小説「或る夫婦の話」第四話

第一話

第二話

第三話


 上司は望み通り深い深い溜息を吐いた。
「大体さ、お前口だけ共存とか言ってないか? 行動と発言が乖離しすぎだろ。共存って逃げ回ることでも口実つけて避け続けることでも無いんだぞ? 手を取り合って生きていくために互いの出来ることを共存って言うんだよ。分かってるか?」
「……分かってますよ」
 男は口を尖らせた。
 二人は人里離れた山奥からこの喧騒溢れる人間社会に移り住んできた。今は人間の姿をしているが、実のところ人間ではない。野生の動物たちが、人間の姿を借りているのだ。
 今から何十年も前。どんどん棲み処を奪われ続ける現状を憂いた山の賢者が、山に住まう動物たちに演説をした。このまま山奥で隠れるように暮らしていてもどんどん棲み処が奪われ、個体数が減っていくだけ。であれば人に紛れてでも生存を選ぶのもまた戦略の一つではないか?
 当然否定する者も居たが、賛同する者も現れた。賛同者は家族を喪い、もう繁殖することもままならないような状態の者が多かった。そこで山の賢者は人間になることが出来る秘薬を彼らに渡し、人間社会に溶け込ませることにした。本当に人間と共存は可能か、彼等にどんな道しるべがあるのかを模索するために。
 そうして人間社会にやってきたのが男や上司である。上司はもう二十年近く人間社会で暮らしていて、事情を知っている男ですら信じられないくらいに人間らしく過ごしている。
「カンムリさんほど僕は要領が良くないんですよ……」
「要領の良し悪しの問題じゃないと思うが? お前、自分と似た境遇の奴以外と碌に会話したこと無いだろう。まともに人間と会話したことあるか? 溶け込もうとする姿勢で居るって、自信を持って言えるか?」
 卑屈めいた物言いも正論で返されてしまい、男は口を閉ざした。男は配偶者どころか会社の人間とすら、業務会話以外でまともに話した記憶が無い。いつも話しかけて貰ってばかりだ。
「まずは人間の友人を作るところから始めさせるべきだったか……オババもせっかちだからなあ……」
 カンムリさんも人のこと言えませんよ、とは、男は口に出来なかった。
 オババとは、山の賢者その人――便宜上『人』と言わせて欲しい――である。皆オババと呼んでいて、何の動物かすらよく分かっていない。やたら人間社会に詳しく、人間の知り合いも何人も居るらしい。二人が働く会社のトップもオババの知り合いらしく、二人以外にも山奥出身の者が在籍している。
 戸籍や何やら、人間社会で暮らしていくために必要なものもオババが手を回してくれたらしい。そして、結婚を一番急かしたのも、このオババだった。上司も相当口を挟まれたらしく、経験談を語っているときの目に力が無かった。
 流石に見合い相手までは見繕っていないようだが、知り合いの人間達に働きかけはしているらしい。一体何者なのだろうか。目の前の上司そっちのけで、男は傑物たるオババについて思考を巡らせていく。
「……お前話聞いてるか?」
「や、やだなあ、聞いてますよ。もっと人間と関われって言いたいんでしょう?」
「正確には嫁さんと、だがな。嫁さんと話をするための練習として、他の人間と関わるのも悪く無い」
 上司は満足げに頷きを返した。
 思考の激流に呑まれる前で良かった。男は何事も無かったように居住まいを正す。
「人間は怖くないぞ。周りに居るのはお前の家族を奪った個体とは別の個体だ。現にお前の嫁さんはお前に厳しいどころか、有り得ないぐらい親切だろう? 一体何を恐れる必要があるんだ」
「こ、怖いですよ。ミドリさんって何考えてるか分かりませんし……」
「本当か? お前の方が何考えてるか分からんがな。具体的なエピソードとかあるか?」
 上司は足を組み、机に肘をついて頭を乗せた。
「ええと……、出会って間もない頃、好きな食べ物は何か訊かれて、うっかりカエルって言っちゃったんですよ」
 人間の姿になっているときは、人間に準拠した行動をするようになる。食事の好みも同様だが、この会話をしている最中、一匹のカエルが男の視界を横切ったこともあり、つい本能のまま答えてしまった。
「死ぬほど焦りました。絶対変に思われる、って思って、『今のは違うんですよ!』ってすぐ言おうとしたんですけど、その前に『カエルって鶏肉の味がするっていいますよね。どこのお店で召し上がったんです? 私も前から興味があったんです』って話を合わせてくれて……」
「……」
「でも僕お店なんて知らないし、焦って『いや野生の』ってまた余計なことを口走っちゃったんです。今度こそもう一貫の終わりだ! って思ったんですけど、『話に聞いたことはありましたけど、本当に食べられるんですね! 私にも捕まえ方と調理方法教えていただけませんか?』なんて目をキラキラさせちゃって……」
「……」
「どうにかこうにか友達が食べさせてくれたってことにして難を逃れたんですけどね。ね、意味が分からないでしょう?」
「お前の方がよっぽど意味わからんわ。絶対大事にしろ嫁さんを」
 上司は皿のような目をして男を睨んだ。男はひっ、と息を呑んで目を逸らす。
「お前この調子で他にもやらかしてんだろ」
「ぐっ、そ、それは……」
「いいよ聞かなくても分かるから。聞きたくもないそんな情けない話……」
 上司は今日一番の深くて長い溜息を吐いた。
「私でも愛想を尽かしそうな話だったが、嫁さんはそれでもお前が良いって言ってくれたんだろ? なんていい人なんだよ。元々好感度高かったけど更に上がったよ」
「そ、そうなんですよ。いい人なんです、とっても。僕が何を言っても気の利いた反応を返してくれるし、興味を持ってくれるし……、僕みたいな男、絶対つまらないのに。人間だって強くて格好良いオス……男の方がモテるんでしょう? 僕みたいな弱っちくて細っこい奴は、伴侶を得るどころか生存競争すらもまともに生き残れない存在なのに……」
 男は背中を丸めた。元々頼りない声が、更に細く、弱々しくなっていく。
 男の家族は人間に捕らえられてしまい、それきり帰ってこなかった。しかし、仮に家族が生きていたとしたら、男は間違いなく見捨てられていた。弱くて臆病で、狩りも一人では満足に出来ないとなれば、野生で暮らしていくのは難しい。男は薄々分かっていたからこそ、巣からほとんど出なかった。このまま衰弱死するのも外に出て生存競争に負けて死ぬのも、同じだと思って。
 結局男だけが生き残るとは、運命とはかくも数奇なものか。
「僕は人間が……、ミドリさんが怖い訳じゃないんです。たくさん関わって変なこと口走って、いつか幻滅されちゃうんじゃないかって……。そう考えると、無意識に体が家から遠ざかっちゃうんです。本当に情けないですよね、僕。こんな感情ミドリさんに言う訳にもいかないし……、どうしたらいいんでしょう。」
「それそのまま嫁さんに言ってみたら?」
「僕の話聞いてましたか?」
 投げやりな上司に対し、男は顔を上げて上司を睨みつけた。視線がかち合い、一秒足らずで男は目を泳がせた。
「いや、考えてもみろ。幻滅するんだったらとっくの昔に幻滅してる。それくらいお前のさっきの会話は酷かったぞ」
「いつもあんな会話をしてる訳じゃ……」
「だとしてもだ、普通の人間なら一発アウトだぞ。それを飲み込めるような人だぞ? 心配いらんだろ。むしろ何かにつけ避けてる方が心証が悪い。それよりも正直に不安を曝け出した方がマシな結果になるんじゃないか」
「そ、そうでしょうか……」
「そうともさ。人間の言葉で言うなら、善は急げ。とにかく愛想尽かされる前に、とっとと行動することだ」
 上司は大きく伸びをして立ち上がった。話はここで終わりのようだ。男も解放感に包まれ、大きく息を吐いた。
「そろそろ良い時間だ、昼飯食べて、弁当の感想でも連絡しとけ。今日も用意してくれてんだろ?」
「あ、は、はい」
「本当、出来た人だよなあ。そのうちカエル料理も作ってくれるんじゃないか?」
「あ、もう何回か……」
「……すごいな。私も蛇料理をリクエストしてみるかな……」
「やめてくださいよ!!」
 男は悲鳴のような声を上げた。元が蛇の男にとってはぞっとしない話である。
「冗談だよ。何もお前を食べるなんて言ってる訳じゃない。……ん? そういやお前、そろそろ秘薬の効果が切れる時期じゃなかったか?」
 上司が首を傾げた。
 秘薬は万能だ。人間と全く同じ見た目、身体構造にしてくれる上、好みまで人間仕様に適応することが出来る。しかし、弱点もいくつかある。オババにしか作れないことと、定期的に摂取しなければならないことだ。個人差もあるが、大体一か月から二か月おきに摂取する必要がある。
「ちゃんと秘薬持ってるよな?」
「と、当然じゃないですか。お守りとしていつも持ってますよ。ほらここに――、あれ?」
 証明のために胸ポケットから小さな巾着を取り出し、口を緩めてみると、そこには、あるはずの秘薬が存在しなかった。
「……おい?」
「あ、あれ、おかしいな……」
 手当たり次第にスーツのポケットを探ってみるが、やはりそれらしきものはない。
「あ、はは、は……。無い、ですね。うん。……どうしましょう」
「知るか!」
 二人が昼食にありつけたのは、それから二時間後のことだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?