この世で一番怖いもの
「まんじゅうこわい」という落語がある。怖いものなんて無いという男を怖がらせるべく、「まんじゅうが怖い」と漏らした言葉を信じて男を怖がらせようとする噺である。オチは有名なので語るべくも無いとして、序盤に若者たちが言い合う怖いものは虫、動物、実在しない物と多種多様である。
さて、貴方は何が恐ろしい?
私は何より「確証バイアス」が恐ろしい。
確証バイアスとは
ある持論に対して、持論を支持する証拠ばかりを集めてしまう習性のことを確証バイアスと呼ぶ。
確証バイアスを分かりやすく体現する、「2-4-6課題」というものがある。
「2、4、6」という数字の並びを見て、どういう法則を見出すか、というものである。質問は何度でもしていい。
さて、貴方ならどのようにして法則を導き出すだろうか?
多くの人がまず最初に「2ずつ増える偶数」ではないか、と考えるのではないだろうか。実際私も最初にそう思った。さて、試しに「4、6、8」は該当するか聞いてみよう。
答えはイエス。法則に当て嵌まる。
さあ、ここからが問題だ。貴方は「2ずつ増える偶数だ」と得心して、出題者に回答を告げるだろうか。それとも仮説の検証を続けてから答えを続けるだろうか。
仮説の検証とは言うけれど
この課題は「イェール大学集中講義 思考の穴」という本に記載されていたものだ。検証の例もこの本から引用させてもらうとしよう。
とある学生もこの課題に挑戦し、「2ずつ増える偶数」と仮説を立てた。そしてその仮説に当て嵌まる並びを質問し、イエスの答えを貰えたので意気揚々と仮説を発表した。
しかし、答えはノー。この「2、4、6」の数字の並びの法則は「2ずつ増える偶数」ではないらしい。
学生は面食らったが、すぐに「1、3、5」の並びが当て嵌まるかを確認した。答えはイエス。そこで学生は安堵した。「なんだ、2ずつ増える数字だったのか」と。そこでまたも仮説を告げたが、それも適当な答えではなかった。
その後も「2ずつ増える数字」の仮説に当て嵌まる数字の羅列を提案しては、出題者はイエスと判定を下す。学生はいよいよ混乱し始める。法則に当て嵌まっているはずなのに、どうして「2ずつ増える数字」ではないんだ?
「検証=持論の補強」ではない
「-7、-5、-3」や「1002、1004、1006」といった数字の並びも試したところで、学生ははたと気付く。「2ずつ増える数字の並び」なんてものはいくらでもある。負の数もそうだし、桁が膨大な数もそうだ。そして「2ずつ増える同じ桁数の数字」や「2ずつ増える-10以上の数字」など条件を細かくしていけば、今までイエスの判定を貰った羅列も法則に当て嵌められる。それら全ての法則を見出して潰して……、なんてことは現実的ではない。
このまま自説を補強する検証ばかり続けていては、無限の可能性に囚われてしまって正解には辿り着けない。
そう気づいた学生は、「3、6、9」のように、同じ数ずつ増える数字の並びを訊ねてみる。法則には当て嵌まるが学生の提示した法則は正しくないとの返答に、学生は半ば投げやり気味に「1、4、5は?」と訊ねた。
すると法則に当て嵌まるとの答えが返ってきた。面食らった学生は、試しに「5、4、3」の並びを試してみる。すると出題者は首を振った。法則に当て嵌まらないということだ。
そしてようやく、学生は気付いた。恐らく、画面の前の貴方も気付いたことだろう。
「2、4、6」の数字の並びは、ただ前の数より大きい数字の羅列だったのだ。
このように、一口に検証を重ねると言っても、持論の補強にばかり目を向けると、果てしない遠回りをするどころか誤った正解に辿り着いてしまうのだ。
皆陥る確証バイアス
「思考の穴」には「2-4-6課題」以外にもたくさんの確証バイアスの例が掲載されているので是非ご一読頂きたいのだが、確証バイアスの恐ろしいところは、誰でも簡単に陥ってしまうところである。そして、酷いときには社会全体がその確証バイアスに囚われてしまうということである。
これまた「思考の穴」から確証バイアスの例を引用するが、瀉血をご存知だろうか。悪い血を抜けば病気が治るという迷信である。
今でこそ悪名高い偽医療として有名だが、当時は瀉血が当たり前に支持されていた。実際瀉血をして病気が治った人も居たからだ。瀉血の成功例がそこそこあるのであれば、瀉血に有用性を感じても致し方ない。瀉血をせずに病気が治った人のデータでもあれば少し話は変わったかもしれないが。
これまた引用だが、「モーツァルトの音楽を聴かせるとIQが上がる」なんて話を聞いたことはあるだろうか? 学生に聴かせたところ、テスト結果に有意差が生まれたという実験結果に基づき、こんな噂が生まれた。子供に聴かせる用のCDも数多く販売され、派生作品も多数生まれた。
しかし実際に上がるのは空間把握能力だけで、永続的な効果は無いらしい。しかしどの親もこぞって子供にモーツァルトの曲を聴かせただろう。「良くなるかもしれない」という意思から生じる確証バイアスは、他のどんなものよりも覆し難い。
何故確証バイアスは存在するのか
本書ではこの確証バイアスのことを「最悪のバイアス」と呼称していた。私も同感である。
何が最悪かって、自分で間違っていることに気づけないまま、間違った方向にどんどん突き進んでしまうのである。これ程恐ろしいことは無い。
では何故、確証バイアスが存在するのか?
それは膨大な選択肢を一々検証しなくていいからである。
例えば肥沃な土に恵まれ、食糧となる果物が多く自生している森があったとする。その森以外にも森があったとして、貴方は他の森にも食糧があるかどうか、確かめに行くだろうか? 他の森には動物や毒性のある植物ばかりでなんら収穫は無いかもしれない。逆に、他の森も同じように豊かかもしれない。どういう場所かは行ってみなくてはわからないが、既に安全で安定した食糧供給が確保されている状態で、わざわざ危険を冒すだろうか?
ちなみに私は好奇心に勝てずに他の森に行くと思う。
私のような愚か者も居るが、賢明な人であれば恐らく検証をせず現状に満足を覚えるだろう。可能性を考えるということは、それだけエネルギーを消費する。確証バイアスは無駄なエネルギーの消費を抑えてくれる。「最悪のバイアス」ではあるが、合理的な部分もあるのだ。
確証バイアスから逃れたい
それでも確証バイアスは嫌だ。恐ろしい。
間違えることは良い。恥をかく可能性もあるが、正しいことに気づける。つまりより成長する機会が与えられる。そもそも人間、間違えずに生きることなど出来ないのだ。間違い自体を怖がることはナンセンスだ。
しかし確証バイアスに囚われると、間違えているということにさえ気付けなくなってしまう。
私にとって、これ程恐ろしいことは無い。
ディストピアを題材にした小説で、一見幸せそうに見えるが実は徹底的に管理された社会が描かれていることがある。外側の観測者たる読者から見たら全然幸せでもなんでもない、まやかしの幸せだ。
確証バイアスもこれに近い。本人は正しい答えを導いたと満足しているが、その実全くもって見当はずれの結論に帰着している。知らない本人は幸せだが、そうでない他人から見たら滑稽にすら思える。
私は文章を書くとき、「個人的には」「〇〇かもしれないが」「〇〇という見方も出来る」と言った、冗長な表現をしてしまうことが多い。悪癖である故直さなければならないと思うのだが、どうにも自分の中の可能性を潰すことに気が引ける。
理由は単純。確証バイアスに支配されそうで恐ろしいからだ。そしてこういう風に持論に揺らぎがあることを提示すればきっと、批判もしやすいだろうと思ってのことだ。
だがしかし、この気持ちも実は確証バイアスが働いているのではないだろうか?
断定口調ばかりの本を読んでいても、私は「いやそれは違うでしょ」と反論がすぐに思い浮かぶ。恐らく貴方も同じだろう。
表明せずとも、脳内にある可能性は消えないのかもしれない。敢えて書かないことで更に脳裏に深く刻まれるかもしれない。
こうしてあらゆる可能性を考え完璧を目指すよりも、一定の水準で上手く妥協して物事と付き合う方が幸せになれるらしい。
私はいつも、「いやこうして否定批判して生きていく方が私にとっては幸せだ」と思っているのだが、その実妥協して受け入れるということをしたことが無いから、幸福度は比較できない。
確証バイアスに囚われぬよう行動しているつもりが、実は誰より確証バイアスに囚われて生きているのかもしれない。アイデンティティが崩壊しそうだ。
このように、私の脳内は疑念ばかりだ。自分でも笑ってしまうくらい疑っている。疑うことが天職と言っても過言ではない。
はてさて、一体どちらがより幸福なのだろう。二つの人生を比較してみたいところだが、人間にそんな力は無い。口惜しい。
結局のところ、どんなに気をつけていても確証バイアスからは逃れられないし、力を借りねばならない部分もある。これは否定しようのない事実だ。
それでも、思考停止でバイアスを受け入れるのではなく、可能な限り反証を続けていきたいと思う。そうして疑うことこそが私の生き甲斐であり、幸せに繋がる道だと信じて。
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