ジュディス・バトラー(竹村和子訳)『ジェンダー・トラブル』3-4「身体への書き込み、パフォーマティブな撹乱」レジュメ

(意味段落にわけタイトルをつけて切っていき、本文の形式段落一つ一つに対し形式段落を一つ作って要約・解釈した)

¶1, 2(228-230頁)「身体」は前提か構築されたものか


 フェミニズム理論・政治が表明してきた「女」の利権・視点に先立って、「女」というものが形成されているということはあるのだろうか。仮にあるとすれば、それは、文化が書き込む下地としての、性別化されたsexed(=「女」として与えられた)身体の形態・境界なのか。その「女の身体」を境界づけるのは何か。またその「身体」はジェンダーや強制的セクシュアリティ制度が働く確固たる基盤なのか。あるいは、理論・政治が、「身体」を構築しているのか。
 身体の構築を主張する理論は、言説に先立つ、普遍的な「身体」に疑問を抱かなければならない。「身体」への懐疑、失墜が一方では今までにもあった(キリスト教、デカルト哲学、生気論的生物学、サルトル・ボーヴォワール)。しかし、そこで「身体」を意味づける、非物質的な、超越意識transcendent consciousness、この超越意識と身体との二元論を確固たるものとしているのは何か。意味付け以前の「身体」と意識による意味づけ、この二者を分離するものは何か。現象学および構造主義でこの二元論はどうなったのか(注1)ジェンダーの言説では、一見この二元論、身体軽視を脱しているように見える時であっても、どれだけ依然としてこれが機能しているのか。そもそもジェンダー的言説が身体について語る際になぜ書き込まれた後の私たちが以前の「身体」をわかることができるのか(注2)

注1 後ろ3行目「現象学は[…]構造主義の枠組みに照応しているが、この現象学のなかで、デカルト的な二元論はどの程度、前提とされているのか」
→この箇所は、英文
To what extent is that Cartesian dualism presupposed in phenomenology adapted to the structuralist frame […]?
だが、「どの程度、デカルト的二元論は現象学において前提とされ、[…]構造主義者の枠組みにおいて適合されたのか」
と、presupposedとadaptedとをいずれも、その程度が問題になっている、Cartesian dualism を受動態で受けた動詞ととるのが、(文法的にも併置として拾えている上)内容としても適当ではないか。
 元の訳だと「現象学」と「構造主義の枠組み」とが「照応」しているのは「精神/肉体を…記述しなおす」点であることになってしまう。しかしそれは現象学に関する記述としてはおそらく不適切である(仮に正しいにしても現象学が構造主義に先立つ思想である以上、ここまで簡潔には言えない)。
 また、デカルト→サルトル、という話がこの段落で言われている点から「現象学」は特にサルトル現象学のことととることが自然に思える。すると、本文の内容としては、デカルト〜サルトルが前提とした意識・精神・主体中心主義的立場が、構造主義において、それに先立つ首尾一貫した構造・パターン・(個人の自由な営みに対する)「文化」の存在という仕方で崩された(レヴィ=ストロースによるサルトル批判)、という展開について、それでも、そこでどの程度二元論は払拭できているのか、という問いが立てられているのだろう。
 デカルト→サルトル→構造主義→ジェンダー論と進むことになる。
注2 段落最終文「身体の輪郭は…いるのか」を解釈した。この訳文について、「なぜ」となっているが原文はhowであり「どのように身体の輪郭は跡をつけるのか」というのが骨子。

¶3-5(230, 231頁)系譜学における「身体」


 「セックス」「身体」の自明さを支えた知の手段とはどのようなものか。フーコーは自身のプロジェクトの一つであった系譜学の役目について語るときも「身体への書き込みを暴くもの」という仕方で「身体」を用いるが、同時に「歴史」の目標は「身体の破壊」であるともいう。「身体」=多様な方向性を持つ力や衝動、は、出来事Entstehungという書き込みを通じて破壊=その力を一元化され、そうした一元的な力として保存される。その書き込みを通じて歴史は価値・意味というものを生み出す(注3)一元化=身体の破壊は、語る主体、意味づけの生産のために必要である。歴史=知は、支配、書き込み、生成が同時に起きる「単一のドラマ」において、身体は弱体化されることによって語られうるものになる。
 こうしたフーコーの論理を維持するには、「単一のドラマ」(それゆえ以前には全く持って支配、書き込み、生成されていない)、安定して自己同一的で、破壊の犠牲になる身体が必要となる。フーコーのモデルでは、歴史ないし「文化」が、書き込みを行う道具となって、この身体を、比喩化(多元的な意味を、ある別の(それ以前には表現がないのだが)表現によって一元化)するのである。
 系譜学が書き込みの解明であった以上、その学では「身体」の存在は前提視され、問題にされていない。フーコーのエルキュリーヌについての分析のうちには、書き込み以前のこの多様な方向を持つ力、衝動が、歴史・知を打ち破るという考えが見られる。「身体」がそのような打破の可能性であることがもし否定されるということがあれば、系譜学は可能なのか。フーコーも認めているが、系譜学は、名を持つ特定の歴史、主体による意味づけを否定する。系譜学は、名もなき、あちこちに広がり活動的な組み立てstructuringによる結果として意味づけを理解し、そのような意味づけによって身体は理解可能なものになる(注4)

注3 例えば、その都度その都度起きた衝動に従って行為をするということではなく、もともと多様であった衝動が、一つの衝動の中で意味付けられる(長く寝たい、お腹いっぱい食べたい、が、煩わされることなく仕事を済ませたいになる)。
注4 「だがこのような…」以後の試訳。
If the presumption of some kind of precategorical source of disruption is refused, is it still possible to give a genealogical account of the demarcation of the body as such as a signifying practice? This demarcation is not initiated by a reified history or by a subject. This marking is the result of a diffuse and active structuring of the social field. This signifying practice effects a social space for and of the body within certain regulatory grids of intelligibility.
もし、分裂についてのある種の前カテゴリー的な根拠についての推定が否定されるならば、意味づけの実践のような身体の境界確定に系譜学的な説明を与えることは依然として可能なのか。この境界確定は、具体化されたreified歴史あるいは主体によって始められるのではない。この種の痕跡づけは、社会的領域における、伸び放題に広がり活発な、組み立ての結果である。この意味づけの実践は身体のための、身体という社会的領域を、理解可能性というある規定的[取り締まり的]なグリッドに対してもたらす。

¶6-10(231-235頁)社会と身体とを接続するものとしてのタブー


 メアリ・ダグラス『汚辱と禁忌』では、身体の輪郭を記しづけるものとしてのタブーが作り出され、そのタブーが自然化に貢献してきたということが論じられている。(引用は省略)
 ダグラスの論は、構造主義の前提(反規律的自然と、秩序を押し付ける文化という対)に賛同し、想定しているため、二元論を超えた異なる文化を考えることはできなかった。しかし、今タブーが身体をどう境界づけ、保持するかを考慮する出発点としてダグラスの論は利用できる。ダグラスは身体をタブーをもつ社会によって境界づけられたものとして理解しており、また、敷衍すれば、社会はそこで覇権を振るっているともダグラスから言える。(引用は省略)
 サイモン・ワトニー『治安欲望——エイズ・ポルノ・メディア』は、汚辱(=タブー)を与える人間として現在社会構築されているのは、<エイズとともに生きる人>であるという。エイズに関する同性愛嫌悪的反応のうちには、同性愛タブーとそのタブーの特定のあり方としてのエイズとのうちに連続性を生み出そうとしているものがある。身体による(=体液の交換による)社会秩序への危険ということが同性愛嫌悪的な文書で語られているのである。そこでは、ダグラスが語っているように不安定化された境界(この文脈では性対象として身体に分配する境界)が(体液を交換するという実践としての)身体によって表象されているといえる。
 ダグラスは、周縁部marginsにおいて、社会制度は脆弱となり、周縁部は危険因子として考えられると示唆している。それに従えば、秩序が認可していない身体の浸透性[通り抜け可能性]permeability(注5)を打ち出す男同士のアナル・セックスやオーラル・セックスは、エイズ以前より常に危険で汚穢を生み出す実践だったことになる。また、レズビアンの実践についてもそうである。しかし、重要なのは、秩序の「そと」(=認可されていない部分)にいることは、構造主義が前提にしていたような、雑然とした自然の「なか」にいることではないということだ。同性愛嫌悪においては、同性愛は文明化されていないうえに自然でもないと考えられている。
 身体がどの範囲に浸透性を持ち、どの範囲に非浸透的であるかを記述することは、身体輪郭の構築において重要である。逆に言えば、男同士のアナル・セックスやウィティッグが小説において描いたレズビアン的実践のような、表面、穴をエロスの新しい意味づけに向け開き、閉じる実践は、身体の境界を新しく記述し直すことである。文化的に認められた通過儀礼(=異性愛的性愛を実践し、その実践者として、誰かを例えば「子供をこしらえたまともな男・女」として認めること)はジェンダー化されたやり取りや(「男」「女」という)位置やエロスの可能性gendered exchange, positions, and erotic possibilitiesについての、異性愛的な構築を前提にしている。やり取りに存在する規制を取り払うこと(=タブーの撤廃)は、「何が一つの身体であるべきか」という決定を与える境界を破壊することである。タブーについての探求は、いかに「身体」について、その離散性、不連続性discretenessについての系譜学となり、それはフーコーの理論をよりラディカルなものにすることに等しい(注6)

注5 per-(〜を通して)+ -meate(行く)=通り抜ける(ジーニアス英和大辞典、permate参照)
注6 フーコーにおいては書き込まれる「地」として想定されていた「身体」(5段落参照)について、身体のうちに働いているタブーを問題にし、ダグラスの論に従いつつ、タブーがある身体にどう作用しているのか、タブーが周縁化した人々が、そこでどう語られるか(その身体が、社会の不安定性の表象にとして働いていることなど)を、検討することによって、その「地」であったような身体、フーコーが疑わなかった身体を問えるようになる、というようなことか。

¶11-13(235-237頁)一体であったものの「内部」「外部」への分化


 ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』における棄却abjectionの議論は、排除を通じて離散的なdiscrete主体が構築される際に、今まで見てきたようなタブーによる境界構築が必要であることを示している(注7)。「おぞましきもの」abjectは、自らの外部、汚物として排除されているもののことであるが、それは排除ののちに初めて異質なものとして語られることになる。(引用は省略)
 それまで一体であったものを、放逐して価値転換を図る行為によって、身体の境界は確立される。アイリス・マリオン・ヤングがクリステヴァを用いて論じるように(注8)、最初に放逐され、《他者》の位置に置かれた、セックス、セクシュアリティ、肌の色といったものが、次には嫌悪に転化し、覇権的なアイデンティティの基礎となり、それを強化するものとなる。主体が内部と外部との境界なき状態から、その区別を立てるときに、自分の外に価値のないものを放棄する排便をモデルになされるその実践において、社会的境界が維持され、強化される。
 そもそも、内部と外部という区分について見てみるのならば、これは、両者を区分し、その区分を安定化させようとする境界についての語り、差異化する文化の秩序が語ってきたものである。首尾一貫した主体を問題にするときには、そうした内部・外部という比喩が、問題にならなければならないのではないか。内面化のプロセスを問題にすることよりもむしろ、公的言説のなかのどんな戦略的配置のために、何のために「内部」という比喩が語られるようになったか、それは如何なる比喩なのか、その比喩において、身体はどのように形象化されるのかなのである。

注7 ヤング(2020)、200-203頁の整理によれば、母の身体と連続的である赤ん坊は、エディプス・コンプレックスによって自らを分離し確固たる主体とする前に、母からの「分離の契機」を生み出す必要がある。母から受け取るものを拒絶することはその契機として働き、分離を確立させようとする中で、その拒絶されたものは「おぞましきもの」(=分離しなければならないもの)として現れる一方で、まだ分離の不安定な主体が拒絶を反復するために引き付けられるような魅力的なものとしても現れる。
注8 ヤング(2020)、203頁では「おぞましきもの」の「おぞましさ」を「醜さと憎しみに関する非自発的で無意識の判断」と言い換えている。ヤングの論文の一つの目的は、制度上のあるいは主体-客体に置かれる属性の平等(マイノリティが一方的に分析され、描かれる側ではなくなったこと)が認められた上でもなお残存するこの「おぞましさ」が、マイノリティを、たとえマジョリティの基盤を身に付けたとしてもなおもその身につけていることを「証明」せねばならないよう方向付けていることを分析するものである。またヤングは、この「おぞましさ」が、上記の平等と慣習の水準において残存するマジョリティ/マイノリティの差異(マジョリティの規範を身に付けなければ認められないこと)との間で、一層強まるという指摘もしている(204, 205頁)。

¶14-16(237-240頁)「内面性」の生産、そのパフォーマティブな保持


 「内面化」に関して、フーコーは『監獄の誕生』で以下のようなモデルを示している。囚人は、欲望を抑圧させられるのではなく、その人の本質、生き方、宿命、精神として、禁止の法が書き込まれる(注9)。法は、身体に外在してあるものではなく、法を破ったもののあり方として、提示される(限りでのみ存在する)。(引用略)精神=「内部」という比喩が(このようにして出現する限りで)、身体の上に書き込まれることで、意味を与えられる。(見えず、解明されるべきものとして)身体における欠如として意味づけられる精神は、内部にありながら外部に(例えば犯罪を通じて)現れる、内/外の区別に意義を唱えるものとしてある表面の意味作用(=あくまで表面において、その内部、深層を提示させるような作用であり、同時に、「内面的病のゆえにこのような行為を起こすのだ」というように、表面が、その内部を通じてのみ意味づけられるもの)である。表面に現れるものを規定するものとして思考される限りで「精神は身体の牢獄なのである」。
 このフーコー的な記述、すなわち、精神を身体の表面の政治として読む記述は、ジェンダーに関していうならば、それを本質、生き方、宿命、精神としてではなく、「〔身体〕表面でなされる現前している行為としていない行為the play of presence and absence(注10)とを通じて行われる幻の形象の懲罰的〔=囚人において為されるの同様の仕方でなされる〕な生産」として記述し直すことになる。しかし、そうした幻の形象=「ジェンダーの身体的な様式」を生み出す法とは何なのか。例えば先述のタブーは、それを侵犯したもの/しないものというアイデンティティを生産するのであり、それによって、生殖中心的なジェンダーの安定化をもたらすものである。そこでは、本来〔=異性愛や両性愛やゲイやレズビアンの文脈〕なら存在するジェンダーの不整合は隠蔽される。本来、ジェンダー(=自分が性に関して何者であるか)はセックスや欲望からは導き出されず、セクシュアリティもたいていはジェンダーから導き出されてはおらず(注11)、したがって前者は後者の表出や反映ではない。このような身体領域の分解や分裂において、表出・反映という、(フーコーの分析した監獄以来の、二元論的な)モデルは記述能力を失い、虚構であることが明かされる。
 同一化において、そうした首尾一貫したあり方という幻想は、欲望され、希求され、理想化される。したがって、前段落で見た事態、すなわち、行為がアイデンティティを生み出すということがあるのに対して、一方で、アイデンティティが生み出される場所、なされる場所は、行為(=身体の表面))(およびしていない行為(タブー))においてである。この事態、行為がアイデンティティを生み出し、そのアイデンティティが、行為によって保持される事態はパフォーマティブなものである(その実践が、ある意味の表出であるということではなく、実践においてある意味が生産される)、ということができる(注12)行為の中で生み出され、一方で、(無意識的な)同一化を通じて新たに(それの反映とも見える)行為を一方で生産する幻想は、それが幻想であるということを、「行為者の「自己」の内部」の想定において隠蔽し、その隠蔽、政治的構築について問いを立てること自体を禁じるのである。

注9 慎改(2019)の整理によれば、監獄では「犯した行為のそのものの代わりに、異常性、逸脱、危険、病など、その個人を特徴づけるとされる諸々の要素こそが、明らかにすべきものになる」とフーコーは分析している。囚人=「非行者」はその「非行性」に縛られたものとして記述されることになる(122, 123頁)。
注10  邦訳「存在と非在の戯れ」。あまり難しいことではなく「ある人が行為としてやることとやらないこと」ということと取れるのではないか。
注11 例えば、GT邦訳218, 219頁、「「図様」と「下地」が逆方向に向くのを好むこともありえる」
注12 サリー(2005)、113-118頁によれば、本節の、以後続く箇所が、バトラーの「パフォーマティブ」概念に対する批判の中心となった箇所である。バトラーのこの概念に関して重要なことは「パフォーマンス」と「パフォーマティブ」との区別である。前者は、「パフォーマー」=主体を前提とし、その主体が、主体性を行使することによって安定性を僭称しているジェンダーに迎合的な/反発的な意味づけを持つ行為を生産することをいうのに対して、後者は、そうした主体自体がそもそも、行為に対して適用される意味づけの法(による、内面の想定、想定された内面に対する同一化)によって設立されるという事態を指す。


¶17-21(240-244頁)セックス、ジェンダー、パフォーマンスの不調和を提示するドラァグ実践=パスティーシュ


 上述のような表出モデルに従って生産される内面=ジェンダーを、「一次的で安定したアイデンティティという言説の真実効果」ということもできる。ドラァグの実践は、(それが例えば内面性として想定される「男性」が、身体(=行為、外見)の「女性」において表出されていない以上、表出モデルに齟齬を起こすことによって)内と外との区別を撹乱し、本来身体に素直に現れるはずの「本物のジェンダーアイデンティティ」の概念を揶揄することになる。
(引用部)ドラァグにおいては、二重の転倒が起きている。女の身体を持ちながら男の内面(ジェンダー)を持つという転倒と、内面が一見男であるのに対して、今このような身体を表出せしめている、ほんものの内面が女であるという転倒とである。(引用部終わり)ドラァグのこのような語りにおいては、(ジェンダー、内面にまで「ほんもの」が想定されてしまうことによって)身体とそれが表出しているはずのジェンダーとの間の対応が適切であるのかどうかが判断できないものになる。
 ドラァグや異性装(注13)、男役/女役という実践においてジェンダーアイデンティティはパロディ化されてきた。フェミニズムは、そうしたパロディ化を女性蔑視や性役割のステレオタイプの無批判な取り込みと考えてきたが、パロディとオリジナルとの関係はもっと複雑である。また、そこからは同一化とその後のジェンダー経験との関係性について考えられるヒントが与えられる。身体は、解剖学的セックスと、ジェンダー・アイデンティティと、ジェンダー・パフォーマンスという三つの次元を有している。これら三つについて、もし区別が可能であるとすれば、パフォーマンスは、セックスとの間に不調和を起こすだけではなく、(先に見た「ほんもの」の想定のようにして)セックスとジェンダーの不調和を起こし、(先に見た、内面と身体との対応が適切であるかどうかが判別不可能になる点において)ジェンダーとパフォーマンスとの間にも不調和を起こす。フェミニズムが弾劾するよう、ドラァグが「女」の統一的イメージを作るにしても、(そこでは、セックスとジェンダーの不調和が示される以上)ジェンダーの自然(規範)化が回避され、(ジェンダーとパフォーマンスの不調和が示される以上)経験の無数の様相を一貫したものとしてジェンダー化することができないということが明らかにされる。言い換えればドラァグの実践によって、ジェンダーはセックスと結びつかない点で偶発的であることが明かされる上に、(ジェンダー化された経験が存在するのは、経験がジェンダーを模倣する限りにおいてである点で、)ジェンダーそのものが模倣であることが明かされる。ドラァグの目まいはそこから生じるのだ。
 このパロディは何らかのオリジナルについてのパロディではない。同一化において、行為における首尾一貫性、法の遵守が理想化され、反復されていくとき、そうした首尾一貫性、法の遵守がまずもって幻想なのであり、その上に、それを理想化(=幻想化)したものが反復される。パロディが明らかにするのもこの事態なのであり、それは、生産の効果において模倣という位置に置かれる生産(ドラァグは「女」を生産するが、その生産の効果においてドラァグの実践が「その生産された「女」の模倣」という位置を与えられる)という事態である(注14)。この実践によって増殖されるアイデンティティは、前段落で見たように、セックスとジェンダーがパフォーマンスと一致しない限りにおいて、脱自然化され(=「女らしい振る舞い」と解剖学的セックスにおいて「女」と呼ばれることとが切り離され)、流動化される(=「女らしい振る舞い」というものが今確定しているジェンダーとはズレたものになっていく)。
 ジェイムスン「ポストモダンと消費社会」は、ドラァグのような起源の概念を揶揄する模倣を、パロディではなくパスティーシュの特徴を持つものであると語っている。
(引用部)パロディもパスティーシュもある様式の物真似である点は一致する。しかし、パロディが、隠れた動機、諧謔的衝動、笑い、規範的なものに対してそうでない滑稽なものを模倣するという感覚を有するのに対して、パスティーシュにはそれらがない。(引用部終わり)しかしパスティーシュの「規範的なもの」(=起源)を破壊し、コピーである上に、誰も具現化し得ないものであること(例えば、セックス、ジェンダーアイデンティティ、パフォーマンスの完全な一致はあり得ないこと)を明らかにする限りで、滑稽である。
 ある反復がパロディかパスティーシュかを判断する方法は必ずあるはずである。それは行為だけではなく、その行為を撹乱的なものとして理解する文脈があるかどうかにかかっている。その文脈とは何か。

注13 邦訳「異装」はdrag、「服装転換」はcross-dressingの訳語であるが、おそらく現在は日本語ではdragは「ドラァグ」と表記され、一方cross-dressingは「異性装」と表記されることが多いだろう。GlamourBoutique(2017)は、「男性」が「女性」の服装を着る実践という前提のもとでこの二語についての違いを説明している。ドラァグは過剰な化粧、服装を通じて行われる、アーティスティックな実践、目を引くことを目的とした実践について言われるのに対して、異性装は、より個人的、しばしば私秘的な実践、生き方の実践であると言われている。
 異性装の実践者としては日本では例えば安冨歩がいる。以下は安冨に対するインタビュー記事。
小野美由紀「東大教授・安冨歩はなぜ「男装」をやめたか〜女性装をしてみたら、私と世界はこう変わった」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47518
 また、ドラァグについては『ロッキー・ホラー・ショー』のフランケン・フルターが有名だろう。以下の紹介記事によれば、フルターはゲイ・プライド・パレードのアイコンにもなっているらしい。
ヴァニラ・ノブ「映画「ロッキーホラーショー」【テアトル・オネェ 第4回】」
https://do-cca.com/2018/09/28/theatre-onee-rocky-horror-show/
注14  「生産の効果において模倣という位置に置かれる生産」は邦訳では「結果として——その結果として——模倣という位置につく生産」となっている箇所。
原文 “To be more precise, it is a production which, in effect—that is, in its effect—postures as an imitation.”

¶22-27(244-248頁)行為の反復性によるジェンダー変容の可能性


 身体を上述のように理解していった時、そこに身体の法制定=上演enactment(注15)、すなわちジェンダーが「内部」を作り上げていると考えるためには、ジェンダーを歴史によって条件づけられる身体的形式corporeal styleとして、すなわち、意図的であると同時に、その意図が完全に実現するのではなく演劇的な仕方で行われ、偶然性によって意味をずらされる点でパフォーマティブな行為として理解すべきである(注16)
 ウィティッグは、ジェンダーを、「セックス」が方向づける企てに従うよう命じる命令と考えた。ここではジェンダーは方向付けに従うよう強迫的に作用する意志的なものと考えられ、それに従えないものは、規則に従って罰せられる。しかし、ジェンダーはいかなる理念も希求しない。ジェンダーを生み出すのは、さまざまな行為なのであり、その起源をジェンダーは隠蔽する構築物なのである。二極化されたジェンダーについて、全員の承認があったのかどうかということは、そのようなジェンダーが有する構造の信憑性(それがセックスと結びついていること)と、疑い踏み越えたものには懲罰がなされるという事態とのために、(そうした承認自体の存在も含めて)曖昧化されている。身体的形式に沿って作られた歴史的可能性(進むべき方向づけ)は、その強迫的観念が生み出し維持しようとする、文化の虚構である。
 この規範は見えないものとなって、特定の現象や他の虚構を、また、セックスへの自然な配置という身体形式を生み出した。こうした形式があくまで「結果」に過ぎないことを明かすパフォーマンスとはいかなるものか。
 ジェンダーはいかに行為を生み出すか。その行為には、定められた様式について個々の身体が実演するという反復性がある。しかし、この行為は同時に公的(時間的、空間的広がりを持つもの)でもあり、反復は個人の一回的な行為を踏み越えて、主体のあるアイデンティティを、(例えば「男らしい行為」として)社会的に、自己の中で時間的に保持する仕方で基礎づける。
 従って、ジェンダーの効果は、身体の様式化(=形式化)を通じて生産され、その身振りが永続的なジェンダー自己という錯覚を生み出す際の日常的方法であり、実体的なアイデンティティの基盤と考えてはならず、それを信仰モードとして理解する必要がある。また、フーコーの『監獄の誕生』における分析が明かしたように、内面が表面に描かれる意味に他ならないのならば、真の意味で「内面化」がなされることもない。ジェンダー・パフォーマンスにおけるジェンダー・アイデンティティの反復は、ジェンダーの基盤としての見せかけを保持する一方で、時に、その反復が不整合を露見させるときに基盤のないことを明らかにするものでもある。ジェンダー変容の可能性は、この、反復が失敗される可能性の中にある。
 ジェンダーがパフォーマティブなものであるとしても、そこに構築されてくるアイデンティティに関して、アイデンティティの表出とパフォーマティブな行為との区別を保持し続けることが重要である。表出されるアイデンティティが構築されたものである、虚構であるという立場に立つときにこそ、パフォーマティヴィティという戦略に従った男支配で強制的異性愛の閉じた枠組みの外にジェンダーを増やすような撹乱が可能になるのである。
 属性の担い手として見做されているジェンダーは、まずもって存在するもの、起源、本物ではないが、同時に、絶えず行為によって生産され、錯覚を生み出すものとして見せかけでもない。それは反復を生産するが、それ自体反復によって生産されるものとして不確かなものと言われなければならない。

注15 この語のうちには、この後「パフォーマティブ」という言葉によって明確化される、(制定された法としての)ジェンダー・アイデンティティと、ジェンダー・パフォーマンスの双方が込められている、そのため重なって意味できる語が使われていると考えられる。
注16 邦訳「恣意的で、かつパフォーマティヴ」は原文では “both intentional and performative”である。intentionalは「意図的」と訳せる上、ここでは、パフォーマティブと並べられていることから、対立する意味としてとった。

参考文献
サリー、サラ(竹村和子ほか訳)『ジュディス・バトラー』(シリーズ現代思想ガイドブック)、2005年、青土社。
慎改康之『ミシェル・フーコー——自己から抜け出すための哲学』、2019年、岩波新書。
ヤング・アイリス・マリオン(飯田文雄ほか訳)『正義と差異の政治』(サピエンティア60)、2020年、法政大学出版局。
GlamourBoutique 'Difference Between Crossdressing and Drag’、2017年。
下記リンクで閲覧可能(最終閲覧日、2022/04/07)
https://www.glamourboutique.com/male-to-female-transformation-tips/difference-crossdressing-drag-49217


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