夜の猫は波に消える
夜。無人を案内する信号機が青く私を照らしている。とん、とん、とまるで何かに導かれるようになだらかな坂道をテンポよく下る。
月が綺麗な夜だった。海が見たいと思った。
時刻は午前零時を少し過ぎた頃で、先程訪れたコンビニの店員は二度あくびを噛み殺していた。歩く振動で手元でコロコロと音を立てるアイスの実、猫がプリントされたお気に入りのTシャツとショートパンツ、電源を落とした携帯電話。持ち物はそれだけだ。なんとなく普段は通らない道を選びながら、潮の香りがする方へとただ歩く。
気分は野良猫だった。
秋に似た風が微かに頬を撫でる。
私が気ままに角を曲がっても、月は確かについてくる。私は月を海まで連れて行くことにした。
片足を前に踏み出す度に私は心の中で呟く。ぜんぶ。ぜんぶ。車道の真ん中を早足気味で歩く。ぜんぶ。公民館のある角を右に曲がる。林の中を通って近道。ぜんぶ。
忘れてしまいたかった。波の音を聴いて、現実逃避がしたくて。
アイスの実を程よく溶かした頃、たどり着いた先は小さな港だった。私は浜辺に行く前にここで寄り道することにした。
月がそこで止まったから私も止まっただけだ。
夜の港に思わず見惚れてしまったから、だなんてそんなくすぐったい理由じゃないよ、だってこんなにも家から近いのに。
桟橋の先端まで歩く。
屍のようにひっそりと並ぶいくつかの小型漁船。
頭上にあったはずの月が足元の渚で静かに光っていた。すぐ目の前の小さな島からもいくつかの街灯が真っ黒い海水を照らしている。もちろん誰もいない、私ひとりだけだ。
光の波が、美しかった。
黒く得体の知れない海の水が、揺らめく光の柱を写している。知らない場所だ、と思った。月光を反射させてキラキラと光るその一点をしばらく見つめた。それがあまりにも不動で、当たり前に動くこともなくて、私は言いようもない恐ろしさすら感じていた。
手が届きそうで、届かない、それ。
数羽の水鳥がパサパサと羽の音を聴かせて飛び立つ。潮風が髪をゆっくりと揺らす。
防波堤に腰かけながら、私は持っていたアイスの実の袋を開けて頬張った。足元に浮かぶ小さな漁船「さくら丸」。ロープやブイのようなものが乱雑に放り込まれている。小さい頃よく友達と一緒に乗せてもらった。手を繋いで、握りしめていたカラス貝の欠片。雪が降っていた。
久しぶりに食べたアイスの実はびっくりするほど美味しくて、冷たい。
「この先海」と書かれた、黄色と黒の市松模様の看板を見上げる。海の入り口に魅せられて、猫は本来の目的を忘れてしまった。海で育った身なのに、夜の港がこんなにも綺麗だなんて今日まで知らなかった。真っ黒で、ぜんぶを吸い込んでしまいそうな勢いなのに光だけは器用に水面に乗せて浮かばせるんだね。
海を作ったことがあった。映像に興味があった頃、CG作成ソフトで作った最初の作品が海だった。YouTubeの解説動画を参考に見よう見まねでモデリングしたそれは、なんだかあまりにもチープで、波も綺麗に立たないし、質感も異様にテカテカとしていて私が知っている海とは程遠かった。その偽物の海が、今目の前に広がる波ひとつ立たない真っ黒な港の海とそっくりだった。街灯と月の光を反射して揺らめくそれがパソコン上で見た不器用な波と重なる。私は嬉しくなった。
スタージョン・ムーン。ほんのりオレンジ色をした明るい八月の満月。
月の光が少しだけ眩しい時、それは太陽の光を反射させているものだから、ちょっとだけ宇宙を感じられて好きだった。宇宙の光が目の前の水面に映って、揺れて、私だけがそれを見ている。八分前の宇宙の光。なんだか楽しくなって、そしてなぜか眠たくて、私は再び桟橋の方まで歩いてみた。
そこは小さな舞台だった。背の高い一本の街灯だけが立つ、物語のラストシーン。
きっとここは誰かの告白の舞台なんだ。たった一つの灯りの下で、遠くの島の街灯は綺麗な夜景で、周囲に浮かぶ沢山の船は観客だ。プロポーズが成功したら打ち上げ花火が上がる。
私はこの場所であなたに振られたかった。電話でお互いの目も見ずにひと言付き合えない、ってどんなメロドラマよりもつまらない。
もうわけ分かんないよって呟いた。たった二十分だけ歩いて見えた景色がこんなに美しかっただなんて信じたくなかった。コンクリートで摩ったふくらはぎに白い痕がつく。街灯がちかちかと点滅をして、少しだけ目眩がした。
いつかの春、ここで何人かの友人と花火をしたのだけれど。誰とやったっけな。飛び散る火花と煙に隠れて、みんなの顔が思い出せない。
地域の祭の打ち上げで、みんなでカレーを作って食べて、それから港で花火をして、まだ春先の寒い頃で、ひとしきり遊んだ後に先輩の車の中で暖をとった、毛布。やっぱり上手く思い出せない。
記憶の中の喧騒が今日の静けさをより一層際立たせる。最近、上手く思い出せないことが増えてしまった。
私の視界を過ぎ去る情報の数が、とうにキャパシティを超えてしまって、疲れて、最期に求めたのが海だったのだ。
みんなみんな、馬鹿にしてしまうつもりで来た。私だけが静かな波止場で光を見て、目まぐるしく変わる景色に疲弊するみんなを見下しちゃえと思った。
けれど私が今見ているのはただの自然現象で、朝になったら漁師が生活を始めるだけの、ただの港だった。猫は怖気づいて飛び込んだりはしない。
私は彼らを馬鹿には出来なかった。
一隻、二隻、三隻。白く尖ったアンテナが月に向かって伸びている。なんの神秘でも物語でもないただの生活。私だけが見ている夜の光だけが特別で、誇らしく、静かな水の音が心地よい。
砂利を蹴ったスニーカーの汚れが少しだけ気になった。
全てがどうでもよくなったわけではなかった。眠りに落ちるまでの苦しい時間も、どうにもならない過去も、終わらない日常も、まだ確かに自分の中にあって、やっぱり消えることはない。苦しさは真っ黒な海にも溶けず、白い光でも蒸発しない。
ただそこに光があるという事実だけあればよかった。この光が今私の目の前にあって、静かに波に揺られている、それだけでよかった。
どれくらいの時間ここで佇んでいたのだろう。空になったアイスの実の袋が手をベタつかせる。秋風に揺れる髪の毛はもう十分潮の香りを吸い込んだはずだ。何か大きなものを求めて海へ来たのに、私は呆気なく満足してしまった。安い奴。
私が再び立ち上がった時、猫が、Tシャツの上で凛々しい顔をしていた猫がひょいと飛び出して桟橋から降りて行った。船を伝って夜の波に消えてしまった。窮屈だったね。ずっと、窮屈さを感じて生きてきた。
どれだけ頑張って泳いでも向こう側の島にはたどり着かなくて、どれだけ頑張って生きていてもこの町からは出られなかった。月はここに留まってしまった。
この町が嫌いだ。愛されていることに無自覚で、のうのうと生きてしまえるこの町に嫌気がさしていた。救われるんだとしたらもっと遠い、どこか知らない街だと思っていた。
近い未来に津波が来て、この一帯が水に沈むということがやっぱり信じられない。きっと津波は来るんだろう。船も、家もぜんぶ流されてしまうんだろう。
上手く想像が出来なくて、少しだけ息が苦しくなる。その苦しさに希望が混じっていることだけを自覚している。私はまだ生きなければならない。
背後でさわさわと音を立てる柳を捉えて、帰らなければと思った。夜はもう少し続く。野良猫の散歩は気まぐれに終わるのだ。足取りは来た時とたいして変わらなかった。
南にずっと歩くと浜がある。もっと歩くと灯台がある。私はまだ、そこまでたどり着くことが出来ない。
2024.8.21
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?