見出し画像

汗で張り付いた髪は美しく


汗で張り付いた髪は美しく、そういう、人間の必死さから表れる湿り気のような美しさは時に誰かを安心させる。
汗、汗だくになって喉が渇いて、君はコップ一杯分の水道水を喉を鳴らして飲み干した。
君はまだ絶望を知らない。
だってそれを知る前に、夏が終わって秋が来てしまったのだから。額にふつふつと湧き上がる粒の汗を拭うことなく冷たいシャワーで洗い流してしまったのだから。
海水浴場のホースが繋がった噴水のような蛇口、足の裏をいくら洗っても洗っても、ビーチサンダルで縁石の上をそうっと歩いて渡っても、水に浸ってシワシワになって出来た皮膚の溝に砂は張り付いてしまう。それを手で払っても今度は手に砂が付く。
君はまた、また、去年の夏と同じように今年の夏も終わらせようとしてしまうのか。
本当は違うのに。本当は、きっと君はまだ動揺を咀嚼できていない。
焼けた褐色の肌に、真っ黒の束になった髪の毛が張り付いて、汗がそれを伝って、それはかつてふらりと訪れたアンガウルの島で見た二人の少女の姿によく似ている。彼女たちは、姉妹だった。
彼は、彼女たちの父親は海に潜ってコバルトを採掘して生計を立てているんだよ。美しいはずのコバルトが、彼女たちにとってはたったひとりの父親を殺す凶器でしかなかったんだ。
君は絶望の欠片を少しだけ思い出しただろうか。
それとも、もがき苦しんだ今年の夏の日々をやっぱり無かったことにしてしまうだろうか。
砂一粒も厭わずに裸足で突っ立って眺めた波打ち際を、あの八月三十一日の夜を、君は忘れてしまえるんだろうか。
すべてを忘れようとして、結局何も手放すことのできなかった、あの。
白く濁った泡が作る網目、静かに寄せて君の素足を濡らす夜の波はきっと美しい。美しいけれど、
君はまだ絶望を知らない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?