「感謝する」練習とは、関係性に気づくこと。
目の前の誘惑に負けずに「自制心」を保ち、途中であきらめることなく自分が取り組んでいることを長続きさせるためには、「感謝の気持ち」が大切であるということについて述べました。
しかし「感謝」することが大切であるといっても、慢性的な疲れやストレスに苛まれてイライラしている時は、(少なくとも私は)「ありがとう」と、身近にいる人に対して感謝することはなかなかできません。
また、普段から妬みや憎しみ、怒り、孤立感、罪悪感といったネガティブな感情にとらわれることで、自分のなかで感謝したい気持ちが生じることがなければ、何に対しても、なかなか素直に「感謝」することはできないのではないでしょうか?
つまり、気分があまりすぐれなければ、何事にも「ありがたみ」を感じられなかったり、気づけなかったりするのです。
では、なかなか感謝することが出来ないという場合、普段から感謝する習慣を身につけるにはどうすれば良いのでしょうか?
このことに関して、たとえば『脳を鍛えてブッダになる52の方法』のなかで著者のリック・ハンソン氏は、
と述べています。
そもそも「感謝する」ということは、リック・ハンソン氏が、「私たちは見返りなしに何か良いものをもらうと感謝したいという気持ち」になるというように、期待していなかったところに他者から何らかの贈りものがもたらされた時に自然に生まれてくるものでなのであり、「~してやったんだから感謝しろ」と、相手に感謝の気持ちを要求したり、相手から要求されたりすることではないのです。
また、瞑想講師のジャン・チョーズン・ベイズ氏は、「「感謝の練習」は調査」であり、「1日を通して何度か、それぞれの瞬間に「感謝できることは何か?」を意識して考え」ることを推奨しています。
さらに、「感謝する対象」は、「何かがあること」と「何かがないこと」の2つに大きく分けられるとしています。
たとえ日常が当たり前のように過ぎていくと感じられたとしても、突然大きな病気にかかり、本当に苦しい思いをすると、普段の「健康」がいかに「ありがたい」ことか、身に沁みて分かります。
このことは水や食べ物、空気、電気、お金、サービス、人とのつながりなどについても同様で、日頃の「当たり前」が自然災害など何らかのきっかけで簡単に失われた時、「当たり前」であることが実は決して「当たり前」ではなかったことを、身をもって知ることになるのです。
ちなみに私自身、東日本大震災やコロナ禍などを経験しておらず、そのような災厄を想像すらしていなかった十代の頃は特に、衣食住のことなど、何もかもが当たり前のようにあることが当然だと思い込んでいました。
そのため、日常のささいなことに感謝の気持ちを抱くことは出来ず、反対に周りにたくさんの物があっても、(家庭環境のことで悩んでいたこともあって)いつも心は満たされず、不満を溜め込んでいたことのほうが多かったのです。
しかし今は、その「当たり前」が、実は自分以外の人々や、「自然」を構成する生きとし生けるものとの相互の関係性によって生じているということが分かります。
このことを仏教では「縁起」といいます(相互依存的生起)。
つまり「感謝する」には、日本語で「おかげさま」というように、自分自身が生きていると同時に、様々な関係性、生命(いのち)の働きによって生かされていることに気づく必要があるのです。
日頃の社会生活の中での対人関係においても、肉親であれ、友人であれ、恋人であれ、自分が相手を支えているつもりで、実は相手に支えられていたということに気づくことがあるというのは、その一例です。
……続きます。
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