小説「或る夫婦の話」 第三話
第一話
第二話
『第三会議室』というプレートが嵌められた扉の前で、男は右往左往を繰り返していた。
仕事はすぐに終わった。元より、男に割り振られる仕事などそう無いのだ。それほどの実力もないし、特に今日は「呼び出されてたでしょう? だったらやってあげるよ」とほとんどの業務を引き受けられてしまった。
心からの善意からか哀れみの感情からかは分からなかったが、男は嬉しさよりも申し訳なさが勝った。ただ引き攣った笑みを浮かべることしか出来なかった。
そうして今、男は上司に呼び出された部屋に居る。この会議室は外から様子を伺い知ることが出来ない。厳密に言えば天井に近い部分に小窓が配置されているが、男の背ではとても届かない。故に、廊下と男の靴底を緩やかにすり減らす作業を延々と続けていた。
「ああ、早く入らなきゃ……でも怖い……ああ、どうしよう……誰か助けて……」
ぶつくさ言いながら何度目か分からない往復を終えたときだった。不意に扉が開いた。扉は外開きだった。
「へぶっ」
男は無様な声を漏らし、床に倒れ込んだ。
「何やってんだお前。早く入れよ」
扉を開けた張本人は悪びれもせず、男の腕を掴んで立たせ、部屋に放り込んだ。
「顔半分潰れてません? 僕」
男はよろめきながらも手近な椅子に掴まり、腰を下ろす。壁紙も机も椅子も緑系統に統一されたその部屋は、とても目に優しかった。男の心の安寧にはまるで訳に立たなかったが。
男がもたもたと腰掛けている間に、上司は手早く扉を閉め、鍵をかけた。そして男の近くにあった椅子を乱暴に引き、どかっと腰を下ろすと、男の頭を鷲掴みにした。
「お、ま、え、な~~~?」
「いた、いたいっ、爪が食い込んでます!」
男の悲鳴も何のその。上司は男の頭を掴んだままだ。
「す、すみませんすみませんっ、この前の入力ミスの件ですか!? それとも大量に誤字があるまま取引先にメール送ったことですか、謝りますから離してください!」
「どっちも知らねえぞ、おい」
一際強く掴まれたかと思うと、上司はパッと手を離した。そして深く溜息を吐き、目を皿のようにして男を見た。突き刺すような視線に、男は俯き、体を縮こませる。
「仕事の話じゃない。……お前、ちゃんと夫婦やる気あんのか?」
ぐ、と言葉に詰まる男の顔を除き込もうと、上司は体を丸める。勘弁してください、と叫びだしたくなるのを堪え、
「は、はは、やだなー、当たり前じゃないですかー。円満ですようちは! 任せてください!」
「家に帰りたくないっつって無駄に会社に居残るわ、やたらと遠回りして家に帰ろうとするわ、そんな奴の家の何が円満だって?」
男の引き攣った笑みが固まった。ぴし、と罅割れる音が聞こえそうなくらい、男の口角は歪に上がっている。
「な、なぜそれを」
「偶然目にしたんだよ。その反応、お前いっつもわざと時間かけて帰ってんな?」
「……」
凍てつく視線に男は更に小さくなる。まるで子供に玩具にされまいと身を守ろうとするダンゴムシのようだ。
「せっかく相手さんに気に入ってもらえたのに、何が気に食わない? お前だって彼女と会った後は乗り気だったはずだろう」
上司の言葉がちくちくと突き刺さる。硬い殻で身を覆っても、されるがままに弄ばれることは避けられない。
「……ま、多少強引だったのは認める。それは謝ろう。けどなあ……、お前、何のためにここに来たか覚えてるよな?」
「……はい」
吐息と聞き違えるくらい掠れた声だった。男としては、もう少ししっかり返事をして、この重苦しい空気から逃げ出す機を作るつもりだったのだが、中々上手くいかない。
上司も苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「本当に分かってるか?」
「分かってますよ……。人間との共存を図るため、ですよね」
男はようやく顔を上げた。上司の険しい目元は、僅かに眦が下がったように見えた。しかしそんな錯覚も一瞬のことだったようで、
「鈍臭いお前でも、流石に忘れないよな。疑って悪かった。でもま、覚えてるならしゃんとしてもらわないと困るんだがなあ?」
獰猛に片側の口角を吊り上げた。
男はがっくりと肩を落とした。
「勘弁して下さいよー……、仕事だってあるでしょう?」
「私の分は終わらせてある。お前だって今戻っても出来ること無いだろ。大人しく私に搾られておけ」
「いーやーでーすー! 助けて! 誰か!」
「無駄に防音効果高いから誰も来ないぞ」
男はがっくりと肩を落とした。無理矢理出ていこうにも、腕力も瞬発力も敵う予感がまるでない。逃げ出す前に取り押さえられてしまうビジョンを思い描き、男は深い深い溜息を吐いた。
「溜息吐きたいのはこっちだよ」
あとお前の嫁さんな。
男は今度こそ、何も言えなくなった。
ちょっと中途半端かもしれません。上司の説教はまだまだ続きます。
全6~7話くらいの予定。
第四話
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