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特別支援教室に感謝いっぱい

みぃは小学一年生の一学期の途中から、ほとんど学校に行かなくなりましたが、入学前からゆくゆくはそうなる可能性を感じていたので、学校の中にある特別支援教室の利用を自治体の「就学相談」を通して申し込んでいました。特別支援教室は、みぃの三才上の兄も一年間利用していたので、どんなところかはよく解っていたし、こどもたちにとって安心な場所であることも実感していました。そのおかげで、不登校状態になってからも、特別支援教室には通い続けることができました。学校に完全に行かなくなるのではなく、週に二時間だけでも学校に通い続けられたことは、みぃの小学生生活にとって、大きな意義がありました。居場所が家だけにならないこと、私と離れる時間を持つこと、信頼できる大人と出会うこと、こどもたちと関わること、小学校に行くという体験を持つこと、親以外に自分を認めてもらうこと。週にたった二時間でも、享受しているものは大きかったです。

幸運なことに素敵な先生方がいて、私にとっても、明るい気持ちになれる教室でしたし、先生方がみぃの成長を一緒に考えてくれることで、きっと私は支えられてきたと思います。何より有り難かったのは不登校状態を否定せず、我が家のホームスクールを尊重してくださったことです。支援教室の日に、連れていきたいイベントなど(みぃにとって学びとなるようなこと)があった時も、快く「楽しんできてね」と言ってくださいました。

みぃは学校がつらくなっても、学校を拒絶せずにいられたし、それどころか、特別支援教室の先生方が一番の話し相手であった時期もありました。みぃの関心事は同世代とはなかなか盛り上がれることではなかったので➡️歌舞伎や日本史や源氏物語やギリシャ神話の話なども、たくさん聴いてもらっていたようです。

ある先生は、わたしに「教員の僕が言うのもなんですが、みぃさんは学校に来なくても大丈夫です。お母さんがいるから大丈夫です。」と数回声をかけてくださいました。みぃのことを信じてくれて、私の子育てを信じてくれた先生でした。その先生は、教養が深く、みぃの関心事に合わせて、ユーモアたっぷりに会話のキャッチボールをしてくれる方でしたので、みぃも誰よりも話やすそうでしたし、その先生と話せるから、特別支援教室に行く意味をみぃも感じられたと思います。低学年の頃、同世代の友達がいなかったみぃにとって、友達のように話せる先生の存在は大きかったです。(友達というよりマブダチっていうノリ) その先生は、みぃのことをたまに「明智くん」と呼んでいました。笑 

その先生だけでなく、一、二年生の時と五年生の時に担当についてくださった先生も最高の先生でした。気難しいところがあるみぃに対して(特に低学年の頃は、やりたくないことへの拒否感が強く頑固だった)、いろいろなものを用意してくださったり、いろいろな引き算をしてくださったりしながら、支援教室の時間を有意義なものにしてくれました。スモールステップのおかげで縄跳びも跳べるようになったり。また、みぃが源氏物語にドハマリしていた時は、源氏物語が好きな先生を探しだし(図書室の先生と栄養士の先生)、ゲストとして支援教室に招いてくださり、一緒に給食を食べてたり。日本画や浮世絵などに詳しい図工の先生と、みぃを引き合わせてくれて、その先生が一年間支援教室に来てマンツーマンで教えてくださったり。きっといろいろな配慮のために、校長先生と交渉をしてくださっていたのだと思います。

また、支援員の先生も、とても面白い方でみぃのマブダチの一人でした。荒っぽい口調だったり、遊びもこども相手に全く容赦をしないのですが、裏表がないカラッとしたところが、こどもから信頼を集めているように見受けました。数々の昭和のワルガキ時代のエピソードなどでもいつも楽しませてくれました。

支援教室で出会った先生方、いつかまたどこかでお会いできたら、と思います。無理かもしれないけど、そう思える先生方に出会えてとても幸運です。


二年生の頃 江戸時代など、昔の女性の髪型や着物に夢中でした
特別支援教室の先生が、みぃとお喋りしながら描いてくれた絵です。先生、絵が上手い!

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忘れられない先生

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