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海のまちに暮らす vol.24|花が怖い人、エンゼルフィッシュ

〈前回までのあらすじ〉
家に転がり込んできたアッシーと僕は生活を共にしている、外では雨が降り続いている。

 先月はひどく慌ただしくて、いくつかの仕事を抱えて必死に(依頼された)原稿を書き、制作をしていた。それはもう、小さなビート板に大量のバナナをのせて、「一つも落とすなよ!」と注意されながら沖合まで遠泳するような気分でした。おかげでこの連載も一回ぶん休んでしまったわけだけれど、そもそもあまり気負ってやる類のものではないので、僕個人としてはまあ仕方ないかなと考えている。でも出したい時におならを出せない生活ってなんだか窮屈ですよね。この日記・スケッチ的な文章群にしても、生活のガス抜きを兼ねた大切な習慣(おなら)なので、あんまり忙しくなって蓋をされると困ってしまう。

 知らないうちに最高気温は暴力的に上がっていて、いくら人間でもこれでは生きていけないよというような世の中になってしまった。やっぱり和室にはクーラーを入れようと思う。

 最近、文章を書く時の状態にいくつかの傾向があることに気がついた。一つは書きたいものが自分の中から滞りなく取り出せるパターンで、もう一つは取り出すのが苦しいというパターン(この連載は基本的に、前者の時間にポンと書き上げることにしている)。一方、後者の時は思いきって書くのをやめることにし、外をぶらぶらと歩くのが日課になった。散歩をするということですね。先日もゆっくり川沿いを歩いていたら、ひょんなところにヒマワリがすっと一人で立っているのを発見した。機会があればスマートフォンで〈ヒマワリ〉と画像を検索してみてほしいのですが、本当にいろいろな姿形をしたヒマワリの写真を眺めることができます。どのヒマワリをみても花びらの数や大きさがそれぞれ微妙に違っていて、花の中心が黒くないやつや、そもそも黄色でないものもある。植物学上はどれも一応ヒマワリであるらしいのだけれど、そのバリエーションといい、各々の個性の際立ち方にはそれなりに目を見張るものがある(と僕は思う)。

 そんな前置きを取り付けたうえで、その日みたヒマワリには何となく僕の心を打つものがあった。花の直径はそれほど大きくなく、中心部(筒状花というそうです、種ができるところ)は見事に黒々としている。大きく育ちすぎてくたびれた品種もあるが、この花は控えめなサイズに張りのあるマッス(masse/ 塊)をみなぎらせている。ゴボウのように太い茎はアルファベットの"I"の字を思わせるフォルムで、余分な肉付きもなく荒れた土から一直線に立ち上がっている。多くのヒマワリは株を連ねてにぎやかに群生しているのだけれど、このヒマワリは群れることもなくヨモギやカタバミといった力強い野草のコミュニティ・エリアに属していて、青々とした茂みから頭一つ抜けてひょっこり突き出した光景には不思議な違和感を覚える。それは視覚的な意外性というジャンルにおいて、ドジョウやメダカが泳ぐ水槽にエンゼルフィッシュが混じっているようなものかもしれない。

 ヒマワリの目線の高さ(花に目線というものがあるのかは知らないけれど)がちょうど僕と同じくらいだったこともあり、思わず目があってしまったような気持ちになって立ち止まる。知り合いに「花が怖い、いつも自分のことを見ているような気がするから」という人がいた。はじめそれを聞いた時は「そんなこともあるんだな」くらいに思っていたけれど、実際に野外で花と相対してみると開いた花弁はレーダーのようにこちらを伺っているような気がしないでもない。誰かに真剣に見つめられていると、その気配にはっとすることがあるように、花の視線には何かしら落ち着きを失わせるざわめきのようなものが含まれている気がする。あるいはそれは花自体が生物学的に昆虫を誘い込んだり、敵を惑わしたりするような機構を持ち合わせているからなのかもしれない。詳しいことは僕には何もわからない。

 けれどもやっぱり生きているのだから何があってもおかしくないのだろうなと思って、歩いて家まで戻ってきた。そのまま椅子に座ってこの原稿を書いています。他愛のない言葉のまとまりとして一つ文章を書き上げてしまうと、その後の作業へわりにスムーズに取りかかることができるような気がする。やることが多くて忙しい時ほど散歩をすると良いのかもしれない。ということを頭でわかってはいるのだけれど、なかなか体がいうことをきかない時ってあります。僕もそういうタイプの没頭型人間なのだけれど、これからはもっと気軽に外を歩いてみようと思う。日中は暑いから、朝か夕方に。


vol.25につづく


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