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鯉のぼりをあげなくてはいけない?あげなくていい理由(私見)

鯉幟(こいのぼり)とは、紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描いた筒状のもので、風を受けてたなびくようになっているものです。
コイが川を遡上し切ると龍になるという、中国の言い伝えに基づく、しかし起源不明の風習です。
現在では、男子の健やかな成長を願う端午の節句の行事として知られています。
そう聞くとどこか奥深そうですし、こどもの日(5月5日)にあげるものだから、子供をコイに見立てていて、いつか龍になるようにと、子どもの成長と繁栄の願いを込めて行われるもの……のはずですよね。

しかし、よく考えてみてみると、目標とされている龍を掲げた方が分かりやすいように思うのです。なぜ現状を示すのでしょう?
子の立場も親の立場も考慮して考えてみましょう。

■概要からみる本稿のねらい

コイは、日本人に馴染みの深い魚です。マゴイという在来種もいますし、ニシキゴイなど観賞用に品種改良された種類もいます。
しかし、
①今のあなたたち(子ども達)はコイです。
②でもすでに飛んでます。(高いところでたなびいています。)
③という訳で、これから龍になりますように。(すでに飛べていますけどね。)
というのは、なぜそうなったのでしょう?
論理的に考えてどうなの?とChatGPTに尋ねたところ、「わけがわからない」と言われてしまいました。それを尋ねているのに……。

筆者は、商業祭や収穫祭とあっても信仰や儀式要素がないものには肯定的(喜びは分かち合うべきで、セレモニックになるのも節目のため)なので、そもそも否定する意図はなくて、単に理由を知るためだけに調べることにしました。
しかし、原義は不明、意味もわからないまま「〇〇のためにー」「伝統がー」という風に言われると、目的や論理以外にたよりにするものがなくなるのです。論理的整合性は、もう最後の砦です。

意味がわからないとそもそも良し悪し(評価)を検証できる状態にないので、そのため肯定も否定もなくて(受け止め方)。

だからこそ、筆者は「なぜ鯉のぼりを揚げるのかは重要ではないのだろう」と考えるようになりました。

■鯉のぼりをあげる理由は重要ではない?

いえ、別に「なんか雰囲気あっていいでしょう?(気持ちの話)」という話だと、「そうですね、夏の始まりっぽいです。(冷涼な水と力強く泳ぐコイから頑張る意味を想起し、これを節目とする考え方)」と理解は可能です。これなら期間限定であることにも理由が立ちますから。
しかし、そもそも子どもの現状を象徴するコイを掲げて、どうするの?という話にはどうしてもなってしまいます。

結論から申し上げますと、これは、掲げないと「あそこの家は鯉のぼりもあげられないんだ」のような悪い噂が流れたのだと思われます。
近年ですと、LEDイルミネーションと同じです。時期もので、それ自体の美しさやデザインや魅力より、そうしたものを利用して経済力を誇示しているのです。
また、これは、他の日本文化にも見られる傾向といえます。
ひな祭りの雛壇も立派な方がいい、演劇をやったら見栄を切る、美しければそれでいいのに短歌でも競い合う、機能が満たせてればそれでいいのに焼き物に優劣がある、などなど。価値を高めるための先鋭化のようですね。

確かに見栄は、あまりに張らないと不当に侮られることがあるため、不要とまでは言いません。目指すべき状態、つまり目標も必要です。
また、誇示しておくと防げる対人トラブル・ご近所トラブルがあったのでしょう。
さらに、医療が今ほど発達していない時代は、男の子がいると示すことで、お家が続いていると示すことにもなったでしょうから。これにより、お嫁さんが来てくれる確率も上がったかもしれません。
つまり、見栄は多少は必要なものなのだけど、この場合は見栄を張ることが目的であるため、その"方法についての理由"はどうでもよいものだと判断されたと思われます。

そうした虚栄心を大きく派手な鯉のぼりが満たしてくれたのでしょう。
だから子ども達は、自分達のために揚げられているという説明にどこか疑問を呈するのです。全く欲していないケースも少なくないでしょうから。

加えて、見栄を張りたいなら勝手にやって、
とも言いがたいのです。なぜなら、例えば私が泥棒なら、見栄を張りたがってる家の方が宝石類とか持っていて、稼げそうだと思うからです。
また、やりすぎれば目立ちすぎます。イルミネーションで、夜でも家の形まで分かるほどに目立つと、協調性に欠けるようにも見えてくるのでしょう。
だからこそ、意味としては本来、龍を掲げた方がよいにも関わらず、龍は掲げていないものと考えられるのではないでしょうか。
どうにも雲行きが怪しくなってきました。

■「文化」は誰得なのか

また、鯉のぼりを掲げるべきだという情報の出どころが鯉のぼり業者やニシキゴイ養殖業者であっても、何ら不思議はありません。
なぜなら、例えばクリスマスを恋人と過ごすという日本人がもつイメージも関連企業が協賛したトレンディドラマ『クリスマス・イヴ』『ホームワーク』などによって作りあげられたもので、もともとは家族で過ごすための日であったからです。

文化を利用した商売をするために、鯉のぼりを揚げる理由を付け足した人達が、人々の虚栄心を煽った。さながら、トレンディドラマのように、「恋人とクリスマスを過ごせないなんて、死んだほうがマシよ!」などと言わせるようにして。
もちろん、富国強兵を推進した時代の日本を考えれば、誇りを守るために行う文化的な行動というのは、肯定された時代もあったでしょう。
しかし、誇りとは、それを示してその差異をあげつらうと、マウンティングにしかなりません。

それでも、個人的に鯉のぼりは、飾りものとしては割と好きな部類です。ニシキゴイも白と朱色のものはグレーと緑の多い日本によい差し色だったことでしょう。前述した通り、夏へと向かう季節物としては肯定的です。
ですが、自然に造詣が深ければ、この時期に
咲くツツジやサツキや花、この時期にカラスの雛が産まれるなどという情報を示せます。時候の挨拶などに代表される気遣いも含めて、人間が作り上げたものを掲げる必要など毛頭ないのです。

もちろん、揚げることで侮られることを防げる場合もあるかもしれませんが、今日び、鯉のぼりを揚げないからと侮るような方は、そもそも付き合いにくい方でしょう。

■手段は心で決められている

文化レベルを示して侮られないようにするために伝わって、発信元が業者の可能性が非常に高い。こうなってきますと、こどもの日も、子どものためのものではないのかもしれません。
男子の健やかな成長を願う端午の節句の行事といわれていますが、だとするならば、男の子に精がつく旬の食べ物を与えるとか、成長の助けとなる道具を与えるといった方法の方が適切だからです。

こうした数々の論理の破綻から、やる理由を探したにも関わらず、やらない理由の方が多く見つかってしまいました。
そして現在、個人主義が進行しており、ますます鯉のぼりの需要は下がっていくでしょう。しかしそれは文化を騙り、自然も人文も軽視してきたからに他ならないのです。

また、真に意味や気持ちがこもっていれば、子どもにもそれが伝わるものです。伝わらないのは、その他の総合的な行いを子どもが評価した結果にすぎません。このサイトもそうですが、評価経済社会からもはや逃れる術はなく、子どもから見た親や大人もこれに漏れません。
本来伝えられるべきは親の気持ちではなく愛ですし、尊敬されたいにしても鯉のぼりを掲げても効果はあまり望めないので、より子の願いを聞き届けた方が現代として最適といえるでしょう。また、これは甘やかしではなく、長期的に見るとお互いの助けとなるものでしょう。

「マウントの取り合いが、結果として風習になりました」なんて言える時代ではなくなってきております。これは親子関係にも、ご近所関係にも言えることなのでしょう。日本らしさのなかには、こうした側面もあり、いつの間にか近所の厄介老人扱いをされかねないものなのかもしれません。人間は複雑ですから。
人間関係についても、自治体が行っているイベント会場での鯉のぼりを楽しむくらいが、近年はちょうどいい距離感なのかもしれません。

例え本稿が正しくなくても、考えるきっかけとなっていただけたら幸いです。

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