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20年間の社会と教育

20年ほど前に新卒の就職活動をしたのですが
結局、どこにも就職しませんでした(できませんでした)。

それまでの職(バイト)歴を思うと、
塾の仕事では活躍はしていましたが、他の仕事(ウエイター、テレアポ)は飽きてしまったり、これやる意味あるかな?と思って2,3ヶ月で辞めてしまうことも結構ありました。

ただ、就職活動中に思っていたのは
同業他社があるのに、なぜその会社で無くてはならないのかがよくわからなかったというもの。

サービスや物が一般化(コモディティ化)してきていて、各社それほど違いがないと感じ始めた、みながうすうす感じ始めてきた時代でした。
携帯のガラケーとか、通信会社とか、テレビとか、「ブランド」というものに拠らなければ違いを感じられないようになってきていました。

マーケティングがもてはやされ、有名人などのイメージで売るという段階から売るテクニックが洗練化され、人の感情に訴え、人を煽ったり時には騙したり、依存させたりも混在しはじめていました。

昔ならば、物がないから「こんなものありますよ」と宣伝すれば売れる。その時代が終わったのに、企業のありかたは当時は変わらずにいました。しかし最近になり大企業が不祥事で衰退したり、社会的責任を考えるようになり時間は変わりましたが外圧により変化してきたなと感じています。


一方、教育はどうかというと、同じです。教育と社会は、つながっていますよね。
同じ頃から少しずつ、ゆとり教育や総合学習などの言葉からわかるように、社会に合わせて科目学習や暗記学習に対して意味が薄れてきているのですが企業活動のマーケティングのように、いまだにいろいろなテクニックで勉強をさせようとしている。テクニックというと聞こえは良いですが、内申を使って将来の不安を煽って勉強させています。私立中の中には、教室に閉じ込めてずっと勉強させる「閉じ込め学習」をしているところも。人権侵害で尊厳を傷つけようが、お構いなしです。


本当に社会的にやる意味があるならば、もっとやるでしょう。でも子どもが素直な目でそう感じ取れない中で、大人がいろんな言葉やテクニック、うそっぽく誉めたり、叱ったりして机に座らせてやらせる。そこにうそっぽさがあるから、正面から子どもたちと話せず押さえ込むようなことをしてしまう。

なんか不幸じゃないですか?
これからの社会を担う子どもたちと、1人の人間として、ちゃんと向き合う話すことができないのって。

大学を出て就職活動をし、リーマンショックなど非正規雇用の様子を見て、不安がある中で、自分たちと同じように、もしくは同じにならないようにと前時代の成功ストーリーを追ってしまっている人も多いのかなと思っています。将来の不安、不幸から、子どもを閉じ込めてでも勉強させるのが正当化されるのでしょうか。

公立の中学校でもますます意固地に「机に向かって反復する」学習に傾倒して行っています。全員一律の課題がたくさんです。
大学に行かない半分ほどの子供にとっては、もっと別のことの方が大人になる前の知識としては必要です。課題を個別にするとか、なんでもっと議論にならないんでしょう。

会社は世界との戦いになり、変化を余儀なくされていますが、一方教育は変わっていない。企業のように外圧による変化も期待できない。

外圧ではなく大人が自立し批判的な思考を持つこと。
例えば年越し派遣村を見て、「ああ、自分は正社員でよかった」ではなく「どうして自分たちの友人や仲間がこんな思いをするんだ」という疑問を持てる人が、もっと増えないと。

これからの教育者のキーワードは「批判的な思考」だと思っています。自分自身も、生徒たちにあたえるものとしても。





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