「できる」人の秘密
世の中には「できる」人がたくさんいる。このような人たちは、新しい課題を与えられても難なくクリアしてしまったり、要領よくこなしてしまうので、とてもうらやましいものだ。
しかし、彼らも初めから「できる」人だったはずはない。
親の援助がなければ、自分のしたいことも思うようにできない赤ん坊であった時代が、人には必ず存在する。みんなスタートは同じだったはずなのである。(なお、能力は遺伝子で決まる、という議論は、世の中があまりにつまらなく見えてしまうため、筆者は信じないようにしている)
では、なぜ「できる」人と「できない」人の違いが生まれるのか?
それは、「できる」人は「できない」人よりも多くの努力、場合によっては血のにじむような努力を、これまでの人生のどこかのタイミングでしているからである。
彼らは幼い頃から、親や周りの環境などの影響により、努力をしてきている。しかしその努力を誇るでもないのは、彼らの生活の中でその努力をすることが「当たり前」で、習慣のようになっていたからだろう。本人は力を入れて努力をしていたという記憶はない。それは生活の一部だったからである。例えば、3歳の頃から親の影響で英語を教えられていたとしたら、英語を勉強することは習慣化され、生活の一部となり得るだろう。
したがって、「できる」人たちが、今までに自覚なしの努力で積み重ねた能力を発揮し、難なく課題をこなしてしまい、「できない」人たちは「できる」人たちの過去を窺い知ることはできないから、驚くのである。「こいつは元の頭の作りが良いのか?」といった具合に。
まとめると、「できる」人は大して労力や努力をかけずに課題をこなしているように見えるが、実はそこでかけるはずだった労力や努力を過去のあるタイミングである程度積み重ねているために、現在で大きな労力や努力を要しないのだ。決して全く努力しなくても「できる」わけではない。
無論、私は自分を「できない」人たち側と認識している。(笑)しかし、自分では「できない」人だと思っていても、他の誰かから見れば「できる」人に見えるような能力を持っているかもしれない。また、なによりも、「できない」人たちというのは、「これから成長が楽しみなひとたち」でもある。可能性は多分に秘められているのである。この可能性を信じ、腐らず、自分の能力を磨いていく。そうしていると、いつの日か「できる」人になっているかもしれないのだ。
「できない」人たちの未来は明るい。