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読書の記録・2月後半

定期化してきた読書の記録。2月後半から3/6まで。

サロメ、フェルマーの最終定理は前回の5冊に関連して。

※内容に踏み込んでいるためネタバレを含みます。

サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇/オスカー・ワイルド

戯曲。サロメ、ウィンダミア卿夫人の扇、まじめが一番の三作収録。

時代背景と戯曲の形式に馴染めず展開に追いつけなかった部分があった(読解力のなさ...(;´・ω・))。

サロメは原田マハのサロメで読んだ通りで思っていたよりそれ以上の広がりがなかったなという印象。

他の二作は大団円とはこういうことか!と実感できる終わり方で、是非観劇してみたいと感じた。(観た方が理解しやすそうだから笑)

伏線をするする回収していくような、機転の利いた台詞の掛け合いが面白い。

ウィンダミア卿夫人)それを話すことは、もういちどすっかりそれを経験することだ。行為が人生の第一の悲劇で、ことばは第二の悲劇。ことばこそ、もしかしたら最悪の悲劇かもしれない。ことばは無慈悲だから― p. 179


マイノリティ・リポート/フィリップ・K・ディック

電気羊を書いたSF作家ディックの短編集。

表題作は未来予知により犯罪を未然に防ぐシステムに翻弄される人々を描いた疾走感のあるSFサスペンス。

ここでは『プレコグ』という存在が「誰がいつ誰を殺す」といった未来に起こる犯罪のシナリオをカードに出力という形で報告する。

しかしこの未来予知にはプレコグ個体により若干の違いがある。

この不確かさによる冤罪を回避するために3体のプレコグのうち2体で一致した「多数報告」に基づいた処置が取られる。

例えば2体のプレコグがある人物が1週間後に殺人を犯すと報告し(多数報告)、1体はこの人物は迷った末殺人を犯さないと予知する(少数報告)。

警察側は多数報告に基づき1週間以内にこの人物を逮捕してしまうことで犯罪を食い止めるのだ。


自分の名前が犯罪者として出力された主人公は「この報告は絶対に間違っている、なぜなら俺は誰も殺したいと思っていないからだ」と、このシステムのエラーを疑い始める。

犯罪予防システムの保守と主人公の保身の間で起こる葛藤。この一件によって主人公の中で多数派/少数派と分類していた報告への認識が変化していく。

作者はこのプレコグによる決定システムを通して多数派/少数派というわけかたに対する疑問を提起しているようだ。

「多数派の存在が論理的に意味するものは、それと対応する少数派の存在である」― p.37


COLORS/カスヤ ナガト

イラストレーターによる自伝的小説。

職業的創作で摩耗する日々を過ごす中で突然3原色の一つ「シアン」の色覚をなくしてしまう主人公。

色を取り戻す旅の中で、失われた色覚以上に、自分にとって大切なものを再発見していく。

彼が描く絵と同じように優しい小説だった。画集買おう。

ギタリストの誰々なんて、明日にはきっと、忘れているだろうけれど。好きなことについて語る誰かの口調は、ぼくの耳には心地よく響く。―p. 58


一瞬で大切なことを伝える技術/三谷宏治

簡単と紹介されていたのでまずはここからと手に取ったビジネス書。

『重要思考』=「重み」と「差」を意識することで正しく理解し、意志を伝達しあう。

曖昧でふわふわしたものを、ロジカル、は扱えません。(略)まずはふわふわを固めること。言いたいコトを「塊」と「つながり」に分けて、はっきりさせることで、相手と意志のキャッチボールができるようになるのです。― p. 33

いつでも必ずふわふわを固めようと決意したわけではない。多分今後も私は曖昧に任せて済ませてしまうことをやめないだろう。それでも、この言葉は忘れないようにしたい。

思考、伝達、受容とそれぞれ具体的なテクニックが紹介されていたが、その中でも特に心に残った二点だけ覚え書きしておきたい。

短冊を渡す感じで話す (p. 85)

絵画(図)を頭に思い浮かべて説明しようとする。すると、絵画は二次元的な広がりを持つので話の方向が定まらず伝わりにくくなってしまう。一つの主張を一枚の短冊に込めるようにして話すこと。

相手の大事なところで相手の他との差(卓越度合)を明確に示す(p. 180)

上級編で相手を褒めるときに大事なテクニック。私の言葉で誰かを紹介することがまたあれば、大きな武器になりそうだ。対象が重視している点を理解し、どれだけその点が優れているかを(定量的に)示す。これを意識するだけで単に「すき!」「すごい!」以上のことを他人に伝えることができるだろう。


フェルマーの最終定理/サイモン・シン 青木薫訳

x^n + y^n = z^n (n>2)

3以上の自然数nについて、上記の式を満たす自然数の組(x, y, z)は存在しない。すなわち、二乗よりも大きいべきの数を同じべきの二つの数の和で不可能である。

というのが、かの有名なフェルマーの最終定理である。

〈私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない〉- p. 118 数学書の片隅に残されたフェルマーのメモ

350年にも渡って未解決に残されたこの定理に挑んだ人々、そしてその証明成功に至るまでを描いたノンフィクション。

数学は厳格さを求める学問だ。この解が存在しないといわれ、そして実際に試行してそれぞれの、考えるのも億劫になるほど大きな自然数nで解が存在しない(つまりその定理が正しい)ことがわかっても、それでは不十分なのだ。何故なら自然数は無限に存在するからだ。

定理が正しいことを示す「個々のケース」がいくつ見つかっても、論理で埋めた証明がなければその次の数でも同じことがいえるかどうかはわからない。

例えば、

31, 331, 3331, 33331, 333331, 3333331, 33333331は素数だという。

しかし、規則に則って次にくる自然数333333331は17と19607843を因数に持つ合成数だ。

数学において経験的に想像できることは意味をもたないことの例である。

余談

対して化学や生物学といった実体を扱う学問では、ある仮説があれば、それを証明するための実験が行われ、結果によってその仮説の真偽が明らかにされる。もしその仮説が正しくなければ、新たな仮説が取って代わる。

どうやら、生物の子は親(祖先)の持つ形質を受け継ぐらしい。では、これを伝えている物質は何だろう。細胞の組成として多いのはタンパク質だ。
【仮説】タンパク質こそが、子孫に形質を伝える遺伝子の本体ではないだろうか。

対して、タンパク質、核酸の一方のみを除去する実験の結果、核酸を除去したケースでは形質が伝えられなくなったことがわかった。

【仮説】遺伝子の本体は核酸(DNA)だ。

誰でも繰り返し行うことができ、同様の結果が得られるような再現性の高い実験系、あるいは他の方法だが同じ事実を表すような実験系の組み立てにより、仮説の正しさが裏打ちされていく。

仮説、実証の繰り返しによって人類の知恵は進歩するのだ。


また、これらの学問ではこの化合物ではこうらしい、とかこの生物群ではこうらしい、という個々のケースの発見が意味をなす。

微生物で起きている現象が同様にヒトで起きているかもしれない。起きないかもしれない。

もしヒトと微生物で同じ現象が起きないとしても、場合によってはある環境下のでヒトでは同じことが起き、別の環境下では起きないとしても、それは矛盾しない新たな事実である。

むしろ手探りで未開の分野を説明する新たなケースを探していくことこそ、これらの学問の在り方なのかもしれない。

さて、数学の話に戻る。

先に述べたとおり厳格な学問である数学の知見を支えるのは経験ではなく、論理だ。

中学校・高等学校での覚えがあるように数学では文字を置き一般化されたような証明が定理を表す。

一行ごと追って、こうであるならば、次はこうなるはずだ、という論理的な道標が(新たな)発見を支えていく。

そして一度証明された定理は永遠に人類共通の知見として利用可能になる。

論理で固められた証明により導かれた定理に対して33331の素数の例のように、個々のケースから正しいと類推される事象は予想と呼ばれる。

ある予想に対しこの予想が成り立つならばこのことも言えるだろう、という定理が導かれある分野が発展する場合もあるが、あくまで砂上の楼閣に過ぎない。

予想の反例が一つ見つかってしまえばその上に積み上げられたものは全て一瞬にして崩れ落ちてしまう。

先の余談で上げたように、他の学問において一つ一つの実験で示された個々のケースはそれ自体の意味を失わない場合もあるが、数学では予想が反証されたらそれに際し挙げられた個々のケース自体が無意味に帰する場合が多い。

正確にいえば、フェルマーの最終定理はフェルマー自身の頭の中には驚くべき証明があったということだが、それが他人に示されても検証されてもいなかったため、フェルマーの最終予想とでも呼ばれるべきだった。

しかし、数学者フェルマーという存在の偉大さとこの未解決問題の特殊性から、証明が完成される前から定理と呼ばれていたのだという。

数学という学問体系の発展について初めて知り、その面白さがほんの少しだけわかった。

この定理を証明するために何人もの数学者たちがこの難問に挑み続けてきた。

過去の数学者たちによって明らかにされてきた定理と自身の論理的思考力を武器にして、アプローチしていくのだ。

どんな切り口で、どのように問題を細分化するのか。持ちうる武器をどう拡張、適応するのか。

先人たちが明らかにしてきた数学の基礎を深く理解していない限りその武器を応用して他に活かすことはできない。

基礎と応用とは知識と発想のこと。ここに私は自分の持たない数学的センスの正体を見た気がする。


フェルマーの最終定理の証明に成功したワイルズ博士は、この問題に本格的に取り組み始める際、他人との関わりを絶った隠遁生活を選んだのだという。

数学者は、Tea breakに盛んな意見交換を行って思考を刺激し合う。そんな中で、一人徹底的に武器を磨いていくというのは異端のアプローチだった。

「大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。(略)新しいアイディアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向わなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです」―p. 323 ワイルズ博士の言葉

幼少期の出会いについて、年単位の時間をかけて学んだ武器について、ぶつかった壁について、また他人との交流を再開し、知識を強化させ、ついには証明を完成させた瞬間について。

世紀を超えた偉業が成し遂げられるまでのプロセスを読んでなぞることは誰かの人生、熱情に触れる面白さがあった。

「フェルマーの最終定理ほどの問題には、もう出会えないでしょう。これは子供のころに抱いた情熱なのです。代わりになるものなどありません」―p. 461
「大人になってからも子供のときからの夢を追い続けることができたのは、非常に恵まれたいたと思います。これがめったにない幸運だということは分かっています。
(中略)
八年間というもの、私の頭はこの問題のことで頭がいっぱいでした―文字どおり朝から晩まで、このことばかり考えていましたから。」―p. 461

数学的知識は一切要さない(あった方が深く楽しめるだろうが、数学が不得意な私でも多いに楽しめた)書籍なので、興味を持たれた方には是非お勧めしたい。


あとがき

文字量からお察しの通りかもしれないが、私は『フェルマーの最終定理』に深く感銘を受けた。

しかし、話が散逸して感じたことを上手く書ききることができなかったのでいつかまたじっくり時間をかけて言語化に励みたいものだ。

(ばらばらと書いてしまい何も伝わらない文章となってしまった反省はあるが、書き直す気力が今はない。)

今年に入ってからは図書館で借りた本が手元にある状態が続いていたが、フェルマーの最終定理を返却して、現在は何も抱えていない。

代わりにビジネス書の購入品があるのでゆっくり丁寧に読もうかなと思っている。

卒研に向けても少しずつ動かなければならないので読書のペースは落ちそうだが、読書の習慣がなくならないようにしたいものだ。

最後に、今回のサムネイルはマイノリティ・リポートという楽曲が収録されたDr.Izzyというアルバムを想起して拝借した。

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