一年という月日

ニートから働いて、社会復帰して一年が経った。

一年と言っても去年の5月から6月にかけては働いていなかったので一年まるまる通して働いていたわけではないのだが。この一年振り返ると短かったようにも思えるし長かったようにも思える。20代のほぼ全部をニートしていた自分にとっては濃い一年だった気がする。

3月になり春になった。1番好きな季節だ。あったかくなってくると心も幸福な気分になる。神聖かまってちゃんの曲で「そよぐ風の中で」という夏ソング?があるが自分にとってこの曲は春が似合う。最近の子が提供した花冷列車もなかなかいい。次点で「死にたい季節」かな。死にたい季節のイントロのメロディはこれでもないってくらいに春の到来を感じさせるメロディをしている。このイントロだけでも個人的にNo.1の春ソングと言ってもいい。

話が脱線してしまった。現状では今の人生に納得はしているが満足はしていないという感じだ。そう。満足はできていない。これからの膨大な人生の時間をどう過ごして時間を潰していくか悩んでいる。ひまな時間の過ごし方に教養が出る。目標も特にない。仕事も正直つまらない。職場の人間関係も悪くはないがこれといって良くもないそんな感じだ。よく言えば現状維持、悪く言えば妥協なのかもしれない。

少なくとも去年の春は今より楽しかったと断言できる。仕事にしろ人間関係にしろ今よりもはるかに良かった。そもそも人生にワクワクしていた気がする。多分これが慣れというものなんだろう。

幸福な状態もいつかは慣れがやってくる。一生幸福なことなんてない。これに対抗できる手段が死というものなんだろう。死をうまく幸福と混ぜることができれば、幸福な状態をずっと維持できるかもしれないとある作家が言っていた。しかし副作用として実際に死が待っているとも書いていた。まぁよく言われる話でもある。死ぬような経験をして改めて今の幸福を実感するようなことは生きてきた上で一回は誰もが経験したはずだ。

桜がもうすぐ咲く。今年は地元で見れそうもない。どこで見ようか。桜の木の下には毒がある。圧倒的な美しさの下には毒がやはり必要なのだ。娘が生まれたら桜という名前にしたいくらいは桜が好きである。

結局一年経ったと言ってもこのくらいの文章しか書けないのだから特に成長もしていないのだろう。働けば何かが変わると思っていたが結局は何も変わらなかった。昔書いたようにニートというレールからまた別のレールに移動しただけだ。移動できただけでも成長したとかすごいとか言ってくれる人もいるかもしれない。そんな人の言葉には素直に「ありがとう」と伝えたい。でも何度も書いているように結局は進み続けるしか、人生をやり続けるしかないのだ。レールから止まることはすなわち死ぬことだ。

最後にこれだけは言える。僕はニートをしていて去年から働き続けたのだが、働いてよかったとかニートの方が良かったとかはひとまず置いておいて、この一年間は僕にとって悔いは後悔はない。

最近出会った刺さったセリフを書いて文章を締めようと思う。ここまで読んでくれた方に感謝します。

それでは、物語シリーズより

「――なあ、沼地。お前、『やらずに後悔するよりやって後悔する方がいい』という言葉について、どう思う?」 「負け犬の遠吠えだ」 「やらずに後悔した方がいいに決まっている」 「そうだな。私もそう思う。やって後悔する方がいいなんてことをいうのは、 『やってしまった後悔』の味を知らない、無責任な第3者の台詞だ」

 「だけど―――だけど ―――一番いいのは、やって後悔しないことだ」


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