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📄市政報告171号 - 四條畷の約120年前(手彩色絵葉書より、和田賢秀の墓) -

今月号は記事が2つ+4コマ漫画。その中から1つを報告します。

しでうなはて今昔④

今月号も所有する絵葉書を掲載します。今回は「和田賢秀の墓」です。絵葉書の作成された年代は、167号同様に宛名面からの推定としました。その内容を記した167号は、以下よりご確認下さい。

絵葉書の年代は、絵葉書宛名面に通信欄が無いことから、明治33年(1900)2月 〜 昭和39年(1906)と推定。

絵葉書表面
絵葉書裏面

下画像が、約120年 経過した現在の状況です。 道路が整備されバス停も 設置される等、環境は大 きく変わりました。

・手彩色絵葉書について

今回の絵葉書は今までと違い、手彩色絵葉書と言い、カラー写真ではありません。 手彩色絵葉書については、ウィキペディアより下記に引用します。

18世紀から20世紀初期にかけて(日本では戦前において)、風景・人物・文化・その他事象の写真を撮り、これを白黒印刷したものに手作業(通常、家内制手工業)で彩色した上で絵葉書の形式に仕上げたものを言う。
彩色は全て手作業であるため、厳密には全ての手彩色絵葉書は色が異なる。また、 見た目にも一枚ごとに色が異なっている場合が多い。

和田賢秀の墓については、本市HPに詳しく書かれていますので全文を引用します。

南北朝時代の武将楠正行(くすのきまさつら)の家臣和田賢秀(わだけんしゅう)の墓所で、 賢秀討ち死の地と伝えられています。賢秀は勇将として知られていました。
正平三年(1348 年)の四條畷の戦いの際、正行が討ち死した後も一人で敵将高師直(こうのもろなお)の首を討とうとしましたが果たせず、敵に首をはねられました。地 元ではこの首が敵の喉に、あるいは鎧に噛みついて離れなかったと言われています。
あるとき地元の人が歯痛で苦しんだ折にこの賢秀の墓所で祈願したところ治ったこ とから、賢秀は「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受け今日に至っています。 墓所には天保二年(1831 年)につくられた位牌型の墓石が建立されています。

・戦前の駅名表記

戦前の四條畷駅名標イメージ図
(長畑作成)

上のイメージ図「しでうなはて」の漢字が間違えているのでは、との指摘を受けましたので説明をします。
イメージ図は、四條畷市立歴史民俗資料館の作成した第37回特別展の冊子を参考にしました。その表紙の裏側に「戦前の四條畷駅名標 昭和13年ごろ 大阪府立四條畷高等学校提供」と注釈のある写真が掲載されており、それを元としています。
そして、漢字表記についてはウィキペディアより下記に引用しますが、当初は「條」が使われていました。

駅名は元は市名の表記と同様に「四條畷」であったが、のちに現在の常用漢字に当たる当用漢字を用いた「四条畷」に改められた。

市政報告の画像

データ

PDFのリンクです。上記画像がダウンロード出来ます。

http://nagahata.jp/pdf/Vol171.pdf


<了>

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