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好奇心と感受性【ハイダグワイ移住週報#2】

この記事はカナダ太平洋岸の孤島、ハイダグワイに移住した上村幸平の記録です。

8日目(2023/08/08)

今週は同居人のタロンの仕事が忙しいらしい。好きに過ごしといてよ、ということだったので午前中に薪割りだけ済ます。この家についてから一度も乗っていなかった「死ぬまで18歳」号にキーを差し込み、東に15分ほど車を走らせる。

ホワイト・クリーク・トレイルはその名の通り、クリーク(小川)をひたすら上流に遡っていくトレイルである。片道3キロ、高低差も少なく、食後の運動にちょうどいい。ハイダグワイ北島(グラハム島)北部は極めて平坦でひたすら温帯雨林がひろがる地形なので、トレイルランシューズはもってのほか、登山靴も使えたものじゃない。そこかしこがぬかるみ、トレイルの一部は川そのものと合流している。しっかりフィットする長靴を見つけるのが、ハイダグワイ生活を良いものにする最初のステップ。僕は長靴が必要なんて知らなかったが、ここまで来る前にウィスラーで立ち寄った比企さんが「長靴は必須」と一足くれた。とても助かっております。

川を遡って一時間弱、丘の上の湿地帯に出た。下に流れているのは家の裏を流れる川だろうか。奥の森は二次林っぽいな。今日はトウ・ヒルがよく見える。西の方が雨が降りそうだ。ハックル・ベリーを摘みながら自分の生活するエリアを見下ろす。昔のハイダの人々もここまで登って天気を予想したりしたのだろうか。

9日目(2023/08/09)

僕はどこかの街を旅したり、移り住んだ時、第一に現地の図書館と本屋をチェックする。もちろん相応の活字中毒者としてのライフラインの確保の意味合いもあるが、同時にその場所の文化・教養レベル——ひいては発展性は「どれだけ若い人が本のある空間にいるか」によって押しはかることができると勝手に思っているからだ。

マセットには「バンクーバー・アイランド地域図書館マセット分室」というものがある。バンクーバー島を中心にBC州の太平洋沿岸部を包括する図書館網の一部だ。小さなキャビンを改装したような、本当にこじんまりとした図書館だが、やはりハイダグワイやハイダ族関係の文献はとても潤沢に取り揃えられている。現地の情報はやはり現地の図書館で蒐集するに限る。近くの学校のサマークラスだろうか、十代くらいの女の子に連れられて小さな子どもたちが読書会をしていた。貸し出し制限がないという何とも太っ腹な図書館なので気になる本を片っ端から借りて満足。

その後は南部の村、スキディゲートに向かう。他でもなく、ハイダグワイ博物館を訪れるためだ。ハイダ族の二大コミュニティのひとつであるスキディゲートにはハイダ・ヘリテージ・センターという大きな文化施設がある。伝統建築「ロング・ハウス」がいくつも海に向かって並び、その各ハウスの前には巨大なフロント・ポールが掲げられているこの施設は、博物館はもちろんハイダ族の集会・議会場、他民族との交流地、国立公園オフィスとしても機能している。受付ではサマージョブだろうか、若いハイダの女の子たちが楽しそうにおしゃべりをしながらレセプションをしていた。

博物館ではほとんどの展示物の撮影が厳しく禁止されている。ハイダグワイ領域内に入る前に署名を求められた宣誓書のなかに「ハイダグワイはハイダ族の歴史的・恒久的な領域です。ハイダの思想に基づき、すべてのものにリスペクトを持って行動してください」との文章があったのを思い出す。GRをポケットにしまい、必死に覚えようとキャプションを、展示物を刮目した。

二時間ほどいたのに半分も周ることができなかった。ハイダグワイの成り立ちから現代にいたるまでの地理・自然・歴史を、ハイダ族に伝わる神話と絡めながら、各世代の伝説的なカーバー(彫刻師)の作品や出土した昔の住居の痕跡などが陳列されている。全てを見ることができていないので、内容について詳にするのは避けておく。とりあえず年間パスは買ったので、南部に来た時はまた寄ろう。

10日目(2023/08/10)

午後に雨が止んだので、タロンのトラックに乗って建築資材を探しにいく。BC州太平洋岸に聳えるパシフィック・マウンテンズからプリンス・ルパートに流れ出す大河・スケーナ川が、多くの流木をハイダグワイにもたらす。キャビンのデッキ用の角材やストーブ用の薪材など、木が必要になればチェーンソーを持って海岸に繰り出し、良さげな流木を物色する。

彼はシャワー室の壁には拘りたいらしく、原生林の森に分け入る。朽ち果てた大木のうち、中身だけが腐ったり焼けたりして外皮だけが残ったものを見つけ出し、その中抜きの木をそのまま運び出してシャワー室にしたいとのこと。自然の造形に対する注文が多い男である。

数十センチにもなる苔を上を歩くのは不思議な感覚だ。黒潮のもたらす豊かな降水量と、遡上するサケを中心とした潤沢な窒素循環こそが、この島の温帯雨林(temperate rain forest)を作りあげている。スプルースが、レッドシダーが一面に苔むした地面から空高く聳えている。その寿命を終え、静かに横たえる樹木は次の生命のベッドとなり、小さな苗木が所狭しと並ぶ。最終氷期でも氷河に覆われなかったこの地では、森の命のリレーが一万年以上続いている。気が遠くなるような時間の堆積を、包み込むような地面を足の裏に感じる。舗装路に戻ると、アスファルトの硬さが衝撃的だった。

11日目(2023/08/11)

裏に住むルークとレイチェル夫妻にディナーに誘われる。献立はタコス。ハリブート(ヒラメ)とサーモンをフライにして、トルティーヤもホームメイドでほくほく晩ごはん。ふたりの娘、エレーナは16ヶ月、ハイダグワイ生まれ。彼女はトルティーヤを食べてステップを踏み、ヒラメを指さして仰け反るほど笑い、ラズベリーを摘んで嬉々と手を叩く。小さな子供と一緒にいると、はっとさせられる。僕は小躍りしてしまうような食べ物にも、全身で笑ってしまうような出来事にも、スタンディングオベーションをしてしまうような果物にも出会ったことがないのに。

その五:
子どものようなあくなき好奇心と初々しい感受性を失ってはならない

江崎玲於奈

半導体研究でノーベル賞を受賞した江崎玲於奈が、若き研究者たちに向けて『ノーベル賞をとるためにしてはいけない五箇条』の最後に語ったとされる一節である。僕はそのエピソードも、彼が掲げた五箇条も大好きでよく引用したり書き出したりして心に刻んでいるつもりだ。それでも彼女を見ていると、いかに自分自身も日々を通過し続けることによってこの世界に鈍くなってしまったかを思い知らされる。ラズベリーで口を真っ赤に染めた君も、れっきとした僕の先生だ。

12日目(2023/08/12)

先週ハイダグワイに渡るフェリーのなかで、僕のFacebookに以前メッセージをくれたエバーと偶然出会った。その時に彼女が教えてくれたのが「エッジ・オブ・ザ・ワールド・フェスティバル」——スキディゲート村の少し北にある集会場で開催される音楽イベントだ。きっと現地の人と知り合ういい機会になるだろう、と思いボランティアとして参加した。ファミリーイベントに近い音楽フェスで、子どもたちがステージ前で走り回り、若者は友人と和気藹々とお喋りし、奥では長老たちが広いテントのしたでくつろいでいた。当然のように圏外なので、スマホをいじっている人などひとりもおらず、隣人に声をかけたり、新しい人に話しかけたりしている。いい空間だ。

僕はキッチン担当で、ひたすら皿を洗い続けていると背の高い女性に声をかけられる。それが日本語であることに気づくのに数秒かかった。ヒロミさんと名乗る彼女はハイダグワイに移り住み16年。今は南部の村、ダージン・ギーツに旦那さんと娘さんと暮らしているという。「ドイツ人と日本人はどこにでもいるのよ」玄人の手つきで込み入った洗い場を仕分け、次々とやってくる知人とハグを交わしていた。

キッチンの長のエリザベスも子供達と日本に三年ほど住んでいたことがあるといい、彼女らも流暢な日本語を操る。「エッジ・オブ・ザ・ワールド・フェスティバル」自他共に世界の果てと認めるイベント会場のキッチンで、日本語を喋るとは思ってもみなかった。写真や文字の仕事がしたいんだ、と相談すると、食堂にいたハイダグワイ広報誌の編集長さんにその場で繋げられる。小さいからこそ話が早い場所である。とてもありがたい。

深夜のシフトでは、フランス語訛りの英語がチャーミングなアリスと警備担当になる。とはいっても平和な夜だったので、真っ暗な川辺でずっと星を見ていた。ヘッドライドを消すと星あかりで影ができるほど暗く、見えすぎと思うほどの星空が広がっている。「マルセイユの博物館でアーカイブの仕事をしているの。いろいろなマネジメントがストレスで、ちょっと長い休みを貰ってきたんだ」大きく、長い流れ星を数ダース分見た。アリスは何を願っていたのだろう。帰国しても彼女がご機嫌に暮らせるように、とそのうち一つの星に頼んでおいた。

13日目(2023/08/13)

会場のパーキングで寝ようにもなかなか騒々しいので少し車を走らせ、海岸のちいさなキャンプ場で寝ていた。太平洋と反対側、ヘケテ海峡に面したビーチだったので、朝日に照らされる海と森がとても神秘的だ。バーナーでお湯を沸かし、バンクーバーで買ってきたサッポロ一番塩を湯がいて食べる。外で、バーナーで沸かしたお湯で作るインスタント食品は家で食べるそれの数倍は美味しく感じる。

フェスティバル会場に戻り、13時からのハイダ語ワークショップに参加する。小さなテントが満員になる。
「私はエリカ。イーグルのクランよ」そう自己紹介し、エリカはハイダ語(スキディゲート方言)の発音練習を始める。ハイダ語は文字を持たない言語であったため、文字の補完として芸術や歌が発展した。発音機構もその補完のひとつであり、「K」の発音でも4種類に分別される。

「私の親はレジデンシャル・スクールの生き残り。私たちはハイダ族なのに、母も、私もハイダ語が話せなかったの」

今でこそ先住民は敬意を込めて「ファースト・ネーション」と呼ばれ、各地で先住民の呼称を復活させる動きが盛んなカナダ。しかしその背景には、カナダの闇ともいえる文化的ジェノサイドの歴史がある。その悪名高い代表例こそが、「レジデンシャル・スクール」——先住民の子供達の寄宿学校政策だ。人間がいかに構造的に悪を行うことができるかをまざまざと見せつけるその「教育システム」は、先住民の言語・歴史・アイデンティティの継承を合法的に、効率的に、徹底的に破壊した。僕の数週間だけのリサーチでこの歴史を詳にすることは明らかにリスペクトを欠いているのでこれ以上は書かないが、最後の寄宿校が閉鎖されたのが1997年というのだから閉口してしまう。僕が生まれる一年前じゃないか。

「ネイティブ・ランゲージは私たちのなかにあるもの。SHIP(ハイダ語保全プログラム)が積み上げてきた膨大な知恵に、とても感謝しているの」悠久の歴史を持つハイダ語は世界でも数少ない「孤立した言語(language isolate)」。今では言語の消滅危険度評価で死語になる手前の「瀕死:極めて深刻」に分類されている。ハイダグワイでは母語の復活・保全のための様々なプログラムがあり、凄惨な歴史を生き抜いてきたエルダー(長老)たちと新しい世代が共に辞書・文法書の編纂に尽力している。エリカもその一人だ。

「あるエルダーが夢で昔の歌を思い出し、16ものフレーズがこの辞書に刻まれたの。美しいと思わない?」
ハイダ語特有の体の芯に訴えかけるような美しい発声に耳を傾けながら、この島での世代を超えた信念と責任感に敬意を抱かずにはいられなかった。僕たちはいつから「老害」なんて言葉を持つようになってしまったのだろうか。

14日目(2023/08/14)

今日はエレーナのベビーシッターを任される。まだ知り合って二週間も経っていないのに、ここまで信頼してくれるのがとても嬉しい。ちなみに16ヶ月の子供の面倒をみるのは極めて大変である。試行錯誤し、「ニワトリ小屋の前でニワトリの鳴き真似をしながらベビーカーを揺らす」ことが泣き止まさせる最適解だと見つけ出すのに数時間かかった。この世のすべての母親にリスペクトです。

午後にはいい波が出てきたので、近くのビーチでサーフィンをする。とはいっても僕ははじめてのサーフなので、見よう見まねでウェットスーツを着用し、それらしくボードを担ぎ、両手でパドルして沖に漕ぎ出す。外から見る分には「波が来るのを待って、ボードに立つ。以上」くらいにしか見えないが、実際にボードに乗って海に漂っていると、本当に何をすればいいのか何もわからない。気がついたら砂浜まで打ち上げられていた。冬のマセットはサーフィンと釣りくらいしかやることがないようなので、今シーズンで上達させたい。

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📚写真集を出版しました。

🖋イラストを描いています。

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