであり、それこそ自然体で存在すれば、どんどん前に進んで行くようになる。
肩肘を張って生きていると、あちこちにぶつかって傷ついてしまうけれど、水のようにナチュラルに生きていれば、自然が生み出す循環の中で生きていけるようになっていく。
そういった循環の中に自分自身の身を置くことができるようになれば、あとは流れに乗って楽しんで生きていけばいい。
勇気とは、不自然な世界から自然の世界に移行するときに使う意識なのだ。
これは、前回の記事で紹介した「パワーか、フォースか」という本からの引用である。
200という数字は、ポジティブな意識のいわば出発点となる「勇気」の意識であり、「もっとも高いレベルのすべてへの飛び石となるパワーが出現する臨界点」であるため、この臨界点を超える勇気を持つことができれば、あとは「受容」のレベルまで自然とたどり着くことができるようになるだろう。
勇気を出して臨界点を超えることができたなら、あとは日々を楽しんで自分を生きていけばいい。
そういった意識が「受容」を生み出す。
「受容」とは、心地よいと感じる自分を受け入れられるようになることなのだ。
不自然を自然に戻すためには勇気が必要になり、自分の中の自然を認めることが受容となる。
自分の中にある自然を認めて生きるとき、あとはその力学に従って無為に生きていけばいい。
無為に生きれば自然と喜びが湧き上がってくるものであり、その喜びに従っていれば喜びが循環していく。
そういった円環の世界で生きるとき、「私」に平和が訪れることだろう。
平和とは、私の中に潜む自然に沿って生きることでもある。
今を楽しんで生きるのが、我々の本来の姿である。
我々は、自分の中に潜む自然を知るために、あえて葛藤を抱えるようにできている。
だから、勇気を持って葛藤を手放してしまえばいい。
自らを分けるのではなく、然として自らを生かせばいい。
そうすれば、自然と受容が起こり内的な平和が訪れることだろう。
人は、私の中の「自然」に気づくとき平和が訪れる。
平和とは、自分の中に潜む自然の姿のことなのだ。
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