不登校を乗りこえて5 もう一度夫婦として
この文章は、息子と娘が不登校になった頃の記録です。
ご興味を持っていただけましたら、
不登校を乗り越えて1~今悩んでる人へ~からお読みください!(^^)!
2回目のパニック発作
子供達も私も、夫との別居生活に慣れてきて、関係も安定してきた。
私は相変わらず子供たちの事で毎日を忙しく過ごしていたが、自分の体調は上がったり下がったりだった。
ずっと何かおかしい感じがあり、めまいはもうずっとあったので、耳鼻科で薬をもらっていた。
ある日また体が高熱の時のようにしんどくなり、病院を受診しようと車に乗り込んだ。
途中コンビニで飲み物を買い、車に戻ると座ってもいられないような、なんとも言えない感じがして、呼吸が苦しくなった。
これはまずいと思い、家へ戻ろうと交差点に入った時、ものすごい動悸と呼吸困難に襲われた。
わたしは焦った。ブレーキを踏む足がガタガタと震えて苦しくなって気を失いそうになり、それを必死に耐えて交差点を右折し、死に物狂いでお弁当屋さんの駐車場に入った。
お店へ入り救急車をよんでもらった。お店の方は驚きながらも親切に対応してくれて有り難かった。
運転ができなくなった
病院では血液も、脳や心臓の異常もなかった。
めまいが続いてることで不安神経症のようになり、震えは過呼吸からくるものだろうという事だった。
その後もいろいろな病院にかかるが体の異常はなかった。
あの日から車を運転する事ができなくなってしまい、車に乗ると息苦しく感じ、ダメだった。身体がズーンと重たく、家事をこなすのが精いっぱいで最小限のことしかできなくなってしまった。頭もぼーっとした。
すぐに近くのスーパーへ車で行く事も、子供の送迎もできなくなってしまったのだ。フラフラして、歩いて自宅近くの自動販売機でジュースを買いに行く事もできない。
付き添いがいないと病院にもかかれなったので、夫の休みにお願いして連れて行ってもらった。
メンタル系の病院へ行ったが、緊張してすべてはうまく話せなった。
病名ははっきりとは言われなったが、医者には「いろんな事が重なって、少しがんばりすぎたかな?特にお子さんが不登校になった事も大きかったかもしれないね。病名をつけるとするなら…うーん。不安障害(パニック障害)不安神経症、心身症、うつの可能性といったところかな。はっきりとした病名はこれからじっくり見ていきましょう」というような感じだった。
あの日から私はいろいろ不安になりすぎてしまい、沖縄に住む母に毎日泣いて電話をかけていた。あまりにも私が不安定なので。沖縄から母が来てくれて数晩泊まり、家事と育児を手伝ってくれたこともあった。
母は「大丈夫だから。」と手を握ってくれた。
夫がいなくて急に具合が悪くなった時は、近所の事情を知ってる友達に病院へ連れて行ってもらったり、いろんな人が私を支えてくれた。皆に本当に感謝している。
その時の事は、所々思い出せない部分がある。
それだけ私の脳内は大変だったのだと思う。
夫に頼る
普段は子供と3人で生活していて、夫とはまだ別居中だった為、子供を抱えて何もできなくなったらどうしようと必要以上に不安になった。
薬も安心して飲む事が出来なかったが、病気なら早くなおさなきゃと思った。
だが、不安を抱えながら薬を飲んだことで余計具合が悪くなり、夜中に夫に電話をかけてしまった。
夫が電話に出てくれて、寝ぼけた声で「大丈夫だから。落ち着いて。少し寝たら明日そっちに行くから」と言ってくれた。夜中なのに、長年夫には全く頼らなかった私が、泣きながら来てとわがままを言った。笑
結局、メンタルクリニックで出た薬は、私には合わず飲めなかった。その代わり漢方薬を処方してもらった。
それからは休みの日に買い出しや病院など、用事に夫は協力してくれるようになった。
田舎で運転できないのは致命傷を負ったなぁとかなり落ち込んだ。夫は「運転は焦ったらあかんよ。無理したら絶対ダメ。ゆっくりでいいから」と言ってくれた。
「私社会復帰も、もう難しいかもしれない」と泣いたら「もういいから…ちょっとずつやろう」とも言ってくれた。
その頃、夫の母が倒れて入院したり、叔父様が急死してしまったりと大変だったようだ。周りが夫を頼りにする状況が続いた。
それでも休日はこっちに来てくれた。休む暇もなかったと思うが、文句も言わず対応してくれた。
別居中に義実家でもいろんな事があり、夫も家族についていろいろ考える事があったかもしれない。夫の家族の事を何も対応できないと私が泣くと、「なんもしなくていい。大丈夫だから。」と言ってくれた。
食事の用意をする時に動悸がしたり、めまいがしたり、子供の体調や学校との問題があると、ものすごく動揺した。
お風呂に入るのも足元がフラフラして怖かった。生活を普通に送る事がままならなくなってしまい、ものすごく不安だった。
夫の勤務形態や義親の病気対応の為、別居は継続していたが、休日にこっちに泊っていくようになった。休日が来ると安心した。
ほとんどできなくなった私を夫が受け入れて支えてくれて、協力してくれるようになった。そうしていくうちに、私も夫へ感謝する気持ちに変わっていった。
人間だれしも得意なこと不得意なことがある。完璧な人は1人もいない。今私はできなくなった事は増えたけど、夫はそれを受け入れて支えてくれた。不思議だけど、私も彼の足らない所を受け入れてそして、許してあげよう。と思えたのだ。
もう、終わってた夫婦だったかもしれないが私達は変わる事ができたのだ。
子供も少し安心したようだった。家に夫が来ると、息子は必ず部屋から出てきて「お父さんおかえり」と一言だけいった。口数の少ない息子のその言葉の重みも私は考えさせられた。
私たち夫婦はいろんな人の助けを借りて、危ないところを潜り抜けここまで来ることができた。
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