竹村和子『愛について』序章 読書会レジュメ

(以下、記号のつけていない数字で意味段落を指示し、レジュメ本文は書籍本文に対応させ段落を切り、本文各段落の要約および解釈として書いたものである。32頁以後の謝辞を省略した。)

1(1-4頁)

¶1-3(1, 2頁)


 個別的な発話を理解するため、その意味をはかるのに参照されるのは、社会慣習のような集合的な物語である(注1)。根本的に「何者であるか」ということ、どのように生きどのように死ぬかが定められていない我々は、(自分自身への目標の設定としての発話も含めた)個別的発話によって何者であるかを理解するが、その理解の形式が、集合的物語に依存しているのである(注2)。しかし、集合的物語、慣習とは「〇〇ではこうするものなのだ」ということが示される時を含めても、個別的に語られることが繰り返されているだけで、それによって初めて存在するようなもの、見掛け倒しのようなものである。
 物語は、むき出しの事実ではなく、「事実」と価値づけられた「比喩」である。ある「事実」と、それを見た人物がそれについて行う「表現」とは別のものであり、後者は前者の断片でしか有り得ず、前者にはないものを付け足したものでしか有り得ない。それは、しばしば事実と誤認され、また、「いわゆる事実と同じ機能をもつ物語を比喩と錯覚する」こと、すなわち、ある語りが事実としての価値を持つのに対して、それに矛盾するような語りは、比喩でしかないもの、事実ではないものとして、その劣位に置かれるということもある。
 フェミニズムは「女」と「男」について、その「らしさ」や、それ特有の仕事といったカテゴリーの虚構であることを示してきた。しかし、性欲望については、「女の欲望」「男の欲望」が流通している。そこで流通する欲望は、生殖に方向づけられて、そうではないものを排除し「比喩化」したものである(注3)。性に関するさまざまな物語——通常の意味での物語、フィクションを含む——は、「集合的な物語」として、自分自身の欲望についての解釈(「個別的な物語」)の際に参照され、「本質的な事実性——身体性」を遡及的に生み出し、その「事実」に反するさまざまな語りは「比喩」として劣位に置かれ顧みられなくなる。

¶4, 5(3, 4頁)


 しかし、私たちは、自身の感情や行為を眺めた時、そこには「本質的事実性」からのずれがつねに存在することに気づく。そのずれがどこまで許容可能なものかという境界は、時代や文化によって恣意的に決められ、欲望に「正当」なものと「不当」なものというレッテルが貼られることになる(注4)。しかし、第一段落でも確認されたように、そのずれを持つ個別的実践の中でのみ、「本質的事実性」のような「集合的な物語」は生み出される。だから、わたしたちがつねに感じる「生殖に向かうものとしての欲望」からのずれは、集合的な物語が「比喩」、つまり今ある欲望の断片であり付け足しであり歪曲したものであることを気づかせるものでもある。言い換えれば、ずれは、その都度その都度、「わたしたち[が]女や男として感じ、行動していたことが、女や男のように感じ、行動していたにすぎないことを知[らせる]」(3頁)ものである。
 そうした認識の経験が向かわせるのは、そもそも、今まで、なぜある「事実」を「事実」として認知していたのかという問いであり、その問いの中での事実性のさらなる解体である。

注1  ここで参照されている「発話理論」(=言語行為論、Speech act theory)とは、オースティン『言語と行為』に始まる理論であり、発話の、個体や性質の指示だけではなくそれ自身が社会的行為になるということを解明することを目指すものである。
 例えば「窓が開いている」という言葉は、窓についての性質を記述したものと言えるだろう。一方で「窓を閉めろ」というのは(窓についての性質を前提として暗示しているはいえ)、その発話自体が「依頼」や「命令」といった動作となっている点で、前者の文とは異なる種類の発話と考えられ、前者を「事実確認的発言」、後者を「行為遂行的発言performative utterance」と呼ぶ。
 「個別的な物語」が「集合的な物語」に依存するというとき、念頭に置かれているのは、おそらく、オースティンを継いだサールの「構成的規則」の理論である。サールは、行為遂行的発言が、それとして成立するには社会慣習が必要であるというオースティンの構想を発展させた。行為遂行的発言には、発話者の意図の理解が不可欠である。その意図を確認するために、慣習的規則が参照されるのだ。行為遂行的発言を生み出し得るような規則が「構成的規則」と呼ばれる(以上は、清塚(2016)84, 85頁を参考にした)。
注2  北川東子は、「投企」を以下のように解説している(北川(2002)、57-60頁)。

「自由にたいして開かれている存在」である私たちは、素晴らしいこともおぞましいことも含めて、さまざまな可能性に開かれています。したがって、現に存在しているということは事実ではあるが、独特な構造をした「事実」であると言えましょう。それは、自分がどうあることができるかという可能性に支えられた事実です。どうあることができるかという可能性がもとになって、こう生きている現実があるような事実性です。[…]可能性をめぐっての運動とは、実は、理解の運動です。あることが可能性であるためには、それを可能性として理解することが必要になるからです。そして、可能性の理解によって、自分の「そうありうること」という事実性に気づくことができます。[…]ハイデガーは、「として」をめぐる理解のこうした動きを、「投げかけ」[投企]ということばで捉えています。こうかもしれないと、投げかけてみるわけです。[…]理解は、先行的な理解の「投げかけ」、対象においての検証、そして、そこからのフィードバック、再度の先行的な理解の「投げかけ」という形で動いていくのです。

 このような能動的な働きとしての投企は、しかし、そうすることによってしか、我々が存在することができない、「可能性にたいして開かれているかたちでしか生きていけない」(同書、62頁)という性格を持っている(ハイデガーの言葉では「被投的投企」)。
 今、竹村が「「投企」されている」という受け身の事態として語るときには、投企のこのような性格までが念頭に置かれているだろう。つまり、さまざまな可能性に開かれている存在として我々は「自分が何者でありうるか」ということを理解する(投企)ことによってしか存在することができない(被投)。竹村の論では、その理解の形式が「集合的な物語」に依存しているのである。
注3 アメリカの批評家リー・エーデルマンは『No Future』(2004)において、新田啓子の整理によれば(新田(2020)、111, 112頁)、エーデルマンは、現代社会における性的多様性の承認が、あくまで次世代再生産を前提としたものであること(同性婚や生殖医療への包摂)を批判し、クィア理論は、そのような社会の維持を目指さない方向に進むべきだとする。新田はエーデルマンのこの議論が「女を子産み道具にするな」というフェミニズムの問題意識と重なる点があることを指摘しつつも、中絶を決定する主体たることを要求するフェミニズムに対して、そもそも主体性の放棄を主張する点で異なることを取り上げるほか、この戦略の、ジュディス・バトラーの議論との近さについても論じている(112-116頁)。
 また、千葉・二村・柴田(2021)で千葉雅也は、クィア理論が、エーデルマン以後、人類の存続と反存続としてのクィアの併存を問題にしていることを紹介しつつも、その立場が存続内で反存続を考える改良主義に戻っていかないかということを指摘しつつ、エーデルマンを評価しつつしかし破滅しきってしまわない、破滅しつつ破滅を続けるために破滅しきらない道として、自身の『動きすぎてはいけない』が読めるのではないかと語っている。また、同じ道を理念とし、実践した人物として柴田英里は草間彌生を挙げている。
 ドゥルーズ自身のフレーズとして、エーデルマンを受けた千葉的に読めるものとして例えば『ディアローグ』(『ドゥルーズの思想』)における「アルコール、麻薬、狂気なしですますこと、生成変化とはこれだ、より豊かな生のための酔払い=になること。これが共感であり、組合せ[agencement]だ」(ドゥルーズ(1980)、85頁)というものがあるだろう。
注4  例えば生殖とは結びつかない欲望=「本質的事実性」から大きくずれた欲望としての同性愛は、プラトンがそれを賛美していたように、時代や地域を超えて存在してきた。一方でそうした欲望を抱く自分が「同性愛者」であると理解しはじめたのは19世紀末以後のことであり、そのようにして、ある欲望を有する人と、そうでない人とが分けられたときに、一方では、従来キリスト教の影響から否定されていた同性愛の合法化(仏ナポレオン法典など)が、他方では英国などでソドミー法が定められることになり、また、懲罰ではなく治療すべき病として病理化されることになる(風間・河口(2010)、77-84頁)。

2(4-8頁)

¶6(4頁)


 竹村は本書を「セクシュアリティを中心に、「語りえぬもの」として秘匿されてきた事柄の政治性について」(4頁)書いたという。第1章で言われるように、竹村は「セクシュアリティ」を「歴史的に決定されたカテゴリーであるジェンダー区分の「偶発性」を隠蔽しようとして、「本源的な」男女の身体区分を捏造しようとするときに語られる、エロスにまつわる〈フィクション〉」(44頁)であると定義している。そのような〈フィクション〉が、「本質的事実」の根拠として機能するためには、その〈フィクション〉の外部は「語りえぬもの」と呼ばれ、秘匿される必要がある。そこで秘匿されてきた無数のずれ、「意味の過剰性」(注5)と、その秘匿に働く政治性(「〔ヘテロ〕セクシズム」)とが、本書では問題にされる。

¶7-9(4-6頁)


 第一章では〔ヘテロ〕セクシズムの要請、強化についての歴史的考察が行われる。異性愛主義と性差別が競合して「正しいセクシュアリティ」を生み出していたとすれば、女性同性愛は、二重に負の意味づけを与えられ沈黙させられてきたものである。また「正しいセクシュアリティ」は、階級の正当性、人種・民族搾取の正当性の捏造にまで結びついており、階級、人種、民族といった問題も、ここでは扱われる必要がある。
 主にアメリカ合衆国の女性同性愛に関してこの議論は普遍性の陥穽に陥らないよう書かれ、読まれなければならない。
 「正しいセクシュアリティ」についての言説、性言説は「移行」するものではなく、複数の言説が積み重ねられる仕方で構成され、その積み重なった地層が、今の「正統的な」性についての言説、解釈を生み出している。歴史を通じて移り変わっていく性言説の通時性の他に、同時代においても堆積している複層の言説が参照されるのであり(共時性)、その観点に立って、この章
の目指すのは、現在の性解釈において参照されている言説の複層性の解明である。この意味で探究は系譜学的であり、歴史的記述ではない(注6)。

¶9, 10(6-8頁)


 セクシュアリティに基づき、個人の身体的・心的生活を説明する「近代の個の神話」は、「エロスの広がり」を切り詰める。セクシュアリティが、再生産を目的に性器的なものとして編成され「集合的な物語」となることで、同性愛に関しても「擬似」性器的な関係が連想される。それは、性器的でない同性愛を認めたときには、異性愛者の「友情」と名指されるエロスと区別がつかなくなり、同性愛か異性愛かという検分が異性愛者のエロスにもつきまとい、安心して物語を生きることができなくなるからである。
 もし同性愛が性器的なものでしかありえないのだとすれば、異性愛者は、異性愛を実践していようがいまいが、同性愛行為を実践していない限りは自らを異性愛者と理解し続けられる。一方で、同性愛者は、その関係が、再生産的=性器的では有り得ないことが差別の理由になっているにも関わらず、(異性愛者が自らを「異性愛者」と確認するためにも)性器的な関係を持つことを期待されており、一方ではできないとされている事柄について、他方でそれをすること、しようとすることが、期待されている。この期待(とそれが生み出す不整合)が示すのは、同性間の友情と同性愛との厳格な峻別であり、その峻別は、同性間の友情からの性的ニュアンスの強迫観念的排除という(自称)異性愛者の姿勢を帰結する。また、再生産を行うセクシュアリティがパートナーシップを支えると考えられているがゆえに、それ以外の関係は、パートナーシップと認められない。これは、異性愛者のエロスの多様性、親族関係、人間関係の可能性をも喪失させるものである(注7)。

注5 本書の新田啓子による解説の表現、401頁。
注6  永井(2010)は「系譜学」を「解釈学」に対比させて論じている。解釈学的探究は、現在の信念を信頼した上で、その信頼の上で、信念を成り立たせているものについての探求である。系譜学的探究は、これと異なり、信念が、虚構でありうるという視点に立った上で、そうした信念がいつ形成されたのかという事柄についての探求、「実在と解釈の間に楔を打ち込み、解釈の成り立ちそのものを問う」(225頁)営み、である。なお、永井はそうした探求が、成り立ちはこうなっていたのだという終局に至ったときには、新たな「解釈」となることを指摘しつつ、信念を成り立たせるためにだけあったのではない、過去を現在と繋がらない点として描くことで、その過去性を守る営みとして、これらに対して「考古学」を置く。
 竹村の議論に重ねて言うのならば、解釈学的探究は、今の「集合的な物語」を自明視した上での探求、つまり「同性愛者は何が理由で普通の異性愛とはずれてしまったのか」についての生物学的探求などが挙げられるだろう。また「考古学」は、竹村が退けた「歴史的記述」に対応しよう。ちなみに、慎改(2012)の指摘によれば、フーコーは、69年に『知の考古学』を書いたが、それは、「我々の弁別特徴を示したり、我々の将来を素描したりすることを可能にする」(423頁)ためにではなく、「我々を自身の連続性から断ち切る」(同)ことで、「自己から脱出」(同)するためであった。フーコーを系譜学的に参照した性解放運動を評価しつつもそこから距離をとって考古学者であり続けたフーコー自身の解放運動との関係、性に関する戦略については慎改(2003)。
注7  ありうる親族・人間関係、ポスト「家族」に対する再生産中心主義的な反発の例示とその分析として、河口和也(河口(2003)、78-93頁)の、橋口亮輔監督の映画『ハッシュ!』読解はその一例である。この映画では、ゲイカップルのもとに、女性が現れ、結婚や交際ではなく子供のみが欲しいと打ち明ける。三人で子を育てるという家族像をめぐって、周りの人間の反発が描かれる。

3(8-12頁)

¶11-15(8-12頁)


 第二章、第三章では、わたしたちの心的構造や自己形成といった、内的と思われている事態について、前提視されている理解を扱った。そこでは、精神分析が捏造してきた物語を、歴史的文脈から論じた。
 フロイトの精神分析は、核家族から産出される近代的な個、性に関して執拗に二分される個を描くものとして、日本における抑圧的言説とも共振している。フロイトやラカンは、〔ヘテロ〕セクシズムを温存しつつも、個の産出構造の分析という点で、近代社会の分節化を行なったともいえ、章が目指すのは、それを批判的、生産的に歴史化することである。
 第二章では、他者との関係理解の中に入り込む本質主義を問題にした。自分とそうでないものが渾然一体になった世界から、人は、他者の/としての言語を媒介にしつつ、外的なイメージの中に自分を形象化・構築する(注8)。
 フロイトは、自己形成に置いてリビドーを重視したが、そこでは結局ペニスが性自認において中心となっていた。また、ラカンは、性自認を「言語」という別の水準で扱おうとしたが、そこでも中心に置かれたのは「ペニスの像であるファルス」(108頁)であった(注9)。
 しかし、集団的な言語の中で語らざるをえない我々にとって、言語の外に「ありのままの性」があるわけではない。だとすれば、解剖学的、生物学的性に基づく本能によって、性が説明されることはない。
 生殖イデオロギーに基づいて生み出されるセクシュアリティというフィクションは、「可能なエロス」と「不可能なエロス」という序列を生み出す。しかし、「可能なエロス」、正常な性愛、予定調和的な愛が語られることがほとんどなく、かえって「不可能なエロス」、逸脱のみが語られるのは、なぜだろうか。それは、本来全てのエロスが不可能であるにも関わらず、外部に、自らがそうであるのとは違うようなエロスとして「不可能なエロス」を描き出すことによって、自らのエロス、生殖イデオロギーのために、それが支持されねばならないようなエロスがあたかも可能なものであるかのように見せる(そして、直接そのエロスについては語らない)という離れ業をなそうとするためではないか。このような事態が、第二章で考察される。

注8  ここで念頭に置かれているのは、ラカンの鏡像段階論だろう。自分とはずれを持ちながらも安心を与える自己像(=「自我」)を赤ん坊は鏡に発見し、人は、自分のモデルとしての人物などの「鏡」に発見する。しかし、そうした像が、鏡として、自分を写すものであるということを確認するには、単に像だけがあればいいのではなく、その像と自分との一致を語ってくれる他者の/としての言語が必要となる。例えば片岡(2017)、78-90頁。
注9 フロイトの「男」と「女」を生物学的身体に対応する仕方で二分する性理論(エディプスコンプレクス)および、リビード(リビドー)概念に関しては、立木(2006)、173-242頁が明快。ラカンに関しては片岡(2017)、108-144頁などが参考になる。

4(12-15頁)

¶16-19(12-14頁)


 第三章では、母と娘との関係に焦点を当て、さらに自己形成と言語との考察を深めようとした。この二者の関係についてもまた、これまでは語られず、隠蔽されてきた(エディプス・コンプレックスは、息子-父の物語であった)。そこに、次代再生産の公的物語の罠があると、竹村は考える。
 父との物語以前の時期の乳児に注目した対象関係理論は、父との関係において在不在が問題になる性器(ペニスであれファルスであれ)的セクシュアリティ中心主義を脱していると思われる。しかし、対象関係理論やクリステヴァの理論は、その後に中心主義的なエディプスが起きることの自明性を疑うものではない。エディプス期において、それまでにあった母と娘との関係は、娘が「母」に同一化していくメカニズムの中で、忘却されてしまう(同一化と忘却の両方を語るメカニズムが「メランコリー」である)(注10)。
 核家族イデオロギーに基づく精神分析理論では、女児は、支配言語=「集合的物語」への参入に際して、自分は父親と違って、母親を愛することができないという「精神的去勢」が必要となる(これは、言語への参入が父への同一化によってなされるため必要となる)のほかに、「集合的物語」で唯一認められているエロス=異性愛のために、父に愛される「母」として、身体を名づける=「体内化」する、「身体的去勢」が必要となる。しかし、このような去勢は不当である。それは、「愛は自我形成と対象形成の同時進行性につけられた名称である」(13頁)からだ。
 自らを「母」にして、そうであるが故に「母」への愛の存在し得なかったことを、生み出すメランコリーは、女児に、「母」たること、すなわち、性器的存在でありながら、娘への愛が性器的であり得ないこと(なぜならば、自らと「母」の間にも性器的性愛はなかったのだから)を、強いて、女のセクシュアリティを「異性」に対しては性器的である一方、「同性」にはそうでないものとして、分裂、不安定化、矮小化させる。

¶20-22(14, 15頁)


 他方で、もはや母は「解放されていて」、父を愛し子を育てる存在として見られておらず、また、娘を自らのようにさせることもない、自立と自由を与える存在になっていると言われることもあろう。しかし、その自由はどれほどの自由なのか。ラディカルな多様性まで認めず、「友人」ないし教化する「先輩」として母が機能する時、母は、同性間の非性器的なエロス(友情)を利用して、「母」を免れている、抵抗の身振りと言いつつも、「女」の身体たることを、依然として反復しているのではないか。
 あるいは娘が「解放された」と語っても、母へのエロスを、「ある種の諦観と共に(しかしときに心配りに溢れて)我が身から引き離したとき」(14頁)、それは忘れられてしまう。女児は、「集合的言語」に参入する前に経験されたが故に、一度も語り得なかった物語が、ここで、一度もなかった物語として消し去られていき、異性愛のみが残る。
 〔ヘテロ〕セクシズムは、母と娘を、娘から母への移行として語る。しかし、母と娘というとのは「「一人の「女」のなかにつねに存在する共時的な双面のカテゴリーである」(15頁)。その限りで「あなたを忘れない」娘は同時に母でもあり、母は同時に娘でもある。そのために、娘と母とを分離し、通時的な物語とする精神分析が撹乱されなければならない。

注10 同様のメカニズムは息子の「父」への同一化においても指摘できるとして、竹村和子は別の著書(竹村(2000)、81-89頁)でこれを概略している。父への愛の忘却、否定は、〔ヘテロ〕セクシズムという、男女の差別を含むイデオロギーにおいて、女の母への愛の忘却否定とは異なった道を辿ることになる。セジウィックが提示した「ホモソーシャル」すなわち公的領域における男同士の、(第三項として女を据えるなどして)同性愛を強迫観念的に否定しながら形成される密接な結びつき、を、竹村はこの父への愛の忘却否定と結び付ける。また、竹村は、こうした認識の規範化それ自体を、社会学者ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」概念と結びつけている。

5(15-20頁)

¶23-25(15-17頁)


 以上二章の考察が、個人の心的様態、その自己同一化(アイデンティフィケーション)に対する〔ヘテロ〕セクシズム的解釈を問題にしてきたのに対し、続く第四章では社会における自己同一性(アイデンティティ)の問題を論じた。90年代以後社会的生を否定されてきた人々が、自らの「アイデンティティ」を主張する「アイデンティティ政治」が叫ばれている。しかし、周縁のアイデンティティを提示して行うそうした政治は、アイデンティティの本質化、また確定したものとしてのアイデンティティを〔ヘテロ〕セクシズム内部で、それを動揺することなく位置付けるゲットー化=包摂を生み出す危険性がある。すなわち「差異のあいだの平等を構築すること」が「特権的な差異のもとでの平等」にすり替わりうるということである。しかし、〔ヘテロ〕セクシズムから特権を得ていると自認する人々=「自称」異性愛者が、自らのアイデンティティを「アイデンティティ政治」を行う者と別のものとは限らないものと理解した時、アイデンティティ、個人の物語が揺動し続けるものでしかないことを理解した時、対立し合うもの同士の「政治」に見えていた事態は「倫理」の問題として位置づけ直されることになると竹村は考える。
 第四章は「アイデンティティ政治」のパラドクスを扱い、その脱出可能性を思考したものである。ある者を特権化しある者を周縁化する〔ヘテロ〕セクシズムに対し、自分自身の揺動するアイデンティティを問い直すこととしての「倫理」は、自己の中で応答=責任(リスポンシビリティ)を問題にすることと考えることができる。
 フーコーは、近代以後の権力を「主体にたいしてはたらきかけるのではなく、主体をとおしてはたらきかける」(232頁)ものであると分析した。この立場に立てば、権力者と主体という対立ではなく、主体化において権力が内面化され、たえず言説の生産において権力を維持・行使するような主体が問題にされなければならない事になる。米政治哲学におけるテイラーと、フカルディアンのコノリーとの間で争われた論争からはじめ(注11)、「現在性」をどう政治化するかが問題となる。

¶26-29(18-20頁)


 アイデンティティは自己承認と自己否認によって形成されるが、本来、否定されたものは、集合的な物語において描き得ないもの、〈おぞましきもの〉であり(注12)、その意味で現在は存在しない/できないものである。否定的なカテゴリー(女性性、同性愛、有色性)は、その存在できないものに対して「自身がそれではない」と語るために名称を与えたものであり、そのように与えられ、存在させられたものというのは、語り得ないものを、語りうるもの、よく知っているものに置き換えたものである。
 アイデンティティの政治が名付けをそのままにしてなされる時、そうした置き換えは維持され、ともすれば一部の人々に割り振られ続ける。そこでは〈おぞましきもの〉はなおも同じ名前を与え続けられ、〔ヘテロ〕セクシズムは動揺しない。
 我々はアイデンティティなしで生きることはできないが、自己同一化(アイデンティフィケーション)が自らを「そうではないアイデンティティ」と対置する時に、そのアイデンティティと、我々とは否定的な仕方で向き合うことになる。そのような向き合いの経験、向き合い、自らのアイデンティティを決定する経験において、我々は本来決定不可能なものであったはずの場所に赴いて、線を引くという経験を行う。このアイデンティフィケーションの経験は、しかし、同時に、〈わたし〉と他者との境界に赴く経験として、他者に触れることのできる方法でもある。
 自身を不安定化させる経験に他ならないこの経験は、あらかじめアイデンティティを限定したもの同士の対話、あるいは、アイデンティティの拒否に比べ、苦痛や痛み、混乱を伴う。しかし、この経験(の読み替え)が、アイデンティティの政治をアイデンティティの倫理へと開く道ともなるだろう。

注11 テイラーは、「アイデンティティ」概念の、他者から平等に「尊厳」を有するものとして与えられながらも、自分だけの「真正な」アイデンティティを目指す、という近代以後のジレンマに、政治における平等さと差異性の顧慮の要請を重ね合わせ、そのジレンマを、かえって差異を思考するのに役立つものとして読みつつ、アイデンティティと政治の問題を思考する。一方、コノリーは、「真正な」アイデンティティの想定は、異常/正常の言説における線引きを前提にしているものとし、真正なアイデンティティを目指す運動は、差異を劣位に位置付けてしまうのではないかと指摘する。田中(2010)を参照した。
注12 この概念は、フランスの哲学者、精神分析家ジュリア・クリステヴァのもの。アイデンティティを確立するために否定されたものが、タブーとして言語化される事態について、クリステヴァは『恐怖の権力』で論じた。フォカ・ライト(2003)68, 69頁を参照した。

6(20-27頁)

¶30-38(20-27頁)


 竹村は当初第四章までを構想していた。しかし、最後の節(「〈同一性の中断〉の倫理」(274頁)で扱ったテーマはひとつの論文として考察されなければならないと思い、終章の「〈普遍〉ではなく〈正義〉を——翻訳の残余が求めるもの」が書かれることになった。
 第四章で書かれたのが、間主体的政治が内主体的倫理へと向かっていく道行きであったとすれば、倫理は政治に、あるいは日常生活にどう返っていくかという問題が、問われなくてはならない。その問いと、「アイデンティティの中断をどう生きるか」という問いとは、関係している。
 間主体的な語りとしての政治も、内主体的な語りとしての倫理も、その「個人的な物語」は、「集合的な物語」(「言語体系」(21頁)、「社会システム」(22頁))に参与することによって初めて可能になる。「集合的な物語」の中で自分を位置付けることを中断することとしての倫理を、どう「集合的な物語」の中で語ることができるかということ、つまり倫理の政治的「翻訳」が、この章では考えられた。
 支配的言語の中で抑圧されている言葉をどう語るかという問題は、スピヴァックによって検討された。スピヴァックはのちに、「サバルタン」(注13)が語ることができないのではなく、その声を聞き取られないのだ、ということを指摘した。
 しかし、語るものが劣位にあり、聞く側が上位にあるとき、上位にいる聞くものの、上位から提示する人間主義、普遍、共約性は、独善でありえ、そこで声が聞き取られきるということはない。一方で、だからと言って、聞きえないところに止まるのであれば、それはサバルタンを「「汚染」されていない純粋な他者」(23頁)として、再配置することになる。
 しかし、サバルタンが「汚染」されていないとは言えないだろう。「サバルタン」が「サバルタン」として、「女」が「女」として、「同性愛者」が「同性愛者」としてアイデンティフィケーションされた時、その人々はすでに、「集合的な物語」の上に位置付けられている。したがって、物語の外部にいる者として「語ろうとする者」は、実の所位置付けられている限りで「聞く者」であり、また、「聞く者」も、その位置づけからのずれにおいて実の所「語る者」なのである。この入れ子構造が、「集合的な物語」を通じて形成されていることを再考する必要がある。つまり、間主体的、劣位と上位の間で「語る者」、「聞く者」を問題にするのではなく、内主体的、自らのうちにある「集合的な物語」の外部と内部で「語る者」の声の「聞く者」への届かなさを問題にし、その届かなさを翻訳において問うことで〈正義への訴えかけ〉をなすことのみが、唯一可能なことだと考えられる。
 「集合的な物語」に依拠しつつなされる「個人的な物語」において「非正当」なもの、失敗したものとして表出される発話こそが、今「集合的な物語」が限定しようとしている、制御不可能な過剰なものをあらわにし、〈正義への訴えかけ〉となる。
 そのような「非正当な発話」に直面して、その翻訳が挫折してしまうということ、「翻訳の残余」が存在することから目を背けないことが、新しい政治の課題であると考えられる。普遍性だけではなく、普遍性の前に失敗する発話に応答し続けることが、目的論的でなく動的であるような政治のための第一歩と考えられる。
 内主体的倫理において、アイデンティフィケーションの間に成立する相剋と葛藤(「中断」はそれを顕在化するものである)が吐き出されることなされる〈正義への訴えかけ〉が、再度、相剋と葛藤を生み出し、倫理が政治を、政治が倫理を生み出す時にこそ、「集合的な物語」が変容していくことができる。

注13  この後はイタリアの思想家グラムシに由来する。グラムシは、支配に抗うための集団的な社会的・政治的意識を持たないイタリアの貧農の特質をこの後で表現した。この後はのちに、インドにおける「サバルタン研究集団」の歴史家たちによって、独立後インドで依然として階級構造を変革しようとしないインドの被差別階級を示す語として使われる。スピヴァクは、この分析においても、階級内の男性の特権化が行われていること、サバルタンが結局革命主体になることを目指されていることを批判し、複雑な状況を生きるサバルタンの側からの政治を志向する。モートン(2005)84, 85頁参照。

7(27-29頁)

¶39-43(27-29頁)


 現在のセクシュアリティにまつわる系譜学的探求が、〈言語〉への探究に至ったのは、ひとつの問題に取り組むということが、その現象的課題の分析だけでは済まず、分析自体の認識構造を問題にすること(「人間の関係性をどう捉えるか」(27頁)という問いを立てること)を必要としているからである。
 「個人的なことは政治的なことである」という第二波フェミニズムのスローガンが正しいのと同時に、個人的なことは心的世界の形成とも結びついている。我々が出会うことになる個人的なこととは、「集合的物語」が心的世界を形成するという事態があって、その世界を媒介にして、出逢われることである。また政治的なことというものも、それに関与する行為体としての〈わたし〉と無関係には存在しない。〈あなた(たち)〉との「あいだ」で、言説実践として、その「あいだ」を再生産し、同時にその度ごとにアイデンティフィケーションされる=「あいだ」によって作られる〈わたし〉が、そこには参与している。
 自然なものとされてきた事態であり、肯定的な感情の裏に否定的な感情、無関心、無理解までを含み持つ事態、としての「愛」を表題に置いた。それを生み出し、裏書きしているのが「集合的な言語」であった。また、竹村は「愛」は精神的愛と身体的愛とに分けるわけでもない。それを分けるイデオロギーを問うたのだ。
 副題にある「アイデンティティ」と「欲望」は、従来、それぞれ対自的なものと即自的なものとして解釈されがちである。しかし、愛の舞台で、それらは、互いが互いを限定し、構築し、変容させるものである。二者の、このような関係性への注視が、新しい親密圏、公共圏を模索することの条件と考えられる。

8(29-32頁)

¶44-49


 愛について書くということが、これほどまでに自分と向き合わせ、危機に陥れ、既存の言語の中に取り込まれている自分に気づく発見になるということに愕然とした。
 終章以後も、翻訳の失敗としての狂気の位置とその力、狂気の生存可能性について考えたいと感じた。「愛」、「語りえぬもの」について語る試みは、それが語り尽くされることのないという点に限界と強みを持つものだろう。それは、愛について我々を支配する「集合的言語」の優位の終わりのなさであり、その言語が普遍を終わりなく僭称するほど、終わりなく暗示される例外の存在である(注14)。
 同時に、書くことを躊躇わせるのは、狂気が「正気」の人には恐怖の暴力として到来するということ、聞き取られないはずの声を聞き取らせようとする絶望的な試みが生存領域を脅かすものとして聞かれること、そのような仕方で起きた同時多発テロ事件である。
 狂気は、抑圧と暴力をおこなってきた「正気」の人を危険に導くのと同時に、自己をもそこに向かわせるものである。それは、狂気の人もまた「集合的な物語」に位置付けられていたのであり、語るものが同時に聞くものでもあったがゆえである。狂気の人もまた、自分自身を傷つけることになる。
 狂気を生き延びたのち、暴力として映ってしまったそれを人間主義は解決することができない、ならば、この狂気をどう考えれば良いだろうか。
 こうした課題を思考しながらも、一種の暴力によって、思考を区切って本にすることになった。

注14 「戻換」(30頁)とは論理学用語で、「すべてのSはPである」という命題から、「PでないようなSが少なくともひとつ存在する」という命題を推理として導出する変換規則である。中井(1961、20頁)によれば、前者の全称命題は、それが主張される必要がある以上、PでないようなSの存在を暗示している。そのためにこうした推理がたつ。


[参考文献]


風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』、岩波新書、2010年。
片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門——ジャック・ラカン的生き方のススメ』、誠信書房、2017年。
河口和也『クィア・スタディーズ』(思考のフロンティア)、岩波書店、2003年。
北川東子『ハイデガー 存在の謎について考える』(シリーズ・哲学のエッセンス)、NHK出版、2002年。
清塚邦彦「言語」、野家啓一・門脇俊介編『現代哲学キーワード』、有斐閣双書、2016年、67-87頁。
慎改康之「セクシュアリティと欲望の真理 フーコーと性解放運動」、2003年。
(下記リンクから閲覧可能)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/02-recherches.html
——「訳者解説」、フーコー、ミシェル(慎改康之訳)『知の考古学』、河出文庫、2012年、410-427頁。
竹村和子『フェミニズム』(思考のフロンティア)、岩波書店、2000年。
田中智彦「公共哲学の展開(II)——テイラーとコノリー——」、山岡龍一、齋藤純一編『公共哲学』、放送大学大学院教材、2010年、75-89頁。
(この書籍には新版があるが、その版にはこの文献は収録されていない)
千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里『欲望会議 性とポリコレの哲学』、角川ソフィア文庫、2021年。
立木康介『面白いほどよくわかる フロイトの精神分析』(学校で教えない教科書)、日本文芸社、2006年。
ドゥルーズ、ジル・パルネ、クレール(田村毅訳)『ドゥルーズの思想』、大修館書店、1980年。
(江川隆男訳『ディアローグ ドゥルーズの思想』、河出文庫、2011年もある)
中井浩「情報基礎講座(V)第3章 情報処理過程としての思考」、日本科学技術情報センター『月刊JICST』4巻9号、1961年、12-24頁。
(下記リンクから閲覧可能)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/4/6/4_10/_pdf
永井均「解釈学・系譜学・考古学」『転校生とブラックジャック——独在性をめぐるセミナー——』、岩波現代文庫、2010年、223-228頁。
(岩波現代文庫、2010年の新版がある)
新田啓子「欲望」、三原芳秋・渡邊英理・鵜戸聡編『クリティカル・ワード 文学理論 読み方を学び文学と出会いなおす』、フィルムアート社、2020年、98-123頁。
フォカ、ソフィア・ライト、レベッカ(竹村和子・河野貴代美訳)『イラスト図解 “ポスト”フェミニズム』、作品社、2003年。
モートン、スティーヴン(本橋哲也訳)『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』(シリーズ 現代思想ガイドブック)、青土社、2005年。


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