童話『時の虫』
おだやかな天の光が降りそそぐ、ある街のある日の昼下がりのことでした。小さな女の子とお父さんが歩道にたたずみ、いっしょうけんめいにお話をしていました。
「お父さん、どうしてあの虫さんはあんな高いところにずっといるの?」
「それはね、あの虫さんはあそこでみんなの『時間』をいっつも食べているからなんだよ」
2人の目の前の壁はガラス張りになっており、その向こうには巨大でまあるい時計がはめこまれていました。そしてその時計のてっぺんに、女の子が背中に乗れるぐらいに大きくピカピカしたコオロギの模型が置かれていました。たしかにそのコオロギは脚やハネを動かして、夢中で何かを食べようとしています。
「街のみんなに時間をむだにしないようにって、忠告しているんだよ」お父さんはそう言うと、女の子の巻き毛をクシュクシュと優しくなでました。
女の子はまだとても小さかったので、お父さんの言葉の意味がさっぱり分かりませんでした。でもなんとなく、虫さんはジカンを食べているのだなと納得し、好きなだけいっぱい食べてねと手をふりました。
それから毎日、女の子はコオロギ模型の前を通っては、「ジカン」をお腹いっぱい食べているか観察しました。最初のうちはお父さんかお母さんといつも一緒でしたが、いつしか女の子は自転車に乗れるようになり、お友達だけで公園に行ったり川遊びをしたりするようになりました。そんな時は仲良しの子もいっしょになってコオロギ模型を見に行きました。
女の子は「虫さんはジカンをムダにしないようにって言ってるんだよ」と、お友達にも教えてあげるのが好きだったのです。そうしてみんなで手をふって、お気に入りの場所へと散って行きました。
コオロギ模型は生まれた日から休まずパタパタとからだを動かして、無くなることのない時間を食べています。木々の葉が緑から黄色へと移り変わり、人々が顔をしかめて北風に立ち向かい歩くのをガラスごしにちらりと見ては、また「1年」という量の時間を食べてしまったのだと感じながら。
何度めかの春が来て冬が来て、コオロギ模型は不思議なことに気づきました。ある日まで見かけた人たちが、ある時からは全く姿を現さなくなることに。かれらはどこに行ってしまったのだろうーーコオロギ模型はからだを休めることなく考えました。
きっとこのガラスを越えた向こうの向こうのもっと向こうの通りには、もっと大きな街があり、人々はそこでコオロギ模型が食べもらした別の時間を過ごしているのだろう。コオロギ模型はしらない街で時間を食べる自分のすがたを想像し、なんだか楽しくなりました。
そして毎日のようにあいさつをするあの女の子も、いつか向こうの街に行ってしまうのかなと思いました。
ある日の朝、もうお母さんよりも背が高くなった女の子がやってきて、こう言いました。「虫さん、わたし、明日から別のもっと大きな街で働くの。この街で学んだことを生かして、すごくえらい人になってみせる」
女の子は大きな荷物を抱えると、淡いピンクのコートをひるがえして通りの向こうへと行ってしまいました。そして次の日からぱったりと、女の子はあいさつをしに来なくなりました。
コチコチコチコチ……いつまで食べてもコオロギ模型のお腹がふくれることはありません。コチコチコチ、コチコチコチ……
最近では女の子のかわりにお父さんとお母さんがやってきて、ガラスの前で立ち止まることが増えました。そんな時、コオロギ模型はちらりと目玉を動かしてふたりを観察します。
初めて会った日のお父さんとお母さんよりも、顔には細かな線がきざまれて、髪の毛は白くペタンコになっています。
そしてコオロギ模型が5分から7分食べる間に、ふたりは手と手を取り合い去っていくのでした。
しばらくしたまた別のある日の明け方ーーお空の太陽が寝ぼけまなこで起き上がる時刻ーーコオロギ模型は自分に呼びかける、あの女の子の声を聞きました。「虫さん、虫さん」
その声はひどく震えていて、とても小さいものでした。「虫さん、お願いだから、そんなにはやく時間を食べないで」
女の子はそう言うと、毛皮のストールで朝の光から顔をかくし、背中を丸めて去って行きました。
次の日から女の子のお父さんはあいさつをしに来なくなりました。女の子もふたたび消えてしまいました。そして女の子のお母さんはひとりでガラスの前を通りすぎはしても、決して立ち止まらなくなりました。たった1度も。
コオロギ模型は思いましたーー女の子のお父さんも、他の人たちのように通りの向こうの向こうの別の街に行ってしまったのだな。そこはとても居心地のいい街だから、誰もここへ帰ってはこないのだろう。あの女の子をのぞいては。
しばらくしたまたまた別のある日のこと、聞き覚えのある声につられてコオロギ模型がちろりと目玉を動かすと、あの巻き毛の女の子とお母さんが並んでガラスの前に立ち、なにやらおしゃべりをしていました。以前にも増してお母さんの背は女の子よりも低くなっており、片方の手には黒くて硬そうなつえがにぎられていました。
そして女の子のほうは、眉と眉の間に深い線がきざまれていました。コオロギ模型が10分と36秒を食べたころ、ふたりは腕を組んでゆっくりとガラスの前から消えました。
それからうーんとしばらくしたまた別のある日の夜ーーお空の月が細くなったあごの角度を気にする時刻ーー誰かがガラスの前にいることにコオロギ模型は気づきました。そこでぎょろりと目玉を動かすと、あの女の子がうずくまっているではありませんか。
街灯に照らされた女の子の髪の毛は白くペタンコになっており、つえを持ったお母さんにそっくりでした。
「虫さん、虫さん。あなたはわたしの時間をずいぶんたくさん食べたわね。わたしが思っていたよりもずっとはやく食べるから、わたしはわたしの時間内にたいしてえらい人にはなれなかった。でもいいの。わたしは今、ここにいる。ここにいて、あなたが時間を食べるすがたをまた自分の眼で見ることができたのだから」
その日から毎日女の子はあいさつにやってきました。昔のように手をふって。しかし再会の日から372日目の23時59分59秒を迎えても、女の子はあいさつに来ませんでした。そしてついに372日目が終わり、373日目が始まる24時0分0秒の時を食べたしゅんかん、コオロギ模型は悟りましたーーあの女の子もまた、2度とこの街には帰ってこないのだと。
女の子のお父さんとお母さんが行ってしまった、通りの向こうのすてきな街へと旅立ったのだと。
コオロギ模型はたくさんの「1年」を食べ続け、たくさんの人たちが別の街へと消えました。でも同じくらいたくさんの小さな女の子や男の子が次々とやってきて手をふるので、コオロギ模型はちっともさみしくありません。
そして時々はあの巻き毛の女の子のことを思い出し、みんなが向こうの街で「食べもらしの時」を楽しく過ごしているのだと想像して、うれしくなるのでした。
ほら、今日も耳をすますとこんな話し声がきこえてきますーー虫さんはどうしていつもあんな高いところにいるの? それはね、いつもあの場所でみんなのジカンを食べているからだよ。
〈了〉
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