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病室の窓から、春

いつも春を探している。例えばそれがイチョウ並木を吹き抜ける10月の風だったとしても、少しでも温度が春と似ていれば、春風ということにしたいくらいに。今日はなんだか春の香りがする日だ。 入院中に、たった数センチしか開けられない病室の窓から、限界まで鼻を突き出して、そうして感じた初春のほんのり冷たい空気を思い出す。4人部屋の窓際のベッドだった私は通路側のベッドの患者から「よかったら換気してくださいな」としばしばお願いされたものだ。顔も知らない、年齢も分からない、私たちの体は不自由

    • 汗で張り付いた髪は美しく

      汗で張り付いた髪は美しく、そういう、人間の必死さから表れる湿り気のような美しさは時に誰かを安心させる。 汗、汗だくになって喉が渇いて、君はコップ一杯分の水道水を喉を鳴らして飲み干した。 君はまだ絶望を知らない。 だってそれを知る前に、夏が終わって秋が来てしまったのだから。額にふつふつと湧き上がる粒の汗を拭うことなく冷たいシャワーで洗い流してしまったのだから。 海水浴場のホースが繋がった噴水のような蛇口、足の裏をいくら洗っても洗っても、ビーチサンダルで縁石の上をそうっと歩いて渡

      • セーラー服 青

        セルリアンブルーだけ妙に乾くのが遅い。 セルリアンブルー。思わず巻き舌になってしまいそうな響き。高校の美術の授業ぶりに引っ張り出してきた絵の具セット。アクリルガッシュって久しぶりに見た字面。キャップを緩く閉めたせいでほとんどの色の絵の具が出口付近で固まっていた。 ここ数年ずっとデジタルで絵を描いていた。12色入りの絵の具と違って、色相環から選ぶ色は無限通りあった。くるくるとそれを回して色を選んで、彩度と明度を調節する。違うと思ったらやり直し。お気に入りは青と緑のちょうど中間

        • 夜の猫は波に消える

          夜。無人を案内する信号機が青く私を照らしている。とん、とん、とまるで何かに導かれるようになだらかな坂道をテンポよく下る。 月が綺麗な夜だった。海が見たいと思った。 時刻は午前零時を少し過ぎた頃で、先程訪れたコンビニの店員は二度あくびを噛み殺していた。歩く振動で手元でコロコロと音を立てるアイスの実、猫がプリントされたお気に入りのTシャツとショートパンツ、電源を落とした携帯電話。持ち物はそれだけだ。なんとなく普段は通らない道を選びながら、潮の香りがする方へとただ歩く。 気分は野

        病室の窓から、春

          春風

          眼鏡を外したら美少女、な彼女は学年で一番最初に学校を辞めた。眼鏡もマスクも頑なに外そうとしなかった、クラス写真で私の隣に真顔で立つ、あの子 一緒に図書委員をやった。図書館だよりの「図書委員の推薦図書」のコーナーを、一文ずつ交互に一緒に書いた。いつも教室の隅で静かに本を読んでいた、あの子。実はそれ漫画だってこと知ってるんだけど。 機関誌に載せるクラスメイトの顔写真をカメラに収めていく係をやった。彼女は頑なにマスクを外そうとはしなかった。一瞬外してくれたと思ったらレンズを向け

          逃れられない夏の死

          怠惰な私はベッドの上で腐って死ぬ。 閉め切ったカーテンがつけっぱなしの冷房の風で微かに揺れる。陽の光さえ浴びないまま、最期の寝返りを打って私は一人で死ぬのだろう。 拝啓、あなたは生きていますか。 人が苦しまずに死ぬための毒薬をあなたは知っていますか。 それは、例えば駅のホームにある。 「間もなく、三番線に電車が到着します。黄色い線の内側までお下がりください」 東京の山手線の駅のホームからはビルが見えるらしい。「東京の電車って地上を走る地下鉄みたい」私が言ったのかあな

          逃れられない夏の死

          ポップコーンで泣かないで

          先日、急に思い立って一人で映画を観に行った。 『ルックバック』という、今話題のアニメ映画だ。もともと公開前から気になっていた映画で、夏休みに入ったあたりで誰かを誘って観に行こうかなと思っていたもののSNSに流れてくる感想やネタバレの投稿を避けるのが億劫だったので、たまにはいいかと一人で観に行くことにした。 思えばこれが生まれて初めて一人で観た映画だったかもしれない。(以下、『ルックバック』のネタバレを含みます) 田んぼ道を抜け、小さな踏切を超えた辺りにそれはあった。 小学生

          ポップコーンで泣かないで

          檻の中の小さな祝福

          思春期のど真ん中に居た私たちは、生ぬるく湿った空気が漂う狭い世界で、一つの神秘を目の当たりにしていた。 中学3年の時の担任の先生はどちらかと言えば無口で、生徒のことを「諸君」と呼び、他の先生たちとはあまり関わりたがらないような、長身で30代の男性だった。 変わった先生だな、と誰もが思っていた。授業はよく聞けば面白いが声が小さく早口で聞き取りづらい。ほぼ毎日配られる学級通信にはA3の紙に中学生にしてはかなり難しい内容の文章がびっしりと書かれている。 また、自身の妻のことを「同

          檻の中の小さな祝福