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50代でも物の動かし方がわからない人

 僕の先輩で、すごく良くしてくれる人がいます。

 僕がメンタルで体調を崩した時も、さまざまな形でフォローしていただき、どん底状態にあった自分の心に降りてきて寄り添ってくださり、こうした点は、大変感謝しています。

 また、地域の考古学について、独学で研鑽を深め、一定の存在感を示しています。また、自分だけではなく、他の研究者の活動についても、時には身銭を切ってサポートしており、そうした姿勢に、同好の人たちの信望は厚いようです。

 ただ、仕事という面では、自分なりの思いはあるのですが、その思いを実現するための方法が、一言でいえば、学生卒業したころから、進化していないように感じます。

 SNSでありがちな、半ば陰謀論的な視点から、自分の意見をSNSで発信しており、仕事も熱心に取り組まれるようですが、現場をわかっていない経営エリートの被害者、という立ち位置からの話が多く、では、現場としてどうしたらいいのかのところは、「?」、といった具合です。

 まあ、テレビで聞きかじった知識で世の中の劣化を嘆く、近所のヒマな高齢者男性であれば、その程度でもいいのかなと思いますが、まだ50代なのに、そこに落ちるには早いし、逆に言うと、50代半ばになるまで、物事を動かしてきたことがないのかな、と思ってしまいます。

 たしかに、世の中、国内外を問わず、社会全体をみても、組織をみても、問題は山積しており、その解決策が十分ではない、いつまで立っても効果を上げていない、ということは多々あるわけですが、その原因を、私利私欲の政治家、官僚、経営者が上に立っていることで、本来解決されるべき課題が放置されているという主張は、それがポジショントークでなければ、これまでその人は、「作業」しかやってこなかった、ということだと思います。

 学生がこの前、テレビのインタビューで
「日本の教育を変えるには、教員になるのではだめで、文部科学省に行って、ブラック校則を変えさせて、生徒を縛らない教育を実現したい」
と語ってましたが、教育に関して、こうした考えを持つ人、少なくないですよね。

 僕は教育現場のことに詳しいわけではないのですが、たとえば、校則が変わらないということは、保護者側の要請とか、地域のうるさがたの意向とか、忙しい先生方の管理上の問題など、何らかの背景があるはずで、そこを調整をしないと、合意を得られないのだと思います。

 校則を変えるは、生徒会役員出馬の公約としてはありですが、現実を動かすのは大変です。もちろん、本当に変えなければならない校則もあるでしょうが、風雪に耐えて残っている仕組みというのは、何らかの便益を受ける人がいるわけで、そうした人の理解を得ないで強硬すると、当たり前ですが頓挫します。現状を変えるということは、小さなことでもすごく大変なことです。

 話はそれましたが、まあ、その先輩は、仕事以外で生き甲斐を見出し、それなりの知己を得ているので、人生としては、とても充実していると思います。一面として得るものもあれば、得られないものもある。一芸に秀でているだけでも、素晴らしいことだと思います。
 

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