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心の温もりは消しゴムだって消せやしない

たった2両しかないディーゼル列車が、けたたましい音を立てながら無人のホームに滑り込む。もうすっかり日も暮れてしまっている。


ホームに降り立つと、心地良い柔らかな風が頬を撫で、すっかり夏色に変わっている優しい緑色の匂いが出迎えてくれる。久しぶりの故郷だ。
誰も座っていないベンチの横には、ポツンと電灯が灯っている。寂しく灯る電灯の周りには、無数の蛾たちがヒラヒラと無表情で飛んでいる。


列車からは僕を含め3人の乗客が降りたが、僕だけは駅の出口へ向かわない。そのままホームの最後方へ移動して、ひょいっと線路へ飛び降りる。無人駅の特権だ。


その先には、かつて親父が教えてくれた自宅へと戻る近道がある。親父も毎日の様に通っているだろうこの小道を、”とーちゃん道”と呼んでいた。僕と妹の共通の呼び名です。


線路へ飛び降りると、その少し先にはぬかるみがあり、その周りを僕の背よりも高い雑草が生い茂っている。ぬかるみには、人がひとり通れるほどの小道があり、朽ち果てた木材が橋の様に横たわっている。暗闇の中、その不安定な材木の橋の上を渡り、どうにか向こう岸へと辿り着く事ができた。


こんな近道を自由に使えるのは、ここが無人駅だからである。都会では全く考えられない光景だな、と自然と笑みが溢れてしまう。


無人駅の裏には漁業組合の事務所と水産加工場がある。真っ暗な駐車場を横切ると、目の前にはだだっ広い田園風景が広がっていて、その真ん中には真っ直ぐに伸びる畦道がある。等間隔に電灯が灯っているのだが、稲穂がより深みがかった海のように感じるのは、煌々と灯る電灯の光が周りの風景を深く沈めているせいだろうか。静寂な夜のはずだが、汲めども尽きぬ蛙の声が響き渡り、不思議と孤独感を感じさせない。そんな場所である。


「あっ、お兄ちゃんが帰ってきたよー、お母さーん」


学校から帰ってきたばかりの妹が、玄関先で僕を見つけて駆け寄ってくる。
「今日ね、お兄ちゃんが帰って来るんで、晩ご飯は”すき焼き”なんだってー」と嬉しそうに妹がはしゃぐ。


玄関から廊下を抜けると、キッチン兼居間がある。親父は既に帰宅しており、所定の場所に座していた。


「おー戻ったか、久しぶりだな、まぁお前も飲めや!」
どうやら既に1杯やっているようだ。お気に入りの一升瓶が脇ににどっしりと置いてある。「菊正宗」だ。それほど高い酒ではない。


「あら、元気そうね!」と暖簾越しに母が顔を出す。
「今日はすき焼きにしたから、あんたも少し飲むでしょ?」と母も。


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ここで目が覚めた。



いつものビジネスホテルにいる。どうやら夢を見ていたようだ。昨夜は少しばかり晩酌をしたせいか、本を読みながら寝落ちしていたらしい。


それにしても温かかったな。恐らく30年くらい前の光景であろうか。確かにそこには親父がいて、母の笑顔もあった。学校から帰ったばかりの妹がいて、僕に晩ご飯は”すき焼き”だと教えてくれた。家族の声も、風の音も、蛙の鳴き声も、ディーゼル列車の騒音も、まだ全てが耳の近くでこだましている。田んぼの匂いだってそうだ。


しばらくベッドの上で呆然としていると、頬に冷たく流れるものを感じました。確かにそこには家族の笑顔があった。すっかり忘れてしまっていた温もりがあった。決して裕福ではなかったけど、幸せがあった。


妹は20年くらい前に嫁いで行き、親父も数年前に天国へと旅立った。少年時代を過ごした古い家屋は既に取り壊され、数年前から隣町に引っ越している。印象的だった無人駅も、廃線に伴い姿を消している。今ではすっかり宅地化が進んでしまい、とーちゃん道だった場所も駐車場として住人が利用しています。


確かにあった昔の小さな家族はもう無い。
温もりと笑いに満ちた瞬間は、もうすっかり何処かに消えてしまった。
でも、心の中の温もりだけは、今でも鮮明に存在しており、消しゴムにだって消すことはできない。


お袋どうしてるかな。田舎の一人暮らしには慣れたのだろうか。親父が旅立った日に、子供のように声をあげて泣いていた姿が脳裏から離れない。体調を崩している妹は、旦那さんと3人の息子たちと幸せに暮らしているのだろうか。


来月帰省した時は、お袋と会って親父の話でもしようかな。
「菊正宗」を飲みながら、とーちゃん道の話でもしようか。


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最後まで読み進めて頂き、ありがとうございました。
活気ある元通りの生活に戻れることを願っています。🌱


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