絓秀実『日本近代文学の<誕生>』第三章「国民的想像力の中の「女」」読解(ゼミ用作成のレジュメ)

本文の形式段落に合わせ段落を立て要約。意味段落でグループを作り小見出しを立てて分けた。絓がパラグラフライティングを行なっていないのか、私の読解がまずいのか、一つの形式段落につき話題は一つではないように思われる。

1 『浮雲』における唯一の「である」体

¶1~3(92-94頁)『浮雲』における二つの革命について

 二葉亭は世俗主義=俗語革命を、内容と形式の両面において遂行し、それによって、近代の「国民的想像力」(読者が自分と小説の登場人物とを等身大であるかのように想像するあり方)の端緒を掴んだといえる。内容面での革命は「立身出世主義」から挫折した世俗的アンチ・ヒーローを描いたことだが、形式面での革命は言文一致の日本で最初の本格的実践というところにある。これらを充分になした『浮雲』(1887-1890・明治二〇~二三年)はその後の明治二〇年代初頭の試みを見ても孤立している感があるが、その遂行の重要性についての指摘は当時の批評にもある。
 「国民的想像力」は、国家的ー文化的アイデンティティを新たに形成しようとするものであるのだから、形式面での革命(=「あひゞき」の翻訳における言文一致の達成)だけでは十分ではなかった。それは、ツルゲーネフなどの二葉亭の翻訳した作品がいくら世俗的な内容を有しているといっても、その世俗性は国民国家外部、他所の作品の世俗性に過ぎないからである。中村光夫が『二葉亭四迷伝』で言うように「同時代の日本文明批評」といった国民的な問題が扱われていることが、内容面の革命として必要であり、それゆえ二葉亭のナショナリズムは創作を必要としたし、『浮雲』はその達成とみなされた。
 『浮雲』がその端緒を掴んだ「国民的想像力」に関する『浮雲』研究は不十分である。それは、その「想像力」の意義を語るのみで、その限界が触れられていないからである。また、従来の『浮雲』論は、『浮雲』の未完成性(我々はこの問題に関して「話」に比べて「歴史」において虚構が構築しづらいという大枠を示している(注1))について、二葉亭において「国民的想像力」が形成の途上にあるという前提のもとで、その試行(=形成)の完遂を希求するものだったといえるだろう。中村光夫『二葉亭四迷伝』がその代表である。文学史上の二葉亭の先駆者なり完遂せざる試行者という位置付けはそうした『浮雲』論から出てくる。

¶4~9(94-97頁)浮雲における形式の不十分?

 小森陽一はその『浮雲』論において、近代人の自己意識を批評的に書いた作品としてこれを読む。『浮雲』の主人公を内海文三とみなす限りにおいて、こうした読みはほぼ一般的である。『浮雲』が内容的に新しいにも関わらず、十分な形式を持ってそれを表現できなかった、という中村と同様の枠組みにおいてなされる小森の分析は、様々な理論を用いていても、この常套的な読みしか取り出せていない。しかし、二葉亭は、小森の言う「新しい物語」(=近代的自己意識)を記述するための、決定的に新しい形式の第一歩を構築しえていたのではないか。
 当時の批評においても、近代的自己意識の問題を扱った二葉亭の新しさは指摘されていた。石橋忍月は発表直後に直ちに高い評価を与え、世俗革命=俗語革命の問題に触れているが、そこまでは十分には踏み込めていない。
 しかし、島村抱月は「二葉亭論二則」のなかで、明治二〇年代に『浮雲』を読んだ時のことを回想し「自分等みづからの心中の秘密を穿つた小説だと言う感じであつた」と述べており(それは抱月の来歴、「二則」執筆当時の抱月の位置と、作中の文三の状況が類似していることからも頷ける感想である)、近代的自己意識という『浮雲』の問題が感じられ共感されていること、伝わる社会的・階級的基盤が存在したことが、ここから判断できるだろう。
 当時から現在までこのように『浮雲』は、近代的自己意識の現前的リアリティとして受容されてきたのであって(注2)、この現前性のことを指し示している語こそが、俗語革命なのである。『浮雲』の語りのうちには、(現前と対となる)再現性の指標が多く見られる(旧来ジャンルの語りの踏襲、過去時制、挿評)。しかし、我々はそこに現前性の未達成ではなく、あるレヴェルにおける現前性の達成を見ようとするのである。
 現前および再現を考えるにあたっての『浮雲』の形式的特徴として、会話による物語の進行という方式も挙げられる。小森はここに、『浮雲』の形式における人情本との連続性をのみ見ているが、これは、シェークスピアの戯曲を現前性の理想とした状況にあって、現前性のための手法として選ばれた(=変えなかったのではなく手法として積極的に選択した)と捉えるべきであろう。
 しかし、会話による進行という方式が与える冗長さが現前性を削ぐことが多くあるというのも事実であって、『浮雲』においても、この方式は現前性を目指す手法としては、選ばれたとはいえ失敗している、とみなすべきであろう。

¶10~14(98-100頁)「世人」の物語としての浮雲

 失敗した手法の適用があるとはいえ、先に見た『浮雲』受容からも明らかなように、ある意味では、現前性という虚構がそこで実現されているのは確かであり、それが分析されねばならない。現前しているものが近代的-国民的自己意識であって、そうした意識を分析したアンダーソンの議論の背景にハイデガーがいると見做せるのならば(注3)、『浮雲』に現れる「平凡なる不完全なる人物」、あるいは「他者や社会との関わりの中で、何ものでもなくなった一人の男」を、『存在と時間』の「世人」(das Man)の想像力(=「国民的想像力」!)の構造を踏まえて分析するのが良いだろう。
 「現存在」(Dasein)(≒人間)は、世界内存在として、他者に対しては「顧慮的な気遣い」Fürsorge(注4)というあり方をして相互に共通の世界に存在しているものとしてあるが、そのうちで差異を気にして安らぎを得られなくなっている存在である。その限りで、現存在は「他者に隷属している」。

(『存在と時間』SZ126、中公クラシックス版Ⅰ巻327頁からの引用)
①「他者に隷属している」というのは、現存在の日常的存在可能性(=あり方の自由)が支配されているということで、これは「存在が奪われている」とも言える事態である(注5)。
②そのような事態は、差し当たってたいていは私にとって自覚されないものであって、現存在には、自覚されないままに存在を他者によって奪われる「共在性」がある。
③現存在は、存在を奪うこの人物(それは特定の誰かというわけではなく、誰でもありうるようなもの、「世人」である)に対して、「他者」とこれを名づけることによって、自分も「世人」として同様に支配されてあることを隠そうとするのだが、その身振りによって一層、他者の、存在を奪う威力は強化される。
④現存在が存在を奪われる一方で、他者が私の身振りによって強化されていく日常的生にあっては他人こそが「現にそこに存在している」当のものである。

 ハイデガーの論点は、ヘーゲルー初期マルクス的な「人間疎外」と今まで言い換えられてきており、近代における人間の疎外状態として理解するこのハイデガー解釈は、『存在と時間』の文脈とも一致しているのは違いない(注6)。そして、先述の『浮雲』の一般的な読みが示しているのはおよそこの疎外状況に他ならない。前田愛「二階の下宿」の文化記号論的分析も、こうした読みに忠実であることでは変らない。「他者に隷属している」「世人」の状態を敷衍して、他者の欲望するものを欲望するというジラール的図式に当てはめて読む読みなども考えられようが、それすらも、ジラールの理論が自身にとって本質的なものが他者のものとして出逢われるという疎外論に基づくものである以上、革新的な読解とは言い難い。文三を折口信夫の物語類型の「貴種流離譚」に位置付ける読みもあるが、それも結局のところフロイト的、そしてフロイト的であるということはジラール的でもあってやはりラジカルではない。
 しかし、そのような疎外論的読解の基盤を明かそうとする我々が(ともすれば疎外と変わらない)「世人」を参照するのは、現存在概念が、その基盤、現前性(という虚構)を問える強度を持つ概念だと考えられるからである。

¶15~21(101-105頁)『浮雲』で現前するものは誰か? 近代的自己意識のパラドクス

 従来主人公とされてきた内海文三は、『浮雲』において、周りの人物に「顧慮的に気を遣っている」唯一の人物である。それゆえ『浮雲』において現存在であるのは、文三のみであるともいいうる。このことが、文三に近代的自己意識を見る読みを支えていた。
 『浮雲』の話者は、その上演的=講話的(=挿評的)性格を帯びている語りにも関わらず、文三の「顧慮的気遣い」を捉えるために、内在的に焦点化しようとすることがある。文三の内的独白と誤って考えられることもある第三篇の話法も、そうした目的のためになされたものである。

お勢も悪るかッたが、文三もよろしく無かッた。「人の頭の蠅はえを逐おうよりは先ず我頭のを逐え」――聞旧ききふるした諺ことわざも今は耳新しく身に染しみて聞かれる。から、何事につけても、己おのれ一人いちにんをのみ責めて敢あえて叨みだりにお勢を尤とがめなかッた。が、如何に贔負眼ひいきめにみても、文三の既に得た所謂いわゆる識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁けいそうと心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂うしとも思わぬ様子※[#白ゴマ点、190-1]醜穢しゅうかいと認めねばこそ、身を不潔な境に処おきながら、それを何とも思わぬ顔色かおつき。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈ともしび冷ひややかなる時、想おもうてこの事に到れば、毎つねに悵然ちょうぜんとして太息たいそくせられる。
 して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞なめ足りぬそうな!

二葉亭四迷『浮雲』第16回(青空文庫より)

 小森は先の論文で、この話法のうちに見られるのが自分自身についての「自己認識」ではなくお勢に対しての「対他認識」であると語っている。しかし、「欲望とは他者の欲望である」というヘーゲル的見方からしても、あるいは先のハイデガーの「世人」のありようからしても、小森が「対他認識」という語で語っているものこそが、近代的「自己意識」のあり方を規定しているのである(注7)。小森が錯覚したような、「対他認識」によって規定される「自己意識」という描き方がなされているこの箇所こそ『浮雲』の現前性を保証しているのである。
 引用されている箇所の、挿評部分に挟まれた、「己一人をのみ責めて敢えて叨にお勢を尤めなかッた」という箇所は、ハイデガーの語る「ひと自身が、他者に属して、他者の威力を強化している」という状況に他ならず、ここに近代的自己意識が現れている。そして、自分にしかわからず現前するしかないと考えられる(注8)自己意識の構造を語るためにこそ、再現的=上演的な文語文ではなく言文一致が要請されるのだ。
 加えて重要なのは、二葉亭自身が「だ」体だと言っている『浮雲』のうちで、「…で。」止めの中唯一「である」が使われている「お勢は実に軽躁で有る。」という文である。
 挿評的な表現の「である」は何者かが「現にそこに存在している」ことを強く表現するために用いるものだが、それが文三ではなくお勢に用いられていることは、ハイデガーの指摘、「『他者』こそ、日常的な相互共在性においては、差しあたってたいてい『現にそこに存在している』当のものなのである」に対応しているだろう。あくまで焦点化されるのは文三でありながら、焦点化されない、他者であり続けるお勢に対してこそ、『浮雲』は唯一の「である」を使うのである。
 男=「自己」に対して女=「他者」の現前が強調されるこの状況は、「女権拡張」により、従来秩序の(一応の)崩壊、女が男と並んで同じ「世人」になった結果、かえって「他者」として厳然し始めたという社会状況の反映とも考えることができる。その、「他者」である女が「世人」として存在(現前)している、という状況との関係でのみ、ネガティブな現前性として存在しているのが近代的自己意識としての文三なのであり、先の「己一人をのみ責めて…」は、内容だけではなくこのネガティブな現前性を語っているものとしても読まれなくてはいけない。「世人」すなわち「いかなる特定のひとでもなく、たとえ総計としてではないにせよ、すべての人々」として現前するお勢が(現前する限りにおいて主人公であるかのように)ヒロインであるとするならば、それに対して非現前である文三のアンチ・ヒーローというあり方こそが「国民的想像力」の基盤なのだ。他人の現前によって非現前として現前するという、自己意識のパラドクスは、このように「である」体の問題を解決する形で定着された。そして、その定着を遂行したところに『浮雲』の、世俗主義=俗語革命の開始を見ることができる。


1、『日本近代文学の<誕生>』81頁。
2、「現前」と「再現」との問題に関しては、『〈誕生〉』第一章54-56頁、第二章70, 71頁など。
3、『<誕生>』24頁。アンダーソンの背景にハイデガーがいるという見立てについて補足。同頁で抜粋されている箇所では、宗教的思考の退潮する時代にあって、「運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換すること」が求められ、国民の観念がそこで機能したということが言われていた。『存在と時間』のハイデガーの議論は、これと逆の方向に向かうものであったと見ることができるだろう。日常的に世界内存在として頽落している現存在は「何ものでもない」限りで他の人と連続的であり、存在しているということの意味を朧げながら確かにあるには違いないものとして生きている。ハイデガーの議論ではそうした存在者が、死への先駆を通じて本来性を回復し、自分の在ることも在らざるようになることも、根本的に偶然的で在るが故に、その生が自らの死という運命のためだけに、自らのものとして生きられるものとなっていく。 そのように考えると、ハイデガーの議論と宗教的思考との近さということが言いたくなるが、ハイデガー研究者の轟孝夫は「ハイデガーの哲学的な出発点は、キリスト教の宗教的経験を神や来世などといった超越的な存在に依拠せずに意識内在的に記述することにあった。そのため『存在と時間』で詳しく論じられる本来性/非本来性という人間の二種の存在様態も、宗教的な真正さと非真正さという意味合いを色濃く残している」と、語っている(轟孝夫「なぜ日本人はこんなにハイデガーが好きなのか、その「もや」を晴らす」、現代ビジネス)。(轟は、『ハイデガー『存在と時間』入門』において宗教的思考の影響をさらに実証的にも検証している。)
4、ここは絓は「配慮的な気遣い」Besorgeとしているが、ハイデガーの用語として、道具的存在者への「配慮的気遣い」と、世界において同じ道具を用いる可能性を用いる限りにおいて関わる他人に対する「顧慮的気遣い」とは、ハイデガーの術語として区別されているのでこうした。論に支障はない。
5、原佑「ハイデガーへの対応」(『世界の名著62 ハイデガー』7-53頁)37頁では、この論点に関して、現存在が道具と関わるときと他者と関わるときとが対比的に論じられている。前者の場合、さまざまな道具を関係づけ、何を目的に使うかを決定させるのは現存在である(例えば家の空間は「道具」であり、どのような目的に基づいて、そこに何をどう配置するかを決定するかは現存在=人間の自由だろう)。一方後者の場合、そのようにして道具を目的づける他者とともに私がいる状況なのであって、そこでは、往々にして私も一つの道具のように(このようにして疎外論につながる)、私も他者の目的づけの中に、しかし取り替えの効く駒として、置かれてしまうのである。
6、ハイデガーの「ヒューマニズムについての書簡」のうちには、まさしく自らの問題の近代人の「故郷喪失」に関して、マルクスが、ヘーゲルを承けつつ、現象学も実存主義も至っていない本質的な次元へ達したと評価している箇所があり、その意味でこうした読みはハイデガー公認とも言える。日本では廣松渉が『マルクス主義の地平』においてこれを承け、むしろマルクスをハイデガーを超えるものとして読んでいる。二者の議論を概略的に紹介しながらもその可能性の大きさに比して不首尾だった生産的対話を開こうとするものとして熊野純彦「ハイデガーとマルクス主義」(秋富克哉ほか編『続・ハイデガー読本』がある。
7、自分が何者であるかということが、自分に関しての意識のみから明証されることはなく、自分と他者との差異において初めて浮かび上がってくるということ。
8、後述されるように、再現でなく現前の話法で語られることがリアリティを担保するにしても、それが真にリアルであるためには、現前してはならない、それではないものだけが現前しなければならないというところに近代的自己意識の問題はある。

2 「舞姫」の「帝国」

¶22~26(106-108頁)「舞姫」の二つの自己

 『浮雲』のモダニティの構造の傑出性を確認するために、それを「舞姫」と比較しよう。この作品もまた、「近代的自我」の覚醒を刻したものと言われることが多いが、そこには『浮雲』ほどのリアリティがあるのだろうか。
 『舞姫』は冒頭独白から始まり、その独白における感慨から遡る形にして手記が読まれるという構成をとっている。この二つの部分の差異として、両者とも一人称ながら、独白部分は「我」(「われ」)、手記部分は「余」が採用されているという点がある。
 「余」と「われ」の含意するものの違いについて。前者は男性一人称のみを指し示すものであるところにも現れているように尊大感を秘めている。手記部分の会話において、太田豊太郎が一度も「余」を用いない(尊大感を示そうとしない)ことに鑑みれば、「舞姫」においては「余」=豊太郎が演劇的=上演的な仮構の自己を表すのに対し、「われ」=豊太郎は、より現前的で世俗的な自己を表現しようとしているといえる。この二つの自己は「舞姫」における読解上最大のキーワードの「我ならぬ我」と「まことの我」の関係とも密接に関係するだろう(注9)。これを作品構造と重ねてみるのならば、「われ」である独白時の豊太郎が、「余」に仮構した手記において「われ」への転換過程を辿り直すというのが、「舞姫」の二つの自己の移りゆきである。
 この自己の移りゆきとも関係して「舞姫」の太田豊太郎への評価は二つに分かれている。すなわち、役割存在としての「余」が「われ」という自己意識になったという肯定的なものと、その反省的自己意識が、結局主体性も責任も放棄している身勝手なものに終わっているという否定的なものとである。「『舞姫』論争」以来続くこの論点に関して、それが論争になりえている、このリアリティの基盤こそが、我々にとっての問題である。我々は、「舞姫」の現前性の度合いを『浮雲』のそれと比べはるかに弱いものと考えるが、それは二葉亭と鴎外のナショナリズムの深度に関係すると見ている。

¶27~31(108-110頁)「舞姫」における再現性への対処

 『浮雲』の登場人物が世人であるのに対して、「舞姫」の登場人物は世人ではない。しかし、それは、登場人物の設定が平凡でないという安直な理由のゆえではない。むしろ「舞姫」の尊大さから反省的自己意識へという一人称の移りゆきは、エリートの平凡さを語っているにほかならず、だからこそ、舞姫が「国民的想像力」をある程度刺激し続けている(=世人と見間違えられている)のだ。しかし、反省的自己意識の所産である「われ」が「まことの我」である限りで、この「われ」は、文三の近代的自己意識――それはむしろ、「我ならぬ我」の方である――とは全く違っているのである。ここに、二者の近代文学-ナショナリズムへの関わり方の差異が見られねばならない。
 
「舞姫」は話法自体は極めて近代小説的である。文章も「雅文」と言われることすらある文体はともかく、『浮雲』に見られたような再現的な過去のジャンルの影響も見られず、明晰で多義性を持っていない。
 鴎外は、挿評の排除という問題も話法によって乗り越えていた。ドイツ三部作のうち「舞姫」「文づかひ」では一人称による語りを選んでいたうえ、「うたかたの記」でも再現的=挿評的言辞には慎重である。
 一人称であるからと言って、常に「話」として現在を語るということになるとは限らず、過去を再現的に語るということであれば、再現性の方が強調されてしまう。これを隠し現前性を強調する点について言えば、珍しい体験を再現的に語る「文づかひ」と比べて、過去を再現する語りが現在の独白する「われ」に帰ってくるという構造をとった「舞姫」の方がはるかに巧妙である。
 「舞姫」においては、過去の再現を通じて、今独白する「われ」の現前が目指されているということになり、この点で『浮雲』と比べてはるかに「改良」(注10)されているといえる。

¶32~37(110-114頁)「舞姫」における運動の不在 

 しかし、一人称小説の語りにおけるこの再現性と現前性の問題などは、二葉亭もそのツルゲーネフ翻訳を通じて察知していたはずであり、また、物語を語ることが、本質的には話者によるメタレベルでの(話す現在における経験した「現在」の)再現でしかないのならば、広い意味での「挿評」は避けられず、現前性は鴎外のした程度の対処では退けられないのだ。『浮雲』の画期性は、「である」体を無自覚に採用してしまうような、語りの現前性へ向けた運動性にあり、そして、その運動性が「舞姫」にないのだ。これが、鴎外と二葉亭のナショナリズムの差異である。お勢と文三の「世人」的関係と「余」とエリスの関係の比較からこれを考えよう。
 「舞姫」における「余」とエリスとの関係は、実のところ「挿評」に他ならないその語りの時点、再現の時においてもまったく分析されていない。「余」を引き止めたエリスの魅力が天性なのか、演技性なのかも明らかになっていなければ、その関係性がどのようなものであったかの分析も「悪因」という程度のことでしか解明されていない(注11)。
 一方『浮雲』における話者は、文三がお勢との関係に整合的な分析を挟むことのできないことを記述しつつ、内的焦点化という運動を通じて、文三のお勢への志向性(=すべての意識に対して常に意識の対象が伴っているという性質(注12))を捉えようとしていた。『浮雲』の文三は、作中で内容的にその固有の役割を剥奪されていき、何者でもない人々(その代表がお勢である)との関係にあって、そうした人々に左右されながら固有の役割を持つことのなくなってしまう「世人」の構造に入り込む(そのことを明白に示すのが前節で見た箇所の内的焦点化である)。「舞姫」の「余」は、エリスとの関係性を分析しようとしないままである(=運動しない)がゆえに、役割存在から逃れられない。実のところ、エリスとの生活がそこに向かわせるような、「自己意識」ともされる「われ」ですら「余」と何ら変わらない役割的=上演的=演劇的自己なのだ。

 我学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡およそ民間学の流布るふしたることは、欧洲諸国の間にて独逸に若しくはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論には頗すこぶる高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、曾かつて大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自おのづから綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。

森鴎外「舞姫」(青空文庫より)

 物語内容における「余」から「われ」への転換に逆行するように、引用箇所では「我」から「余」に移っている。ここに、作品全体を見たときにあった「我」と「余」の対立を見なければならない。
 引用された一節においては、マイナス価値を帯びたかに見える通信員としての生活が、「学問」にとってプラスの価値を持っていることが語られている。エリスは、生活をマイナスに(「世人」に)近づけたのではなくむしろ結局のところは高めたのであり、「われ」より一層上位の役割存在である「余」によってエリスは保存、安定化させられている。この意味で、エリスをハイデガー的「他人」と位置付けることはできない。
 物語の結末における、「狂女」となったエリスを媒介にした「余」から「われ」への変換も、この保存、安定化の反復と見なせる。「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。」という結末の、第一文では(そこでは語られていないながら)それまでの主格としての「余」=豊太郎は続いており、第二文は、冒頭の「われ」=豊太郎と円環するように「我」が置かれているとはいえ、そこでは「余」と範列関係をなしうる主格としてではなく、所有格に「我」が置かれているのであって、「余」は保存されたと考えられるからである。フロイト的にいうのなら「舞姫」の「われ」は超自我としての「余」、無意識的下層としてのエリスを含んだ自我の複合体である。

¶38、39(114, 115頁)前田愛批判、ユングに対するフロイト的視点(注13)

 「舞姫」に描き出された都市空間から鴎外の自我に迫ろうとする前田愛の試みは、われわれの分析にも近いものだが、その試みのイメージの豊穣さに対しては、前田が注意していない指摘ができるだろう。すなわち、エリス的「下層」(都市ベルリンの暗部であり、観念の源泉としての無意識)から湧き上がってくるイメージは、豊太郎の「自我」に内面化され、「超自我」に管理されていると考えねばなるまい。つまり、「舞姫」の作品世界においてはイメージがただただ豊穣に湧き上がってくるのみであるわけではないのだ。
 前田の分析は「無意識」に力点を置きながら、「舞姫」を「ほとんど神話的」と評しつつそこに批判の目を向けない。そもそも、前田もわれわれも念頭に置いているフロイトの心の三層構造ですら神話的であることには違いないのである。世俗主義と再現的物語の現前(=偽物でしかない物語が、あたかも「国民的な」現実であるかのように現れる)という事態にあって重要なのは、その神話を批判することであるだろう。前田の神話賛美が問題であるのと同時に、神話ということを考えるのならば、神話(無意識)にも(言文一致以前の)演劇性にも回収されない、お勢が一層、その現前によって非現前としての近代的自己意識を立ち上げるという世俗主義を徹底して遂行したということになるだろう。

¶40~45(115-118頁)「舞姫」の「帝国」

 『浮雲』と「舞姫」とが立ち上げようとした近代的=国民的自己意識の差異を見た我々は、鴎外と二葉亭とにおける国家概念の差異を明かしたと言えるだろう。「舞姫」の国家がフロイト的「主体」を元にして、単独で安定した国家であるとするならば、二葉亭の国家は「他人」の積極的現前によってのみネガとして立ち現れるようなそれである。「舞姫」の国家は単独に「美学化」し得ているのであって、だからこそいわゆる「雅文」が用いられるのであって、他者の「雑」な言葉(=俗語)が入り込むことはなければ多義性も持たない。さらに言えば、「舞姫」の「余」のように、他者抜きに安定して存在し続ける限りで、鴎外の人物は神話的かつ演劇的な役割人物(↔︎世人)であるから(注14)、「他人」の現前と「自己」の不在とを要請する「国民的想像力」はそこで作動しない。
 そのような「舞姫」の「自我の構造」に対応するのは、(レーニン的ではない)近代以前の「帝国」イメージだろう。「舞姫」のうちに「近代的自我」を見てしまうのは、ちょうど近代国民国家をこの「帝国」としてイメージしてしまうことと対応するだろう。
 絶対君主のもと、広大な領土と(非均質的な)人々を有し、隣接する地域を支配しようとする「帝国」は、ちょうど、「余」という超自我、「われ」という自我(それは「まことの我」であり破綻しない程度に「世人」を外れておのれの運命、本来性を生きている)、権力を揺るがさず手懐けられるエリスという無意識的下層に対応していよう。その意味で、鴎外の明治国家=大日本帝国への同一化として「舞姫」を読むことはできる。
 しかし明治国家が近代国家であるならば、そうした「帝国イメージ」で読むことには限界がある。均質的国民を有している近代的帝国と、この「帝国」との相違は無視できず、むしろ、その相違を隠蔽してしまう「帝国イメージ」の詐術こそが帝国主義と呼ばれるべきなのだ(注15)。「舞姫」の見せかけの「近代的自我」はこの詐術に他ならず、それは『浮雲』の世俗主義を隠蔽する限りで機能する。「われ」が「余」を密かに保存する「舞姫」においては、世俗主義は「帝国」イメージによって止揚されている(=それを保存することでより高次の段階に引き上げられている)と言えるのであって、ここに、ナショナリズムー「政治の文学化」ーファシズムという第一章で問題にされた連関(注16)、すなわち、「世人」的モダニティと帝国主義、ファシズムとの連関の隠蔽がある。この隠蔽による「舞姫」の無害と対極的であるところに『浮雲』の傑出している点がある。
 『浮雲』にあっては、「自己」は絶えず「世人」=「他人」の現前によって支えられてあるのだから、雅でない「他人」の言葉、すなわち再現的な過去の言葉や多義的な言葉が入り込まざるをえない。それによって「帝国」の相貌は崩れてしまう。しかし、ナショナリズムもなお「美学化」を条件として成立するのであって(注17)、それは鴎外とは異なる仕方でなされたはずである。この「美学化」を考えるにあたって、「である」体の使用が重要であったというべきだろう。それは「他人」であるお勢を現前させると同時に、実体的・自律的な主体であるべきだった文三を非-現前化させた一方で、作品をこれまでとは全く別のジャンルにし、美的に統一させたと考えられるからである。世俗化-散文化によって芸術を解体することと「詩」=芸術を立ち上げることとの併立によって国民国家を形成するという俗語革命の逆説はこの「である」体の逆説に対応していよう。この逆説を扱うためにも、二葉亭の近代的自己意識の限界が扱われなければならない。


9、「かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、 余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、 官長の善き働き手を得たりと奨ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜しからず、また善く法典を諳じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ」 
10 、「改良」の鍵かっこは、『<誕生>』60頁と対応する。鴎外は逍遥と同様にスペンサー流の進化論的基盤に立っていたのであり、国民国家に共通の「富」としての小説の「改良」≒(スペンサー的)進化が念頭にあった。なお、言うまでもなく「進化」が「改良」に等しいというスペンサー流理解は進化論(特に「適者生存」)の理解として誤っているのであって、そのことを明快に論じたものとして吉川博満『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』がある。
11、再現であると思わせまいとする(=エリスと遭遇時の感想であると思わせる)がために一層分析が不十分である方がいいと言うこともあるのだろう。
12、木田元ほか編『現象学時点』の「志向性」、フッサールの用法を参照した。ここでの「志向性」という語は、「他人が意識対象として現前する限りつねにその威力は強まり続け、一層現存在じたいは存在しなくなる」というように「世人」と重ねて読むことができるのではないか。
13、前田の試みがユング的であることに関しては『<誕生>』第三章の注4を参照。
14、安定して存在することが神話的だ、と言われるときに念頭に置かれるべきは、「余」、エリス、「われ」という三人の「人物」が自我の複合体をなすのであれば、三者はちょうどエディプス・コンプレクスの父ライオス、母イオカステー、息子エディプスに対応するという事態だろう。
15、 絓が「帝国イメージ」はレーニン的ではないとわざわざ言っている以上、この「帝国主義」こそレーニンの帝国主義に通じるのではないかと考えたが、調べることができなかった。
16、 『<誕生>』36, 37頁。
17、 『<誕生>』24, 25頁。アンダーソンの引用とともに見た「運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへ変換する」ための世俗化-散文化と「詩」という相矛盾する要請。

3 言語的秩序を揺るがす「くされたまご」

¶46~50(118-122頁) 『浮雲』における「女」

 鴎外のエリスという「下層」への関係にも似た志向が二葉亭にもあった(「帝国主義への感化」、実行家的側面、結婚と離婚、「下層」を知る人間との交流)。しかし、作品においては「下層」のイメージは、鴎外ほどあらわになっておらず、一方排除もできていない。二葉亭の作品において「女」という記号は、「舞姫」のように「下層」にありつつ美学化されたものとして利用されてはいないが(注18)、しかし積極的に利用されているのは違いなく、宙吊りの状態にあると言っていいだろう。
 関良一は「『浮雲』考」で、『浮雲』をお勢を中心にした「当世女書生気質」のようなものとして構築されたとしている。そうした見解は、(非現前的であることで現前的な文三が主人公でありうるという近代的自己の逆説を踏まえない限りでは)お勢こそ現前しているという見解やお勢の「世人」であることを拾っている点では合致するところであり、また「女」という性差をそこで問題として暗示しているところが示唆的である。『浮雲』においては、この「女」という記号性において、お勢、お政が他の「男」たちとの間に物語を紡ぎ上げている。
 「世人」の性質として、環境のうちにあって始まり(自身の存在-現前)も終わり(今現前していることによって可能となる非在、死)も持たないということと、性差のないということとがある。この性差の不在は、男も女もない「国民的想像力」を可能にするものでもあるのだが、同時に、始まりも終わりもないという「世人」の状況は、国民(=国家)の始まりや終わりのなさとして、虚構の成立のメルクマールでもある。
 そして、このような「世人」の小説は、始まりも終わりも持たないのであってみれば、そのことが『浮雲』の書き始められて終わらなかったことと関係していると考えられる。「女」という記号(そして無徴である「男」の「記号」)が小説を可能にしたのである。
 二葉亭のメモにある『浮雲』結末のプランでは、文三はお勢の昇(文三が常にお勢との関係に嫉妬していた人物)との結婚を契機に狂い病院に入るという結末が予定されている。この結末では、文三は「世人」的日常生活から逸脱するのであり、その時に「女」という記号がマイナスのものとして使われる予定であったと言えるだろう。そして「女」の『浮雲』における規定をみれば、それは「女」の記号が文三に転化される事態、構造に対してそこに収まらない記号を導入する事態であるといえる。「女」という記号はそのような構造を破壊しうる記号としてモダニティの中に存在し始めたのである。


¶51~60(122-128頁)「くされたまご」における秩序の揺らぎ

 『浮雲』の結末の他のプランを借用したと言われる「薄明のすゞ子」と同様、「くされたまご」が上記の結末を借用したという指摘がある。なぜ、結末をつけることが、二葉亭以上に「女」を主題として導入した嵯峨の屋に可能であって、二葉亭にはそれができなかったのだろうか。
 嵯峨の屋の二作に関してまず注意すべきは、「女」を価値づける基準としてのキリスト教である。「薄明のすゞ子」では文三に対応する「女」お鈴が教会に通い始めるのに対して、「くされたまご」では熱心なキリスト教者の松村文子の腐敗が描かれている。
 「薄明のすゞ子」においては、極度にマイナスの含意を持つ「女」がキリスト教によって救われ、適度なマイナスへと緩和される。
 一方で、「くされたまご」では、キリスト教から、自ら腐敗し、マイナスに向かっていく女が裁かれる。「薄明のすゞこ」同様(注19)、「くされたまご」も挿評を多く含んでいて現前性は妨げられている(注20)。作品の内容の時代的なリアリティを担保するために、現前性を妨げて通俗道徳的挿評を入れる嵯峨の屋は、戯作的方法から脱却できてなかったわけだが、われわれはそこで留まらずこの挿表の問題を『浮雲』と関連させて、結末の問いとして考える必要がある。
 「くされたまご」のほぼ末尾、酔った宮川が一人寝ている文子の元に上がり込んだところに、晋が戻ってくる場面を引用する。

 (「くされたまご」結末部、最後の挿評部分手前までの引用)

 引用部に続いて、文子が父のない子を宿し白眼視されていることが「因縁因果」として語られるが、こうした内容は、巌本善治と内田魯庵との間で論争が起きたほどにはスキャンダラスだった。だが、その論争の二者の論には奇妙なところもある。
 巌本の非難は、憎むために人の事実を暴くのは文学のすべきことではないというもので、魯庵の反論は読者を一層不愉快にすることで、主人公である淫婦を嫌う気持ちを一層強めようとしているのだから、作品の欠点ではないというものであった。
 巌本が、世界をどういう目的から見るかが重要であるとしているのに対して、嵯峨の屋は、世間より高い位置から小説を作るためにこの世を観察し見抜かなければならないと答えている。嵯峨の屋の二作におけるキリスト教の役割は、このようにキリスト教を見抜くためにあったと見ることができ、事実、その後に嵯峨の屋は、徳富蘇峰や巌本のようなキリスト者に近づいていくのだ。
 巌本が恐れていたのは、キリスト教の批判ではなく、「腐敗鶏卵の因縁因果」が、嵯峨の屋の挿評における「努力」にもかかわらず「女」だけでなく「男」にも伝播し、「男」が正の記号性を帯びていて「女」が負の記号性を帯びているという記号論的秩序が崩壊することではないだろうか。女性を啓蒙する「女学雑誌」を編集する「男」の巌本からして、腐敗のみならず伝播までを扱う下篇は問題であったし、その問題は実の所、(見落としていただけの)魯庵にも共有されうるものであったはずだ。
 『浮雲』がこのような結末を完成させていたのならば、世俗性のゆえに(そこで描かれているのが「近代的自己意識」=近代人の共有している物語であるがゆえに)、「くされたまご」よりはるかにスキャンダラスなものとして受容されただろう。しかしそうならなかったのは、現前する「女」(「他人」)と非現前の「男」(「現存在」)、という秩序が安定した物語を可能にしていたからである。もしここで一気にその秩序を破壊してしまおうとしたら「国民的想像力」は形成され得なかっただろう(注21)。しかし、明治二〇年代とは、「国民的想像力」の形成と「女」という負の記号の「男」への侵食とが同時にあった時代でもあって、そのことが、硯友社や樋口一葉の作品から、俗語革命の一側面として見られなければならない。そして、侵食という事態を受け入れつつも、性差の含意を前提に国民的=近代的意識・秩序が形成されていくのであって、その、差異の侵食を無視した差異の秩序づけの、上に重ね合わせられた無差異としての「国民」という観念のうちに帝国主義的な方向性が見られなければならない(注22)。


18、フロイトは「男性における対象選択のある特殊な型について(『性愛生活の心理学への寄与』 I)」(『フロイト全集11』)において、恋する女性のうちに母の代理であること(「美学化」)の他に、良からぬ噂のあるような「娼婦性」を求める(それは「救済」のイメージと結びつく)男性の対象選択の方を理論から説明しようとしている。こうした「女」の特徴は『浮雲』においても見られないことはないが、「娼婦性」を文三に語らせる点でもお勢が作中随一の美人とも言い切れない点でも不十分な『浮雲』に比して、鴎外の「女」はやはりフロイト的であるのではないか。
19、「薄明のすゞ子」の挿評の頻出について述べていたのは『<誕生>』82, 83頁。
20、「キリスト教」に関しては第一章、28-31頁において、「運命性を連続性へ」移行させる際に、ある程度果たした「世俗化ー散文化」の機能とも関連づけても、少し違う角度から、嵯峨の屋における「女」と「キリスト教」の問題を取り出せるだろう。
21、第一節で見られたように、男=「自己」に対する女=「他者」の「現前」という事態が、「女権拡張」という社会的趨勢と関係していたことが念頭に置かれるべきである。
22、第二節参照。階層性(「余」)が保存されたままに、均質性(「われ」)が偽装されているところに、記号論的な性差の問題が対応しているのではないか。

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