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海のまちに暮らす vol.25|最南の風、それから本のこと

〈前回までのあらすじ〉
バナナをのせた遠泳のような6月と、花が恐ろしい7月のスケッチなどです。朝晩に散歩がしたいと昼に想う。


旅の手記


僕ら人間について、大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。
サン・テグジュペリ『人間の土地』


 南伊豆で左官をやっている人に会って、その人が淹れてくれたお茶を飲んだ。家のそばに生えていたドクダミとセージなんかを煎じているらしい。長いこと電気のない暮らしをしていて、電子レンジも冷蔵庫も置いていない。「なければないで暮らせるもんだよ」と彼は言う。代わりに古い造りの囲炉裏が一つあって、たいていの煮炊きはそこでやる。山の裏手に廃棄された杉材を拾い(林に入って少しばかり木を失敬することもある)、何日かぶんの薪にする。昔はどの家もこぞって子供に薪を拾わせていたので、山はいつも寒々しく丸裸だったけれど、最近は誰も薪なんて拾わない。だから自分が使うだけの量なら案外楽に確保できる。「競合がいないってこと」らしい。

 六角形の黒い湯呑みに視線を落とす。注がれた自家製茶は夏草のような明るい緑色で、口に含むとほのかに甘く、気怠いような感じがある。その後すぐ健康的な苦味がやってきて、緩んだ舌をピシャリとやって喉の奥に消えてゆく。甘みと苦味の両方が、互いに繊細な綱を引き合っているような不思議なバランス。「ドクダミは浅煎りしたほうがうまいよ」と言いながら、彼はもう一杯ぶんのお茶を注いでくれる。結局そのまま3杯飲んだ。

 翌日。伊豆半島の最南にあるヒリゾ浜へ行った。圧倒的な自然のあるところです。高台に立って、半島に到達する風を一身に受けていると、ずいぶん遠くまできたような気がする。もっとも地図の上では大した移動じゃないのだけれど、縮尺とか経度とか、そういう数科学的なものさしの上ではないところで、僕はずいぶん遠いところまで移動したような気がしている。普段からぴたりとくっついた心を自宅へ置き、身体をうまく引き離して、うんと遠くまで自分自身を持ってゆくことができた気がする。高台の岸壁から身を乗り出して、今ここから落ちたら死ぬかしらと思う。たぶん死んでしまうだろうと思う。喫茶室の床へ落ちた淡い角砂糖のように粉々になるか、どこまでも青く沈んでいきそうな美しい海です。そう考えると全身の膜がきゅうと引き締まって、身体がちゃんと自分に付いていることがわかる(特段僕は今死にたいというわけでははないのですが)。そのまま健康的に移動をして家まで帰ってきた。

 今度の旅で覚えているのはそのようなことです。旅先で印象に残っている出来事は、いつも不完全で断片的な映像ばかりです。トマトクリームパスタを作るために鍋を火にかけて、炒めたニンニクをちょっと取り出してかじった時の味。その味しか覚えていないということが多々あります。出来上がったトマトクリームパスタの感想は出てこない。あまり重要ではないシーンが記憶として幅を利かせている。ただ、そういうつまみ食い的な味覚体験が料理をする人間に与えられた(ある種の)特権でもあるように、このひどく偏った旅の追想もそれほど悪いものではないのかもしれない。そう思うようになってきた。ならばいっそのこと、役に立たない旅先の記憶を集めて本を作ってしまうのはどうだろう──。僕が考える〈旅〉というものを、絵や言葉にして一度つかまえてみる。それを読んだ誰かがふらふらとどこかへ行ってしまいたくなる。そんなものを描きあらわしてみたいという気持ちになっています。それはまたどこかでお知らせします。話がだいぶ逸れてしまいました。外はまだ遠慮がちなセミだけが唄っている、暫定的な夏日です。


vol.26につづく

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