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「賭け」としての「贈与」とは? 熊倉敬聡『瞑想とギフトエコノミー』【書評・感想】


最近、お金と商品の交換に回収されない「贈与」について、ぐるぐると考えている。

実は以前から、瞑想と贈与経済の関係について述べている稀有な書物である『瞑想とギフトエコノミー 資本主義を乗り越える「脱執着」の知恵』(熊倉敬聡 著 サンガ)という一冊について書きたいと思っていた。


この『瞑想とギフトエコノミー』は、2014年に出版されたのだが、私自身、2011年の東日本大震災の後の精神的彷徨の末、「瞬間を生きること」と「瞑想」にたどり着き、たまたま仙台のジュンク堂書店で発見して手に取ったのを憶えている。

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この本を初めて読んだときは、資本主義によって経済的にも精神的にも行き詰っている状況を乗り越えるためには、「瞑想」と「贈与」しかないと強く思った。

その後、この『瞑想とギフトエコノミー』を何度か再読することがあったのだが、今回、あらためて読み直してみると、その内容を正確に捉えることはけっこう難しいことに気づいた。


いや、この本の内容以前に、「贈与」ということについて考えること自体が難しいし、一筋縄ではいかない。

というのは、一般的に私たちがいう「贈与」(贈り物、ギフト、プレゼント)とは、「贈与」と言いながらも、「交換」だからだ。

「贈与」というからには、「交換」ではないのではないか、と思われるかもしれないが、何らかのかたちでお返しが発生したら、どうしても「交換」になってしまう。


また一切の見返りを求めずに相手に与える場合があるかもしれないが、贈り物を受け取る側が、無償で受け取ることに負い目を感じることで、何らかのお返しをしなければならないと思ってしまえば、やはり「交換」のかたちになってしまう。

反対に、お金でも商品でも、何かを受け取った側が、一方的な贈与だと思ったとしても、相手は、気づかないところで何らかの見返りを求めているかもしれない。

つまり、「贈与」か「交換」か、どのように見なすかは、個人的な判断に委ねられることが多く、「贈与」と「交換」はほとんどの場合、対立しているわけではないということなのだ(純粋に分けられないということ)。


しかも、「贈与」というと、どうしても「愛」や「善行」のような良いイメージがつきまとうが、同時に「破壊」のような「負」の側面もつきまとうことを覚えておかなければならない。

たとえば、地道に働きつつも、お金がなくて苦しい生活を送っているところに突然大金が舞い降りてくることは「渡りに船」かもしれないが、大金を手にすることでいつもとは違ったお金の使い方をしてしまい、ギャンブル依存症になるなど、結果的に日常生活が壊れてしまうかもしれない。


しかしながら、私たちの世界には、「純粋贈与」というものもあるかもしれない。

だが「贈与」について考えるのが難しい理由は、与える側も受け取る側も、「贈与」を意識した瞬間に、「贈与」が可能ではなくなってしまうことなのだ。

これを「純粋贈与のパラドックス」というが、ジャック・デリダやジャン=リュック・マリオンなど、「純粋贈与」について思考した哲学者もいる。

このあたりのことについて詳しく知りたいのであれば、岩野卓司『贈与論』(青土社)を読まれることをお勧めするが、パラドクスがつきまとう「贈与」について思考することに、すっきりとした解答のようなものを与えるのは難しい。


 純粋贈与のパラドクス――純粋贈与は、「純粋」であるがゆえに、贈与者はそれを「贈与」として認知してはならないし、また受贈者からのいかなる見返りも(精神的な感謝さえも)期待してはならない。受贈者もまた、それが「贈与」であると認知してはならない。なぜなら、それが「贈与」であると認知された瞬間、受贈者の中に「交換」のメカニズムが働きだし、自らが受けた「負い目」を晴らすために、「返礼」へと差し向けられてしまうから。しかし他方で、もし贈与者も受贈者も、自分たちが交わす行為がそもそも贈与であるという認知がなければ、純粋「贈与」の行為自体が生起しえないだろう。
(熊倉敬聡『瞑想とギフトエコノミー』p251)


双賽一擲「賭け」としての「贈与」とは?

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ところで本書『瞑想とギフトエコノミー』の第4章では、フランスの詩人マラルメが「「パナマ事件」という当時のフランスの政財界を揺るがした大疑獄事件の中に、貨幣の危機=ハイパーインフレーションと、<金>の超越的権力の瓦解を夢想した経緯」が辿られている。


また第6章では、「「西洋」と呼ばれる文化圏で近現代に試みられた精神的探究の多くが、自らを深めれば深めるほど反比例的に身体の瓦解を招くという逆説」が論じられ、一方でもう一つのエクリチュールである「「呼吸」をその要に据える東洋の探究、なかんずく瞑想」が「いかにすぐれた自己の贈与=空の経験であるか」が論じられている。


「呼吸/瞑想」がどのように「贈与」と関係し、資本主義経済を乗り越える鍵になってくるかについてもし興味があるのであれば、実際に読むことで確かめていただきたいと思うが、本書の面白いところは、「贈与」に<賭け>の契機を見出しているところだ。


たとえばこの本のあとがきには、


 ここまで、たどたどしくも、ギフトエコノミー、特にその精神について、考え、自らの存在の深部で、問うてきました。その思考、いわんや実践に関しては、まだまだ緒に就いたばかりと言わざるをえません。しかし、ますます怪物化し、ウイルス化している(超)資本主義の「死」に、人類が全面的に侵されないためには、どうしても〝もう一つの〟エコノミーが、精神が、必要なのです。私は、そのごくごく素描を、拙いタッチで、ここまで行ってきました。この、あまり格好の良くないギフトを、でも、どなたかが受け取ってくれ、その方の特異性の中で、新たに生きなおしてくれることを願うばかりです。
(熊倉敬聡『瞑想とギフトエコノミー』 p315)


と書かれているのだが、興味深いのは、第11章の「双賽一擲としてのギフトエコノミー」において、田辺元の思考に「純粋贈与のパラドクス」の乗り越えを見出しつつ、


師は、自らが生を踏破しつつ得た「死」という真実=〈空〉を、未だ行の途上にある弟子に贈与しますが、弟子はその贈与の真意をはかりかねます。弟子は、師同様、しかし自らが独自に行う行のの中で「死」の体験を経て初めて、遅ればせながら真意を悟るに至ります。つまり、師は自らの絶対無即愛の贈与を、弟子という特異な偶然性に委ねる。委ねて、弟子の行の過程の中で、時間とともに熟成するのを待つ、あるいは待つことすらしないのです。
(熊倉敬聡『瞑想とギフトエコノミー』 p277)

と、述べている点である。そして、


 君主が民衆に授ける記号の本性が自己同一性にあったのとは反対に、師から弟子たちへのギフト=贈与の本性は自己差異化にあります。死の「充血」に捧げられた自己同一性ではなく、生の焼尽を解き放つ自己差異化にあります。それは、1粒の苺、一言の問答、ひとたびの交わりであっても、それがどの弟子に、どの特異性に、贈られ、賭けられるかによって、その「双賽一擲」の出る目が異なってくるのです。異なっていていいのです。ギフトエコノミーの精髄は、だから、記号のように、自己同一な死のコミュニケーションと増殖としてのエコノミーではなく、賽子が師弟間の実存的裂け目に投じられ、各弟子の特異な時熟の偶然性に弄ばれながら自己差異化し自己分裂して、各々に生の全面的蕩尽をもたらす(あるいはもたらさない)「コミュニカシオン=交流」にこそあるのです。
(熊倉敬聡『瞑想とギフトエコノミー』 p280)


としているが、貨幣を支払って商品やサービスを得るような「交換」を乗り越えるためには、どうしてもこのような、「賭け」としての「贈与」(「師」と「弟子」の関係)が重要になってくるのではないかと思う。


もちろんここでいう「賭け」とは、「ギャンブルしろ」ということではなく、「学び」に関係することだ。

実際に「師」のもとで「修行」するとなると、途端にハードルが高くなるが、生身の「先生」のもとで学ぶということだけに限らず、自分の理解の範疇を超える「書物」を読むことであっても別にいい(「読書」という行為によって未知のテクストが与えられることは、常に既存の「私」の先を行く)。


「貨幣」による等価交換が行き詰りを見せた時、賭けとしての「贈与」、そしてそのための書物や学びが重要になってくるように思う(*1)。


そして、自分が知らないことを学んだり、哲学をはじめとした人文書を読んだりすることを始めるのに、年齢は関係ない。




*1 「贈与」が「学び」(師と弟子)の問題と関係してくる理由については、哲学者レヴィナスの研究者であり武道家でもある内田樹の『他者と死者』『修行論』『下流志向』などを参照。


特に教育の問題について論じた『下流志向』(講談社)には、

「学びは市場原理によって基礎づけることができない。これが教育について考えるときの基本です。」

「学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構築してゆく生成的な行程です。学び終えた時点ではじめて自分が何を学んだのかを理解するレベルに達する。そういうダイナミックなプロセスです。学ぶ前と学び終えた後では別人になっているというのでなければ、学ぶ意味がない。」

とある。




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『瞑想とギフトエコノミー 資本主義を乗り越える「脱執着」の知恵』 熊倉敬聡 著 サンガ 目次


第1章 今なぜギフトエコノミーか?
第2章 今なぜ瞑想なのか?
第3章 貨幣とは?――マラルメのその1
第4章 資本とは?――マラルメのその2
第5章 マインドフルネス瞑想とヴィパッサナー瞑想
第6章 瞑想――自己の贈与
第7章 贈与の経済学へ
第8章 エロスと普遍経済学へ
第9章 タントリズム――快楽の瞑想と贈与
第10章 ギフトエコノミーの精神へ
第11章 双賽一擲としてのギフトエコノミー
第12章 美学特殊C、三田の家、Impact Hub Kyoto
    ――ギフトしての学びの実験、そしてアズワンコミュニティと……

おわりに


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。



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