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おはよう、ゾンビランドサガ

『映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 はばたけ天使たち』でしか感動して泣いたことがないから、結局ゾンビランドサガ最終話でも涙を流すことはなかった。代わりに胸を埋め尽くしていたのは感謝だった。ありがとう、ゾンビランドサガ。最終話までトップスピードで走り抜けてくれて。

前回の記事にも書いたように、ゾンビランドサガは6話で大きなターニングポイントを迎え、ほとんどその勢いのまま最終話まで突っ走った。

ターニングポイント、という言葉は、「描くものが変わった」くらいに捉えてほしい。5話までのゾンビランドサガは「登場人物がゾンビ故の非常識さ」とか「新生アイドルグループの見てて不安になる走り出し」とか、どちらかというとギャグに比重を置いたストーリーを展開していた。

しかし、6話で純子が「自らが信じるアイドル性」、つまりアイドルとして生きて死んだ彼女にとっては、ほとんど人生とも呼べる概念と向き合わざるを得なかったことをきっかけに、シナリオは7人の上っ面の個性ではなく、もっとその内面へと潜り始める。

7話は純子と愛について。8話は永遠の少女性を求めたリリィについて。9話は己を貫いたまま死んだサキについて。個人の過去と絡めながら、うまくキャラクターを再分析していったのだ。

そして10話から、主人公である源さくらに関しての掘り下げが始まる。

源さくらは元気いっぱいで努力家。それが視聴者の共通認識だったと思う。10話のように、その真面目さが仇となることもあったが、それも乗り越えて成長していける子、という源さくらのキャラクター像は、11話で崩される。

11話以前のさくらは、文字通り「記憶がない」。生前の源さくらは挑戦→失敗のサイクルを繰り返して、過去にまとわりつかれて、いつしか挑戦することに疲れてしまったけれど、死後の彼女にはそれがないのだ。

そもそも、さくらは強い子なのだ。おたふくに罹っても、何度もリレー寸前で肉離れをしても、おばあちゃんを助けなくちゃいけなくても、そんな日々の中で心をすり減らし、諦めかけても、まだ立ち上がれる強い心を持った少女が源さくらだった。だから余計11話のさくらは効いてくる。

生前のさくらにとって、アイドルはラストチャンスだった。言わばHP残り1。これまでの猛攻を不屈の闘志や食いしばりでギリギリ耐えた状態のさくらは、軽トラの激突でHPが尽き、心も体も死んだ。しかし巽幸太郎はそんな源さくらを見捨てて置けなかった。その理由はわからない。可哀想だったのか。また笑顔を浮かべる源さくらを見たかったのか。ただ一つわかることは、『乾』はもう一度彼女にチャンスを与えたかったのだということだ。

とにかく巽のリザレクションなりサマリカームなりによって、源さくらは再び蘇る。幸太郎に叱咤されたさくらは、再び挑戦の舞台に立つ。

もうその結果はどう見ても失敗だ。ステージはグチャグチャになり、音も途切れる。それでも巽幸太郎はフランシュシュを、源さくらを信じて手を差し伸べる。手を叩く。6人は起き上がり、いつしか源さくらも起き上がる。

幸太郎の「どれだけお前が持ってなくても、俺が持ってるから平気なんじゃい」という言葉の通り、幸太郎は折れない。縁の下の巽幸太郎が空元気でいる限り、フランシュシュは逆境に負けなんかしない。雷が落ちようがステージが破壊されようが立ち上がる。立ち上がる身体以前に、立ち上がる心を持っている。

その不屈さの源となっているのは絆だったり、矜持だったり、人を思う心だったりするけど、変わることがないのは、誰かが立ち上がれるってことだ。誰かが膝をついたら、他の誰かがその肩を貸してあげればいい。さくらのラップから始まって、フランシュシュはそうやって走ってきたように思える。個性が強すぎる7人が、『そのまま走り続ける』ためのユニット。それがフランシュシュだった。

ゆうぎりと山田たえに関してはどうしても12話という尺の都合でキャラを掘り下げ切ることができなかったが、この2人もまたさくらの再起に必要な人物となっていたのがよかった。2話においてさくらが結束させたフランシュシュが、さくらを救う。美しくて、まっすぐで、素敵な構図だ。

ゾンビたちはまだ立ち上がったに過ぎない。歩けば壁にもぶつかるだろう。人にも殴られるだろう。でもきっと彼女たちは歩くのをやめることはない。なんだかそんな気がする。

結局感情をぶつけただけの記事になってしまったけど、ただ一言で表すとすれば、『好きだ、ゾンビランドサガ』ということになるのかもしれない。続編待ってるからな。

ありがとう、ゾンビランドサガ。おはよう、ゾンビランドサガ。

(三楼丸)

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