題名『記憶喪失』

題名
『記憶喪失』
(裏テーマ・失われた時間)


[10228文字以上あります]




 頭が痛い。

 ここは何処だ。

 ハテ?

 俺は誰だ?




 俺は入院していた。

 二日ふつかまえに頭を何か鈍器か何かで殴られて路上で倒れていたところを、早朝に犬の散歩をしていたおばさんに発見されて、その方が通報して下さり、救急車でこの病院に運ばれたらしい。

 そして、気がつくと記憶がなかった。




 記憶障害にもいろいろあるらしいが俺の場合は子供の頃の記憶も何もない完全な記憶喪失だった。しかもスマホも含め身元の手掛かりになるような物が1つもなかった。

 警察の人は単純に考えても少なくて3つの可能性があると言っていた。犯人が身元の分かる物をすべて持ち去ったか、俺が普段から何かの理由で身元の分かる物を持ち歩かないようにしていたか、いろいろな偶然の結果か。
 偶然と言うのは例えば犯人とは違う人が財布とかスマホなどの持ち物も転売目的で盗んだとか、免許証などを犬が咥えて持っていったとか、犯人以外がいろいろ関わって所持品が失くなっているケースのことだ。

 これも警察の人が言っていたのだが、俺を知る人が全然いなくて、この町に住んでいた形跡が見つからないらしいのだ。身元が全く分からないので捜査が長引いているらしい。
 まぁ、財布も無くなっているから金銭目的の通り魔の可能性もあるんだけれど、一撃でかなり強く頭を狙っていることからしても意識を奪い動けなくする目的は明白で、殺意があったかははっきり断言出来ないけれど、少なくても死んでもいいと思ってやった犯行だと思われているらしい。何らかの怨恨か、違うにしても何らかの目的のため、つまり俺の命かお金か、あるいは他の持ち物を狙った犯行の可能性もあり、俺の素性が犯人像を推察して絞り込むのに有効だと思われ、俺のことを調べまくっていたようだ。警察は記憶喪失と聞いて心底がっかりしたことだろう。
 犯人像を推測して絞り込むことがしづらいので捜査は目撃者探しと防犯カメラのチェックが中心で、的を絞った捜査は全く出来ていないと言うことだった。俺は仕事の出張でやって来ていたのか、普通の観光目的の旅行者だったのか、それだけでも捜査の方向が違う。なぜ襲われて殺されかけたのか、犯人の動機がこの事件のカギを握ると思われていた。とにかく難しい捜査になっているようだ。


 そうそう、此処はある関東にある県の人口10万人程度の小さな市だがまわりには温泉街もあり、そこそこ観光客も多い地域のようだった。



 俺は被害者だが、俺が犯罪を犯して逃げていることも視野に入れて捜査しているってことを、こっそりと?年配の刑事さんには言われた。逃げたり変なことをすると大変なことになるぞ!と言う警告だと思われる。

 本当は病院での体の検査は終わっていて、二日間も意識が戻らなかったが幸いにも脳には異常はなく、記憶喪失以外は頭部の打撲と裂傷くらいで入院を続けないといけないほどではないようだった。塀などに使われるブロックのようなコンクリートの塊のような何かで頭を殴られたと思われていたが調べた結果はレンガだと言うことだった。現場のそばのゴミの回収場所にレンガが何個が転がっていて、犯人はそれを使ったらしい。計画殺人と言うより衝動的犯行っぽいと思われている。まぁ、それよりレンガで思いきり殴られて、頭蓋骨骨折どころか骨にヒビも入っていなかったのは強い強運だと医者からは言われた。もしかしたらだが、レンガにヒビが入っていて、殴打したときに派手にレンガが砕け散って、そのおかげで助かった可能性が高いんじゃないかと言われた。犯人がトドメを刺さなかったのも幸運だった。
 もちろん脳への強いダメージがあったから二日間も意識が戻らなかったわけで安全のために安静にしていて経過観察をしている状態が今の俺だ。ただ、退院をいつにするかを話し合ってもいい頃ではあるようなのだが、幾つかの問題もあった。

 そもそもなんだが、俺は身元も分からないが財布を持っていないのでお金もない。健康保険証もない。住む家も分からない。退院するにしても支払いも出来ないし、退院後の生活もどうすればいいか分からない。

 そういうことで、ソーシャルワーカーの方と頻繁にお話をさせてもらってはいる。お金は待ってもらえるとして重要なのは住居だ。いろんな支援の団体を紹介してはくれたが、簡単には答えは出せなかった。
 自分の身元さえ分かれば、すべてが解決してゆくと思うと歯痒くて仕方がなかった。

 いろんなことが問題として残り、結局は俺の身元を調べることが最優先ってことだ。
 警察も病院もそれらを考慮して入院させているようだった。ただ、長引くと病院は出て行って欲しいと思うようになるだろう。
 あと、少しの可能性だが、俺が何か事件をおこして共犯者と対立して相手に殺されかけたと言う説も捨てきれないようで、また命を狙われる可能性も警察は考えてはいるようだった。

 俺を警護しながら監視するのは病院がいいってことなのかもしれない。

 確かにこのまま退院させられても、住所も金銭もないと、生活できないし、働くことさえ出来ない。
 生活保護の申請も出来ない。

 記憶喪失とは、とても厄介な病気だとつくづく思った。




 何処どこで生まれて育ったかは、実はしゃべる言葉の中に混ざる方言である程度は分かるらしい。
 それに詳しい警察の人がこの県にはいたらしく、いろいろ聞かれた。

 俺は九州、それも福岡じゃないかと言われた。



 年齢も見た目と歯からある程度は分かるらしい。

 歯の専門家が見れば25才までならかなり正確に判定できるようで、それ以降も本人の性格や食事の嗜好で変わるが歯の磨り減っている状態などいろんな事からでも分かるようなのだ。
 最大の誤差で5才前後の違いはあっても年齢を推定することは可能らしい。

 俺は35才前後と言われた。

 

 体の筋肉の付き方から、肉体労働はしていないと判断された。

 しかし、柔道などのスポーツはしていた可能性が高く、足腰の太さから歩き回る仕事をしていたんじゃないかと言われた。

 特に履いていたシューズの底がかなり擦り減っていて、科捜研の報告では靴底から採取された種から俺はこの市の隣にある村のラドン温泉で有名な長閑な温泉の町に行っていたことまで分かっていたようだった。
 その地域だけに、研究開発されたある特徴を持った果物の木があり、その種の破片が混ざった土を俺は踏んでいたらしいのだ。

 とにかく、警察ってもんは怖いところだと思った。なんでも分かる。調べられる。
 
 俺は犯罪者じゃないと思うが、何か犯罪を犯してしまっても、すぐ警察に逮捕されそうで、できないと思った。警察ってスゲェ~。




 それからも捜査は進み、俺が行っていたんじゃないかと思われていた隣の村の宿泊者を中心に徹底的に調べていたらしく、ある旅館に泊まっていた客でチェックアウトしないで消えた男性が1名いたことを警察は突き止めていた。


 年齢は37才で東京からの一人客だった。


 堂本翔平。

 

 なんと、





 俺は警視庁の刑事だった。




 何も覚えていない。
 犯人ではなく、刑事なの?

 職業が刑事に驚いた。

 ま、そこは、少しホッとしたところでもあるんだけど、と言うのも、この数日はいろいろ考えることが多くて疲れていたから。とにかく最悪のことばかり考えていた。

 さすがに犯人説は薄いと思っていたけど、自分が記憶喪失になるなんてことも想像を遥かに越えていることだし、可能性がある限り、犯罪を犯していることも含めて自分自身が何者なのか不安でしょうがなかったってことが、本音かな。

 それに真剣に考えてみれば、これからのことも不安になってきた。
 記憶喪失で何も覚えていなくて、それで刑事に、それも捜査一課?の刑事に、このまま無事にしれっと復帰できるのかな~と思ってしまう。不安にならない方がおかしいだろう。

 それに、なぜ俺は一人でこんなところに来たのかが気にかかる。行き先を誰にも話さず来たのか?
 恋人も友達もいなかったのか?

 1週間も連絡が取れなければ捜索願いを出してくれてもいいのに。
 誰か心配して探してくれよって感じだよ。
 せめて、身元不明者がいないか調べてくれてもいいのに。

 そんな不満も少し湧いていた。

 

 それから俺は、実家は福岡県にあり、大学進学で東京に来たようだった。
 東京に上京して19年。方言はなかなか消えないものだと言うことは今回のことでよく分かった。

 

 
 地元警察の上の偉い方?の計らいで、俺の上司にあたる課長さんとやっと電話でゆっくり話をすることができた。

 いろいろ詳しく聞いてみると、俺が刑事になったばかりの時に応援として捜査に参加したある強盗殺人事件の重要容疑者が逃亡したままになっていて、その容疑者を探すのを俺は休日の趣味にしていたようだ。

 もう12年も前の事件だ。
 ある資産家の老人が頭をゴルフのドライバーで叩かれて死んでいた。
 その凶器は老人の家にあったものだった。家の金庫に入っていたはずの現金がなくなっていた。二千万円くらいはあったと言われていた。
 当初は窓が割られていたこともあり夜間に強盗に入られ、犯人が老人に見つかったので口封じに殺したんではないかと思われたが、通いの家政婦の若い女性がその日は家の主人である老人には帰った振りをして家に残っていたことが判明して容疑者になった。
 それは老人が事件の直前に電話していた友人の証言と近所の聞き込みで判明したのだった。
 一人の犯行か、外部から誰かを誘導して招き入れたのか、つまり共犯者がいたのかどうかを判断するべく慎重に捜査をして関係者をつぶしてゆく捜査をしていた最中、容疑者の若い家政婦が突然逃げたのだ。逃亡したのだ。どこかで簡単な事件だと思い、心に油断があったのかもしれないと課長さんは言っていた。
 それ以来、見つかっていない。かなり巧妙に行動しているようで、あらゆる捜査の網にまったく掛かってこなかったのだ。それでも少しだけ情報は入っているが、かなり逃げ足が早く何の形跡も残さない見事な逃亡劇のようだ。今は完全に行方不明だと言っていた。

 共犯者らしい人物はまったく浮かんでこなかった。
 殺し方は衝動的で乱暴な感じの犯人像で、最初から犯人は男ではないかと言われていた。
 様々な供述からイメージする容疑者の女は慎重で弱気な性格。二つの印象がどうも合わなくて、最終的に逮捕の決めてになるのは盗まれた二千万円の行方ではないかとはずっと言われていた。決定的な証拠がなく状況証拠を集めての指名手配も大変だった。いろいろあって殺人ではなく強盗で最初は指名手配された。
 指名手配はしたが、関係者の中では犯人ではなく容疑者とみんな呼んでいたようだ。決定的な確証がない限りみんな犯人とは言わないのがルールになっていたようだ。
 
 そんなことも長電話でいろいろ課長さんから聞くことができた。

 逃亡している容疑者は片山夏樹、事件当時、25歳。今は37歳。
 私と同じ歳。
 だから余計に気になったのかもしれない。

 そして俺は何かに気づいて、温泉の町がある此処へ自費でやって来ていた。

 どうも俺の独自の捜査は嫌われていたようだ。先輩刑事の過去(容疑者を逃がす)の汚点を思い出させる行為だと思われていたようだ。
 俺は黙ってこっそり一人で調べていて、何事も秘密にして行動していたみたいだ。
 しかし、課長さんがすべてを知っていたと言うことは、ほかの皆も知っていて知らない振りをしてくれていたと言うことだろう。



 警察の許可をもらい病院にも外出の許可を出して頂き翌日、泊まっていた隣町の旅館を訪ねた。
 実は俺は旅館の予約に偽名と偽の住所を書いていた。あとで誰かが調べても身元が分からないようにするために俺がしたようだ。
 俺の身元が分かったのは、部屋に設置された金庫の中に、俺の警視庁の刑事の名刺が一枚だけ置いてあったからだ。それが決め手だった。万が一の保険のためだったのだろう。

 何かほかの新しい情報はなかったが旅館は思っていたより小さかった。小さな民宿に近かった。詳しくないとわざわざ予約してまで泊まりに来る宿には思えなかった。この旅館にした理由が必ずあるはずだと、俺の直感はそう感じていた。

 真向かいに大きなホテルがあった。そしてそのホテルの従業員用のアパートが俺の泊まった旅館の真横にあった。俺が泊まった部屋からもそのアパートが見えた。

 そのホテルにも話を聞くためにちょっと寄ってみた。
 寄ると様子がおかしかった。
 何もないと言って対応した社長さんは本当に何も知らないようだったが、ほかの従業員は何かを隠している雰囲気があった。
 ワンマン社長に見えたが、どうやらそのせいか従業員は社長の機嫌ばかり伺う感じがしたのだ。
 何か社長には言っていない秘密があるのかな?なんて思い、一度は帰った振りをして再度こっそりと旅館に戻ってホテルの裏側で休憩している仲居さんなどに話をそれとなく聞いてみた。すると分かったのが、俺が殴られた翌日の早朝にホテルを辞めたいと電話してきた仲居がいたらしい。それにその日から連絡が取れない状態らしい。住み込み用のアパートに少しだけど服などが残されていてそれをどうするか聞きそびれたので聞きたいのに連絡が取れなくて困っているようだった。
 たまに辞めた途端に連絡を拒否する人はいるらしく、特別に異常とまでは思っていなかったらしい。

 最初は何も思わなくて、社長にも警察にも話さなかったらしいが、警察から逃亡している女性の話を聞いてから、少しずつ、その女性が気になってきたらしい。
 人付き合いは悪く自分のことは何も話さなかったらしいが、とても優しい親切な人だとは言っていた。だから事件に関係があるとは本当に全く想像もしていなかったのだと言う。
 
 まぁ、逃亡している容疑者のことは地元警察もほとんど分かっていなかったことだし、俺を路上で殺そうとした奴が小柄な女性だとは思わないだろうから疑わなかったのは本当だろう。

 

 俺の警視庁の上司との電話で、実はあることについても教えてもらっていた。12年前の殺人事件で逃亡している容疑者の女は温泉が好きで、ラドン温泉や炭酸温泉など特徴がある泉質が好みだったようで一人で名湯と呼ばれる温泉を訪ねるのが逃亡する前の趣味だったことを俺は気にしていたようだった。俺はそういう泉質の有名な宿のインスタグラムなどを常にチェックするのも習慣になっていたようだ。

 此処の温泉はラドン温泉で有名。
 
 ある宿に泊まった客が自分のインスタグラムに宿での夕食の様子を撮影して投稿していて、その写真をチェックしていたら、どうやら俺はたまたま、あの容疑者の女の面影を持つ女性が写真に写っている仲居さんに似ていると思ったようで、その顔を確認しにここまで来たようだ。

 それは俺の警視庁の同僚や知り合いが知っていて話してくれたらしい。

 実は俺は型破りな刑事だったらしい。
 これまでも事件解決のためなら何も連絡せずに1週間でも平気で休んで一人で潜入捜査をしていたこともあったらしい。身元がバレないように携帯電話も含めすべてをロッカーに入れて、誰とも連絡が取れない状態にしてでも捜査を続けることも何回もやっていたらしい。
 だから今回もまた俺が何かやらかしているとは、みんな思っていたようだ。ただ無理に探したり連絡を取ろうとすると捜査がバレたりして俺の命の危険もあるということで、今までと同じように、表では動かないようにしてくれていたようだ。
 


 話を殺人事件の容疑者に戻すが、行方不明の仲居について聞いていると、俺が襲われて倒れた日にも俺と会って話をしたという仲居さんに偶然会うことができた。
 俺は妹を探していると言ったようで、暴力を振るう夫から妹は逃げているけれど、その夫は傷害事件で刑務所に入ったから数年は大丈夫だと伝えたくて探していると話したようだ。
 仲居が突然に辞めたと聞き、この俺と会ってふるさとにでも二人で帰ったのかなと思っていたと言う。

 その仲居さんは、容疑者と少し親しくしていたようで、容疑者の部屋にも何回か入っていた。住み込みの部屋には最低限の下着やTシャツやジーンズくらいしか置いていなくて、かなり用心深い印象だったようだ。
 そして、ここに来た時にすぐにホテルの社長には内緒で、もうひとつアパートを探していたと言う。だから近くにある不動産屋を教えたと言っていた。
 すべて俺に話すのは二回目で、俺の記憶喪失が不思議で興味を抱いている様子で、その仲居さんはニコニコと俺の顔を覗き込んでくる。俺より少し年上だと思うが好奇心が強い性格のようで、容疑者も嫌がっているのにこの人にどんどん距離を縮められて困っていたんだろうなと想像した。
 その仲居さんから、いろいろ質問責めになる前にそこを抜け出し、俺は近所にあると言う不動産屋へ向かった。

 近くの不動産屋を訪ねると、俺が襲われた日もやはり来ていたことが分かった。そしてここで、その容疑者が隣の町にアパートを借りていたことも分かった。もちろん住所も教えてもらった。大事なものをそこに置いている…と俺は考えたと思う。
 もしも二千万円の一部でも見つかれば決定的な証拠になる。俺ならそのアパートにすぐに向かったに違いない。容疑者と親しい仲居さんと会ったことで連絡が容疑者に届く可能性もある。そうすればまた逃亡される。あの仲居さんは容疑者は連絡ツールを何も持っていないと言っていたが、本当とは限らない。それに連絡方法はいろいろある。
 この不動産屋で住所を突き止めて俺はかなり慌てて急いだはずだ。



 そして、そのアパートの住所の近くが、俺が倒れていた現場だ。




 すべてが繋がってきた。

 ただ、俺が簡単に頭を殴られて倒れたとは考えにくい。
 何かがあったはずだ。
 俺が計算間違いを犯した、想定外のことが待っていたはずなのだ。


 

 俺はそのアパートへもう一度?向かった。
 不動産屋さんにも付いてきてもらい…と言うか親切に車に乗せてもらい今回はアパートへ着いた。

 鍵を開けると中は何も無かった。
 逃亡したあとだ。

 外出許可をもらう時に、所轄の刑事さんにはすべてイチイチ連絡をするようにと命令されていたが、俺はいつも通り?一人で勝手に動いてしまっていた。
 だからここで、連絡をした。

 

 アパートの窓から、少し遠いが公園とコンビニが見えた。
 あのコンビニの近くが俺の倒れていた現場だ。

 俺はアパートを見張っていたはずなのになぜコンビニに向かった?

 警察もこの辺の監査カメラはすべて調べたはずだ。
 
 俺を付けていた怪しい人は誰もいなかったと聞いている。
 ん?、俺を付けている?
 いや、違う。
 俺が尾行していたはずだ。

 ならば、あの容疑者だ。

 そしてこの窓、もしも誰かもう一人いたら、俺が尾行していることに気づいたかもしれない。

 なぜ、そう思ったか?

 アパートのトイレの便座が上がっていたのだ。
 この部屋の住居人は余程慌てて逃げたのだろう。急いで出る直前にトイレに駆け込んだために、指紋や髪の毛の掃除も含め徹底的にしたはずなのに、最後の最後で忘れてしまったのだ。便座を下ろすことを。

 容疑者には男がいる。

 その男に俺は襲われたのだ。

 地元警察にはその方向で調べてもらうことにした。

 


 男がいると断定して捜査を再開した警視庁の動きは早かった。

 あの当時は逃げられたことに動揺して捜査が甘かったのだ。
 
 温泉好きで知り会い、温泉地でしか会わない間柄。それも別々に違う部屋を予約する用心深さ。
 だから誰も知らなかったようだ。

 男はかなりの知能犯で、最初から女を洗脳して利用する目的だったのかもしれない。
 
 ただ、容疑者が12年前の事件の前までに泊まった旅館の宿泊名簿をすべて調べてゆくと、必ず容疑者が泊まった日に泊まる男の名前が判明する。 
 男の名前が分かれば、男は自分だけは安全だと思っているだろうからすぐに居場所も特定できて逮捕できるだろう。




 二日後。

 容疑者の女も、真犯人の男も逮捕された。

 俺を襲った男は、アパートでは女装して住んでいたことが分かった。

 俺をレンガのようなもので殴って俺の所持品をすべて奪って燃やしたらしい。
 警察手帳も何も私は持っていなかったので警察という思いがあったわけではなかったようだ。瞬間的に動物の勘のようなもので襲ったようだ。
 ただ、逮捕されてからは、警察だと確証があればとどめを刺しておいたのに悔しいと言っていたようだ。

 12年前の事件も、男が女の仕事の内容を聞いて犯行を閃いたようだっだ。家政婦の女がこっそり残って男を家に招き入れ犯行を犯したあとで窓などを割って泥棒目的の犯行のように見せかける偽装工作を犯人の男がしたようだ。資産家の老人を殺したのはトイレで起きた老人に犯行を見られたからだと思われていたが、正確には家政婦が残っていることに気づいていた老人が家政婦を叱責している途中で犯人の男が家に侵入して、隠れたまま老人に近づき一撃で襲って殺していた。
 男はすべての罪を女に着せて、どこかで自殺に見せかけて殺す計画だったようだが、そこは情が湧いて、捨てきれなかったようだ。

 逃亡先はやはり古びた温泉地がほとんどだった。

 こんな事件が12年間も野放しになっていたことは虚しい。

 とにかく、すべて終わった。



 俺の記憶喪失、以外は。


 




 俺は記憶喪失のまま、東京に帰ることになった。
 警視庁の同僚が二人ほど、現地に来て、いろいろ片付けてくれた。
 俺と県警や所轄や病院の関係者に挨拶をして回ってから、同僚たちと三人で東京駅へ向かった。






 東京駅に着いた。
 記憶喪失の俺のためにと言って、警視庁の本部庁舎に最初に行くことになった。そこでいろいろ説明を受けて、仲間たちとも再会した。温かく迎えてくれたが、やはり思い出せなかった。

 その説明のときにお茶などを出してくれていた婦人警官が、俺はなんだか気になった。俺よりは少し若いが綺麗な人だった。

 いろいろな説明も終わり、このあと、俺のアパートへ連れて行ってもらう予定になっていた。同僚の二人からまだ少し説明したい話があると言われたのだ。

 俺の仕事の復帰は明後日からになった。

 なんだか、長い休暇を取っていた気分になった。

 俺の“失われた時間”は戻る保証はないけれど、少しでも思い出すことがあれば、それをキッカケにいろいろ思い出すことは多いらしい。
 記憶喪失は、そんなことも多いらしい。

 現地にも来てくれていた同僚二人と、お茶などを出してくれていた婦人警官が車を運転して、俺の家に向かった。
 俺はなぜか?助手席に座らされた。間近で見る婦人警官の横顔がやはりどうしても気になった。
 なんとなく見覚えのあるような懐かしいような気分になる。だけど、思い出せない。

「あの、俺はあなたと、知り合いですか?」
 そう聞いてみた。
 だけど、少し笑うだけで答えてくれなかった。

 俺は困って、大きく深呼吸をして気分転換しようとしたら、

 ん?

 ものすごい気になる匂いに気がついた。

 これは、婦人警官の付けている香水の匂いだと思った。

 なんなんだろう?
 こんな感情は、久しぶりだ。

 なんか、苦しい。

 そして、ものすごく懐かしいような愛しいような感情が襲ってきた。

 なぜか、涙が溢れていた。
 

 なんなんだ?

 これは?

「え、り、な、?」

 名前か?

 その言葉だけ、口に出た。

 後ろに座っていた同僚が騒いで、

「おまえ、思い出したのか?」

 そう聞いてきた。

「思い出したのか?」

 わからない。

 でも運転していた婦人警官が少し泣いているようにも見えた。

「えりなって?、彼女の名前?」

 運転席を見ながら俺はそう言って、後ろの同僚の顔を覗き込んだ。

 二人が運転席の方を見て、うなずいた。
 



「私は、桜井絵理奈です」

「はい」

「私はかなり怒っていますが、記憶が戻ってから、しっかり言わせてもらいます」

 そう言われた。

「はい」

 それ以上は何も言えなかった。


 



 名前だけ思い出した。

 他はまだ思い出せないけれど、どうやらプロポーズまでしていたらしい。
 彼女はその返事はしていなかったと言う。

 今回の捜査も一緒に行くと言うのを俺が断っていたらしい。
 そして帰らなくても何があってもしばらくは黙って見守っていて欲しいと言って出掛けていた、らしい。
 
 何か嫌な予感があったのかもしれない。彼女を巻き込みたくなかったんだと思うが、もしかしたら、俺が襲われることも覚悟して、逆にそれを望んでいたのかもしれない。そうすれば犯人を逮捕できると考えていたようにも思われる。もちろん記憶がないから分からないけれど、そんな気がする。


 
 まだ、桜井絵理奈とはギクシャクしている。

 捜査の方は、意外と記憶がなくてもやれている。


 でも、記憶は断片的に戻り始めている。
 やはり、あの香水を嗅いでから頭の中で何かが動き始めた。


 俺の人生を取り返してやる。

 

 記憶も取り返してやる。


 だけど、


 恋も愛もすべて、思い出したいけれど、もう一度、桜井絵理奈と、恋を始めたい。
 そんな気も少し、している。



 だって、



 彼女はそれほど魅力的で、素敵な人だったから。笑





【終わり】






あとがき

失われた時間、というテーマから発想して書くなら「記憶喪失」というドラマの流行?から逃げちゃいけないと思って書き始めた作品です。
他は白紙で書きながら物語を作りました。
出来上がって、こんな物語だったのかって自分が驚いています。
これなら、犯人と逃亡した女性を主役にした小説が本筋のような気がします。
この作品の刑事との息詰まる緊張感を描きたい。

長くなりそうだと面倒なので書くのをやめていましたが、今回はとにかく最後まで書くと決めて書いていました。
最後まで読んで下さった方がいたのなら、拙い作品を読んで下さり、感謝しかありません。
ありがとうございます。

いつか、心の底から面白いと思ってもらえるような作品を書きたいと思っています。笑

新月下旅舟。





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