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#1 百鬼夜行がしたい

先月は色々あって、珍しくたくさん人に会った。修行とでも言おうか、これまで敬遠していたことを積極的にやってみよう月間だったのだ。と言うのも、唐突に人間いやいや期が終わりを迎え、人間知りたい期に入ってしまったのである。人間の複雑さが煩わしくて心底面倒で動物は喋らなくていいなあなんて言いながら動物ばっかり描いていたのだが、何かが突然振り切れてしまい、人間が知りたくてハアハアしてしまった。
だが、ここ数年ずっと人との関わりを避けてきたため、下手くそな関わり方しかできずすぐに疲れてしまった。友人には「突然変な方向に100m全力で走っていったと思ったら泣きながら歩いて帰ってきたみたい」とひどい例えをされたがあながち的外れでもないのでぐうの音も出なかった。

いろんな業種の人たちが集まるコミュニティに顔を出してみたものの、そこでとんでもないスピードで行われるコミュニケーションと名刺交換が飛び交う空間に耐えきれず、居た堪れない気持ちになって会場を後にした。数分の自己紹介で「価値なし」と判断された私は社交辞令程度にぽつぽつと交換された名刺と唯一自ら勇気を出して声をかけた「地図博士」の名刺だけを片手に、心に大怪我を負ってとぼとぼと帰った。なんだか人間と友達になりたいのにうまくいかない妖怪みたいである。

コミュニケーションは難しい。例え、熟練のインタビュアーのように、アナウンサーのように、美しく言葉のキャッチボールができたとしても、実のところ会話の内容は0で後から何も思い出せない、なんてこともある。側から見て形の整った美しいコミュニケーションは、実際心のうちを全くさらけ出していないので結局その場限りの寂しい結末を迎えたりする。

逆に、死ぬほど下手なコミュニケーションでも、伝わることがある。よっぽど綺麗なコミュニケーションよりもその人のことがわかったり、好きになったり。その度に、コミュニケーションってなんだろうと考え込んでしまう。

よく、醜態を見せたことがきっかけで仲良くなった、なんて話をきく。実際私も経験があるし、今京都で仲良くしてくれている一人には、初めて遊ぶときに二日酔いをかましてしまい、介抱してもらって何もせず帰宅したという信じられない無礼を働いてしまった。全く褒められたことではないし、謝り倒してもう二度としないと心に固く誓っているのだが、醜態を晒したことで私はもうこれ以上隠しても仕方ないと自分を取り繕わなくなったし、彼女も仕方ない人間を前にして武装を解いたのか、なぜかその日を境にいろんなことを話せる仲になった。

もちろん彼女がとてつもなく寛大で優しい人だったから起こったことだろうが、結果から考えると、「うまくやる」ことに一体どれほどの意味があるんだろうかとも思ってしまう。結局、どんなに頑張っても自分が仕方ない人間である以上、「うまくやる」ことで得られるものはほとんどないらしい。潔く、ダメな自分を認めてたまーに現れるモノ好きな人間や同じ妖怪に拾ってもらうのを気長に待ったほうがいいのかもしれない。少なくても太く長い関係を結べるならそれがいい。

幸いここは京都。ゆったりと流れる時間の中で、焦らず妖怪をつかまえたい。

2023.10.18

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