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旅を終わらせるのは、いつでもチャーハン【父島紀行#00】

 「豚バラ青菜炒飯」。

 池尻大橋、という街に帰ってくると、僕がきまって食べるものだ。駅の東口を出て商店街をちょっと奥に進むと、赤いネオンで店を構える町中華がある。


 「万豚記」。ワンツーチィ、と読むらしい。


 店に入ると、厨房の中華系のおじさんが日本語とも中国語とも取れうる挨拶を快活に飛ばしてくる。

 僕はこの瞬間が好きだ。彼の名前も知らなければ、知ろうと思ったこともないが、この雑な挨拶をいつでも聞けるという安心感から僕はついこの店に足を運んでしまう。

 おそらくこの人は昨日も、明日も、去年のクリスマスも、今年の年越しも、中華的なあいさつを乱雑に投げかけながら中華的なものを作っているのだろうし、きっといまも中華的なことを(おそらく)考えながら眠りにつかんとしているのだろう。

 帰納的であるにせよその「中華」的なものの実在は、個々の存在を希薄にしようとする東京という街の力学に争っているようで、僕は一抹の仲間意識を覚えるのだ。


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 この場所に帰ってきたなあ、と感じさせるものがある。

 羽田空港の松屋でプレミアム牛飯に温泉卵と紅生姜をこれでもかとかけて食べれば、ああ日本に帰ってきたんだなあ、と思わせられる。母親の大葉の効いたささみチーズフライにしゃおっ、と音を立ててかぶり付けば故郷に帰ってきたことを実感を伴って体が理解してくれる。

 こういうものはある種の儀礼、といっても差し支えないかもしれない。


 僕に池尻大橋に帰ってきたということを五感で感じさせるものが、「豚バラ青菜炒飯」なのだ。

 僕は大学進学とともに東京の池尻大橋というところに住み着くようになったが、寮の先輩に連れられ初めてこのチャーハンを食べたとき、文字通り絶句した。こんなにうまいチャーハンがこの世にあるものか、と。東京は恐ろしいところだ、と。それ以降、池尻大橋を離れる日数にかかわらずーー帰省で1週間空けるにしても、旅行で数週間後に帰ってきたにしても、留学で一年ぶりに東京の地を踏んだとしてもーーこのチャーハンを食べないことには自らの池尻大橋における存在を肯定できなくなってしまった。

 デカルト的に表現するなら、I eat 豚バラ青菜炒飯 therefore I am、なのである。


 父島から池尻大橋に帰ってきて、「万豚記」で「豚バラ青菜炒飯」を食べることは、もはや「父島への旅」と「東京での現実」をつなぎ、かつ断絶させる欠くことのできない義務的行為なのだ。


***


 この東京という街に無数に存在する中華料理店と同じく、この店も無数の中華的な料理を用意してくれている。ただ「豚バラ青菜炒飯」を特別たるものにしているのは、その量だ。お腹が空いているときに行けばほぉっ、と声が出るまで満足にしてくれるし、そんなにお腹が空いていないときに行けば苦しいくらいに満足感を与えてくれる。卵中華スープもついてくるーーそれも、あまり主張しないまでの量と味で。

 僕は炒飯を食べにきたのであって、スープを飲みにきたのではない。そういうところまでの配慮も素晴らしい。


 ホールのおじさんは厨房のおじさんとは違って、全く表情を変えずに注文を取りに来る。この「表情を変えない」性は、いわゆる寡黙なプロ、というものではなく、ただただ彼の気怠さを伝えてくる。僕は二人の中華性のギャップを楽しみながら、「豚バラ青菜炒飯」の大盛りを注文する。お冷やがピッチャーで運ばれてくる。

 白いプレートに乗って、「豚バラ青菜炒飯」が運ばれてくる。カンカンに焼かれた大きな中華鍋からよそわれたそのチャーハンは、それ相応の熱量を帯びたまま僕の目の前まで運ばれてくる。スープの中であらかじめ余熱されたレンゲで、一口分の1.3倍ほどを掬い、丁寧に冷ます。はふはふ、と口に運ぶと、あまいオイスターソースとたっぷりの油が口中を占拠する。米と卵はパラパラ過ぎず、それでいて個々としての存在をかろうじて保持できるレベルでオイリーに纏め上げられている。

 パラパラなほどチャーハンは美味い、というテーゼに関しては懐疑的な立ち位置を取っていることをここに明示しておきたい。僕は「万豚記」の「豚バラ青菜炒飯」を食べにきているのだから。「豚バラ青菜炒飯」は「豚バラ青菜炒飯」なのであって、豚バラが主役として躍り出過ぎても、青菜がその食感を前面に押し出し過ぎても、米と卵が素材いいですよ感を醸し出し過ぎても、それは「豚バラと青菜のおいしい炒飯♪」なのであって、「豚バラ青菜炒飯」ではない。


***


 そこから時間は指数関数的に加速し、あくまでおまけの卵スープまでが平らげられる。僕は街中華にしては少々高めの1300円を無愛想な方のおじさんに払い、店を出る。

 このチャーハンの儀式をもってして、僕の旅、というよりは東京からの逃避が終わる。そして同時に、旅の最後にこの儀礼を持てることを幸せに思う。池尻大橋の駅から出て鬱蒼としたコンクリート・ジャングルの中をひとり家まで帰るより、満腹中枢をカンストするまで満たして家路につくのとでは、旅自体の満足感はもちろん、旅モードの体から現実モードの体へのスムーズな移行にも大きな違いをもたらすのだ。


 旅と現実との「けじめ付け」として、「豚バラ青菜炒飯」は、池尻大橋に存在している。



*追記:僕はずっとこの「万豚記」が池尻大橋の町中華的なポジションを担っている(少なくとも僕はそう感じている)ところが好きだったんですが、今回書くときに調べるとちょっとしたチェーン店だということでした。自分の街にしかないと思って愛着を持っていた店がチェーンだと発覚することってよくあるんですが、突然フラれる感じがしてとても心苦しいものがありますよね、、(特に早稲田南門通りの『キッチン南海』はそれこそ学生運動時代から早大生に寄り添ってきた雰囲気さえ出してはいるものの、駒場東大前で見つけたときにはガッカリしました。)


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