#012-1 「駈込み訴え」/太宰治 読書ノート①〜大人になると,「宗教」もやっぱり知りたい


Lectioのゆるい純文学・古典・教養書の読書会にて先日,太宰治の「駈込み訴え」を読みました.読書ノートとして感想や考えたことを備忘録的に書きたいと思います.

この短編小説を選書したのは,その前の読書会で読んだ「ヴィヨンの妻」の作中の「神」という言葉を考えているうちに,太宰治にとっての「神」とか信仰ってどういうものなのか,考えたくなったからです.そこで思い出したのが,学生時代に読んだ記憶のある短編小説「駈込み訴え」でした.

「駈込み訴え」は新約聖書を題材にしています.イエスが弟子のユダに裏切られて,役人に居場所をリークされる形で売られます.結果的にイエスは逮捕され十字架にかけられ処刑されてしまう.そのエピソードを素材にして,ユダがまさに役人に訴えかける場面を一人称の語りで描いた小説です.

小説の冒頭はこのように始まります.

申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

「駈込み訴え」太宰治 より

ユダがまさに,師であるイエスを売ろうと役人(旦那さま)の所へ駈け込んだ「今」から始まります.非常に臨場感がありますし,演劇的です.落語みたいな語りのリズムも感じられて,とっても読んでいて面白いです.めちゃくちゃ引き込まれます.太宰治ってホント文章上手いなと唸ってしまう.

大人になると,「宗教」もやっぱり知りたい

それだけでも凄く鮮明な印象を与える小説ですが,僕は学生時代に題材となっている聖書の知識なしで読んでいました.別に聖書のことが分からなくても面白いのですが,今回は太宰における「神」はどんなものか考えたいと思い,少しだけ予習をしました.

非常に個人的な話なのですが,僕が学生になる前には地下鉄サリン事件などの宗教から生まれた過激な社会的事件がありました.その影響もあって,僕の周りではキリスト教でも仏教でもヨガでも何でも,宗教的なものは少し怖いというイメージがついていたように思います.

もちろん,家の出自によって元々何かしらの信仰の文化を持っている人はその影響を受けるのが自然ですし,そういう学生もいました.また時代の流れでいわゆる新興宗教と呼ばれる団体の活動も隆盛していて,新しくそういった活動に入っていく人たちもいました.

その中であくまで僕の場合は,人文系の学部に通って文学を学び,独学的に心理学とか哲学とか現代思想などの本を読んでいました.その時には(今思えば),いわゆる「近代的理性」というものを信奉していたように思います.

近代以降に生まれた啓蒙思想とか近代的理性とか自我とかの系譜に乗っかって,人間とか社会を理性的に認識したい,そのために勉強をしたいと思っていました.

そういう視点から見ると,神様とか宗教の領域は「物語」の一つだと思っていました.前近代的な時代に共有されていた,大きな物語に過ぎないと.それは近代以降,一旦終わったので,これからはデカルト以降の自我意識とか理性とか合理性とか,フロイト以降の無意識の発見や,ニーチェが「神は死んだ」と宣言したような哲学や現代思想によって置き換えられるのが当然だと思っていました.

なぜ,「思っていた」という過去形なのか,なのですが.それが要するに浅はかだったからです.近代的理性は大事ですしロジカルシンキングも超絶大事だと思っています.むしろ基本軸は今でも変わらない.でも今,社会人になって改めて西洋哲学や歴史を読み直すと,西洋哲学がいかにキリスト教の文化や構造と切っても切れない関係性の中にあるかが見えてくるのです.(専門家の人にとっては何を今更とお思いでしょう)

純粋に歴史や社会,文化人類学的な理解の上でも宗教の理解が欠かせないなと思うようになってきました.またそれだけではなく,一人の人間として長く生きていると徐々に生身の感覚として蓄積していくものがあります.一個の実存主義的な存在として自分だけの固有の物語なり現象なり心性なりが熟成されていくのを感じます.

大学を卒業して,社会人になり,人文知の独学の代わりに自己啓発書とビジネス本を読んで,残業をしたり,サラリーマン的なあれかこれかにもまれて行くうちに,僕も一個の社会人になりました.学生でもなく一市民になりました.ビールを飲み過ぎると体脂肪がどんどん増えていく身体性を獲得するようになりました.学生の時は,自分の身体なんて「透明な何か」くらいに思っていたのに…

何が言いたいかというと,大人になって次第に現実生活上の辛さや面倒くささ,身体的な限界や,「娑婆苦」のようなものを実感するにつれて,坐禅をしたり,神や自然や人間とは何かを考えたりするのにも何か意味があるんだろうなと思うようになってきました.

高校生くらいから文学作品を読み始めるようになった昔の自分に言ってあげたい部分です.「お前が興味持ち始めているソレ(文学とか)だけど,一生もののテーマだからな」と.

資本主義社会の中で生存するのも大変だけど,同時に精神的世界の中で健康を保ちつつ100年生きるのも大変なことです.まあそのためのリベラルアーツかなと思います.

素人の全く個人的な感覚ですが,生きがいとか自由とか幸福感は,結局自分の自我との関係の仕方で決まるんじゃないかと思ったりします.それをひっくり返せば,他者との関係の仕方と言っても同じことです.

宗教もそこに関わるんじゃないのかな.文学も哲学も,日常生活や仕事の良し悪しも,煎じつめて考えると「自我」との関係の仕方ですね.当たり前みたいなことかも知れませんが,年齢を重ねて自然に分かるようになってきた.

資本主義や経済の言葉は,市場価値とか交換価値とか,消費とか生産性とかマーケティングとか売り上げとか利益とか投資とか色々ですが,「自我」というミクロなことの解像度が雑ですし,そもそも対象としていない感じがします.

科学とか物理学とかは実験して計算して物作りに繋げるのは得意ですけれど,「自我」は苦手ですね.脳神経科学とかで何とか頑張りますけど,ちょっと意識の解明には距離があるのかなと.

「自我」はやはり人文だなと思います.どうやって近づくのかというと意識を意識することしかないと思います.坐禅とか身体を使ってもいいし,言語を使って哲学するのも良い,物語ることで文学するのも良いし,神話的物語と儀礼と戒律を使って信仰してもいい.昔からずっと続いている道です.かなりの田舎道ですが味わい深く時に楽しい道として文学,哲学,宗教があるんだなと思います.

キリスト教の予習のために読んだ一冊が,『視点という教養(リベラルアーツ) 世界の見方が変わる7つの対話』/深井龍之介,野村高文(著)でした.

こちらの本はめちゃくちゃ面白いのでオススメですが,特に今回「chapter.06 宗教学:キリスト教が、世界を変えた理由 ×橋爪大三郎」の章がキリスト教を知る上で参考になりました.

橋爪大三郎先生が説明する「日本人が理解しづらい、神と人間の関係」についての以下の引用部分を読んで目から鱗が落ちました.

一神教とは、神に頭を下げることです。日本人は抵抗を感じる人も多いんだけど、それは一神教のキモをわかっていないからだな。一神教が神に頭を下げるのは、人に頭を下げないためなんです。
イエスの時代は奴隷社会でした。奴隷は主人に、庶民は権力者に頭を下げる。そんな社会で生まれたのが、「頭を下げるべきなのは神だけで、それ以外の人には下げなくていい」という一神教です。つまり、神様の前ではみんな平等なんです。これは人格の独立、自尊心の源泉になる。
神様は、人間一人ひとりを価値のあるものとして別々に造りました。ジョンがいるからリチャードはいなくていいということはない。メアリーよりエリザベスのほうが偉いなど、人間世界の論理は一切通用しません。
これは、弱い者や自分に自信のない者、虐げられている者には大きな救いになるでしょう?生きる理由が一人ひとりに与えられる。ひどい社会だったから、このようなやり方が必要だったんです。
一方、日本には一神教の神様がいないでしょう?すると人は、時と場合に応じて人に頭を下げなきゃいけない。空気を読まなきゃいけないんです。イエスは空気を読んでいましたか?

深井龍之介,野村高文『視点という教養(リベラルアーツ)』より引用

これ読んだ時,なるほど!って思いました.

「一神教が神に頭を下げるのは、人に頭を下げないためなんです。」

「日本には一神教の神様がいないでしょう?すると人は、時と場合に応じて人に頭を下げなきゃいけない。空気を読まなきゃいけないんです。」

これすごく本質的な違いだと思います.後者の日本の文化はつまり「世間」教みたいなものですね.空気を読む.人の顔色をうかがう.出る杭は打たれるので出ちゃいけない.立派な人になるとは世間にとって分かりやすい評価を得ることです.

それに対してキリスト教を含む一神教の文化が,神との対話や関係性を第一にして,むしろそれ以外を度外視するくらいのマインドなんだと初めて理解しました.もちろんキリスト教文化圏に住む人々がみんな厳格に神との対話を実現しているのかというのは僕には分かりません.ただ一般的な理念としてそれがあるというのは,日本に住む自分にとって特異なことに感じるのは確かです.

むしろ,この一神教の神の文明のことを知ることで,僕は逆に日本的な「世間」や八百万の神々を感じるアニミズム的な風土の方をより深く意識できるようになった気がします.これはこれですごいことかも知れないと思います.そして何よりこのことは令和の現代においてもなお変わらずあるんだなあと,思うのです.

皆様も,自分や自分の身の回りをよくよく観察してみてください.
あなたは何かに悩み迷う時,その答えを見出すのに内なる「神」との対話で,そこに「義」を見出すことで解決しますか.それとも世間からどう見られるか,どう在るべきかの空気を読んで自分の挙動を選んでいませんか.

SNSなどで誰かから「いいね」やフォローをもらう時の嬉しさというのは,抽象的な「世間」からの承認を得たいということではないか.世間からの承認などなくっても,内なる「神」さま,たった一人から承認されれば良い,という考えを思い浮かべますか?

このような自問自答をして,いい感じでキリスト教の予習ができました.文学作品の読みは自由です.そして能動的に自分が求めれば求めるほど,意味が与えられます.自分にとっての「駈込み訴え」という作品がより一層立体的に立ち上がってくるようになったと思います.

続きはまた!





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