「出来る人の考え」って具体的に何だよ?

 またしても言われてしまった。
 昨日、仕事終わりに少し雑談する時間があり、学生時代の話をしていたのだが、会話の流れで「やっぱり頭の良い学校の人は」みたいな言い回しをする人が居た。言われていたのは別の人だったが、じっとりと嫌な気持ちが滲み出てきた。
「そんなこと言ってっから馬鹿なんだよ」とでも言ってあげればよかったのだろうか。未だに良い返しが思いつかない。

 別に自分のことを賢いと思ったことは無い。子供の頃はもしかしたら天狗になっていた時期もあったかもしれないが、高い鼻も中学生になる頃にはぽっきり折れていたはずだ。
 世の中には頭の良い人がたくさん居て、私なんぞその足元にも及ばないと理解していた。
 だからといって研鑽を止めようとは思わなかった。「やっても無駄だ」と思ったのは体育と美術くらいなものだ。どちらも真面目にやっていても「3」以上の評定を貰ったことが無い。
 だからといって、運動が得意な子や絵が得意な子に話を聞いても、「それは上手い人の考えだ」と言ったことは無い。そもそも会話する機会が無かったと言ってしまえばその通りなのだが、数少ない会話の機会を思い返しても、尊敬の念か劣等感を抱くだけで決して口には出さなかった。
 もっと具体的な話をするなら、自己肯定感についての話が挙げられる。自己肯定感を得ることについて、私は完全に「出来ない」側だ。自己肯定感を高める方法を見ても「んなの出来たら苦労しねえっつの!!」と画面の前で悪態を吐いていた。しかし自分に出来そうな範囲から始めて、どうにか「生きててもいいか」くらいに思えるようになった。
 当然記事を書いた当人に悪態を吐くことは無かったし、自己肯定感の高い人を見ても「出来る人の考え方だ」と直接伝えたことは無い。ただ出来る人と自分とのギャップをどう埋めるか考え倦んだ末、自分に出来る範囲のことを積み上げた。そうして前より差が縮まった。別に誇る程のことでもなく当たり前のことだと思っているが、どうやらそうでない人も居るらしい。

「出来る人の考えだ」などと言うのは「私はこれまでも今も全然努力してこなかったし、これからも貴方の考えを理解出来ないし理解する努力をするつもりもありません」と言っているようなものだ。少なくとも、私はそう捉えてしまう。失礼極まりない。
 勿論、説明する側が悪いということもある。
 物事を感覚的に習得してしまう人間と、理論を積み上げて習得する人間の二通りが居る。後者の人間は元々出来なかった人が多いこともあり、躓きやすいポイントを知っていたり言語化が上手だったりするので参考になることが多い。
 対して前者の習得者は、擬音や抽象的な話が多く、躓きやすいポイントも把握していないことが多い。故に聞いてもほとんど参考にならない。「天才が見ている世界ってこんな感じかあ」と、新しい知見を得ることは出来るし、同じく感覚で捉えるタイプであれば参考になるかもしれない。
 私は基本的に理論派だが、歌に関しては完全に感覚で歌っている。有難いことに歌が上手いと言ってくれる人が何人か居て、どうやったら歌が上手くなるかを訊かれたこともある。しかし、まともな説明を出来た試しがない。ようやく捻り出したのは「耳を鍛えるんだよ」などという、トレーシングペーパーよりも薄い一言。こういうときに「出来る人の考えだ」と言われても別に腹は立たない。説明出来ない方が悪いから。

 しかしこと勉学に於いては話が違う。
 先にも述べた通り、私は自分のことを頭が良いと思っていない。学生時代は非常に不真面目だったし、自分の好きな勉強にばかり傾倒していた。今もそうである。
 だのに私の考えの一端を話しただけで、「出来る人の考えだ」と線を引いて逃げてしまう。これでは反駁の余地すらない。腹立たしい、せめて私の言動のどこに何を感じたのかだけでも伝えてくれ。
 例によって少ないサンプルで申し訳ないのだが、私が言われたり遭遇したりした事例をいくつか挙げてみよう。

 以前、とある男性の配信を視聴していた。そこで数字の話になった途端、視聴者は「数学の話しないでください」と極端な拒否反応を示した。何の脈絡も無く線形代数の話をしてきたら流石に面食らうが、話の流れ的に正当であったし、何より話していることは時速の導き方や四則演算の話である。私は「小学校の範囲の話に何を拒否反応を示してんだこいつら。そもそも数学じゃなくて算数じゃねえか。生活費の計算もしねえのか? するだろ? 一緒だろそれと」と悪態を吐き、視聴者が嫌でその配信を見るのを止めた。

 親切心で「こう計算したらいいよ」と伝えたときのこと。これもただの足し算と引き算である。電卓を使うより早いだろうと思ってのことだったが、「頭の良い人の考え」と言われてしまった。加算減算なんて頭の良し悪しの問題じゃなかろう。義務教育も受けられない環境だったのだろうか。だとしたら申し訳ないことをした。

 最近出合った素晴らしい本「元素創造」という本を読んでいたときのことだ。何を読んでいるのか訊かれて表紙を見せたら「そんな難しそうな本読んでるの?」と、自分には分からないと身を引かれた。化学を齧った人間であれば誰だって理解できる。実際、暫く化学から離れていた私にも理解できる話だった。難しそう、と思うのは勝手だが、逃げるなら近寄ってくるなよ。

 誰も彼も、何故諦めてしまうのだろう。やってから判断すればいいのに。
 苦手意識がそうさせてしまうのだろうか。私も運動は苦手だし、出来ることならやらずに過ごしたい。たまに過去に嫌な思い出のあるスポーツに手を出し、やはりやるべきではなかったかもしれないと思うことがあるから、気持ちは分からないでもない。
 だからといってやる前から勝手に予防線を張って逃げ出すのは違うんじゃないだろうか。苦手意識があるからこそ克服したいとは思わないんだろうか。
 過度に「自分にもできるが??」と意地を張る必要は無いが、脱兎の如く去る必要も無いだろう。一旦受け取って、後で自分にも出来る可能性はないか吟味してみる、といったスタンスを取ることは出来ないのだろうか?
 私は否定されることも好きだが、この否定は頂けない。片方が不快になったとしてもどちらか片方に成長の機会が訪れるのならいいが、これは不快になった上に誰にも成長の芽が生えない。否、私の思考の伝え方については向上が見込めるだろうか? だとして、天秤は釣り合うだろうか。
 こういう人達が一方的に他者に一線を引きながら、自分は平和主義者ですという面をしていると思うと冷めた目を向けてしまいたくなる。ただの偏見だが、どうもこういう手合いは議論をしようとするとすぐに逃げ出す。議論=悪だと思い込んでいるかのように。
 今度似たようなことを言われたら、「何をもって頭が良いとするの?」と聞いてみようか。貴方の価値基準に於いて私の何が頭をよく見せているのか訊ねてみたい。そうして再現性の可否を考え、「貴方にも出来るよ」と方法を伝えてみよう。そうしたら相手はどんな反応をするだろうか?
 手を変え品を変え伝えていったら、いつか伝わるんじゃないだろうか。私らしからぬ楽観的思想であるが、これくらいの希望を持ってもいいだろう。何を言っても無駄だと対話を諦めるのは、それこそ同じ穴の狢だ。それだけは勘弁願いたい。


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