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海のまちに暮らす vol.22|メイン会場は8階です

〈前回までのあらすじ〉
畑で土にまみれていたら、サカナクション山口一郎さんが「20代は、影響受けるものを自分で決めない方がいい」と言っていたのを思い出した。

 正式な古本市というものにはじめて行った。何をもって正式と呼ぶのかという話になると、実は僕にもよくわからない部分があるのだけれど、一応定義づけるとしたら本の量とか規模によるのではないでしょうか。この日行ったのは所沢の駅前ホール(ビル?)で、それはもう陳列するとか展示するといった言い回しでは追いつかないほど暴力的な量があり、どれも比較的手に入りやすい価格でビシバシと売り捌かれていた。

 古本市の醍醐味はいくつかある。あなたはそこで既に絶版になったために通常手に入れることができない本に巡り合うかもしれないし、読みたかった本が思いがけず手に入ることもある。そして何より普通に生きていればまず面会することのない未知なる本と出会うことになる。戦前の立派な装丁の単行本から汚れた詩集、どこかの家庭でいらなくなった適当な文庫本だってあります。その森羅万象、有象無象が所狭しと並ぶ古本市では目当ての本を求めてジュンク堂とかに行くのとはちがって、そこにある海の物とも山の物とも知れぬ本のなかから自宅の本棚に迎え入れる数冊を選ぶことになる。その行為に生じる一種の不確実性・博打性かつバリアブルな要素が読書体験を思いもよらぬ方角へと導いてくれる。

 それからこれは僕個人の価値観の変容ということになるのだけれど、ある程度時間を蓄えて古くなったものに対して好意的な感情が生まれるようになってきた。紙が褪色しページの縁が焼けてきた本も趣味嗜好の範囲におさまるようになってきたらしい。幼い頃は使い古された物や汚れやシミ、いわゆる使用感のあるものや経年劣化したものに対しての生理的な拒否感がどうも強かったようなのだが、最近になってとらえ方が少し変わってきた。

 くわえて僕は気に入った本をあえて乱暴に扱い紙をくたびれさせ、手に馴染む質感にしようとする癖がある。別に乱暴に扱いたいというわけではない。おそらく新品の本が持ち合わせているぎくしゃくとした緊張を解きほぐして一刻も早く自分の身体に近づけたいからなのだと思う。その点、古本ははなから紙がくしゃくしゃしていて安心する。どうやら古本と僕とはすこぶる相性が良いみたいだ。

 到着してすぐ、「メイン会場は8階です!!」という大きすぎる貼り紙が視界に飛び込んでくる。指示に従って昨今あまり見ないタイプの古めかしさ漂うエレベーターに乗る。同行者のUさんはスマホでパシャパシャそれを撮っている。曇った窓ガラスからはライトグレーの四角い街並みがみえ、エレベーターはもったりとした速度で上昇する。気怠そうなリズムで扉があく。

 扉越しに目にしたのはかなり広い体育館か何かの式場のようなホールで、至る所に書架が並ぶ。四方の壁を取り囲むようにして本が詰まれ、重ねられ、はめ込まれている。こうして大量に集められた本の山を眺めていると、それらは読むためではなく、これから何かの建築資材として使用されるのではないかとさえ思えてくる。あまりに膨大な量のものの群れを目にすると、その集合が何か別のイメージとして奇妙な風にみえてきたりする。そういうことってわりによくありますよね。

 会場空間が広大なこともあって、よくあるバーゲンセールのような人だかりは見当たらない。ぽつりぽつりと本をみにきている客がまばらにいる程度。本当は端から順にゆっくりと古本をみてゆきたいのだけれど、あいにく僕はこの後仕事が控えていて1時間後に所沢を発つ電車に乗らなくてはならない。制限時間は60分。ぐずぐずしている暇はないから手際よく書架に目を通していく。焦ってはいけない。時間に追われているという切迫を醸し出してしまうと、その殺気を感じ取って良い本が身を隠してしまう。ほどよい脱力と余裕が肝心なのだ。イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルの格言「Cool head,but warm heart.(冷静な頭脳と温かい心)」を思い出す。これは案外応用のきく言葉かもしれない。僕が血眼になって館内を飛び回っているあいだ、Uさんは一つの書棚でじっくり本にかじりついている。その対比はせっかちなウサギと慎重なカメによる競争のようです。もちろん、館内を飛び回っているほうがウサギ。

 自分でも驚くべくスピードで本の背に目を走らせる。広大な古本市の会場で何か思い詰めたように切迫して買い物をする。どうしてこんなことをしているのか自分でもよくわからない。1つ言えるのは、手ぶらで帰るわけにはいかないということだ。僕はここへ来た以上、手ぶらで帰るわけにはいかないのだろう。60分がこんなに短く感じられたのは、ろくに勉強もせずに臨んだ高2の冬、物理の試験以来のことかもしれない(あの時は本当に本当に嫌な汗をかいた)。時間はある時は悠長に引き伸ばされ、またある時にはとんでもなく圧縮されてゴマ粒ほどの大きさになってしまう。僕は今ゴマ粒のほうの時間をすり減らしながら買い物をする。それでも本をみるのはやはり楽しい。

 結局、帰りの電車の出る4分前に会計が済んだ(まだ建物から出てもいないし、当然改札も通っていない!)。8階から緩慢なエレベーターに乗って地上まで戻り、大股でホームまで駆けていく。ガラガラの西武新宿行き電車のドアへ吸い込まれるようにして飛び込み、一番端の車両の一番端の席でペットボトルからお茶を飲んで、飲みすぎて息が止まるかと思った。なんでこんなに慌ただしいんだっけ? 

 ともあれだいたいの大変なものごとは過ぎ去れば忘れてしまう。喉元過ぎれば何とやら、である(仕事にもちゃんと間に合った)。いくぶん奇妙な楽しみ方ではあったけれど、古本市自体は満足のいく素晴らしいものだった。ただ古本を買いに行くだけなのに、なぜこれほどまでにベターな心持ちになれるのだろうか。帰りの電車でしばらくそのことについて考えていた。

 最終的に思い当たったのは、古本市では棚いっぱいに〈可能性〉が陳列されているということだった。古本の可能性。僕がそれを手に取り、家まで持ち帰り、眠る前に寝室のベッドに腰掛けて(あるいは寝っ転がって)それを開いて読む、という可能性。そこに書いてある文言に影響を受け、新たな価値基準・法則・感情に接続してしまう可能性。その可能性というものは本が古くなればなるほど怪しげな艶っぽいものとなり、固有の気品というのか、こちらの興味をかきたてる魅力的な香りをまといはじめる(実際、古本からは独特な匂いがする)。だから、古本市に行くと微妙な興奮状態に陥る。書棚をめぐり、本を手に取り、古びた背表紙や紙束から発せられるその可能性を浴びているだけで僕はけっこう幸せな気分になれるらしい。

 そういえば帰る時Uさんを置いてきてしまった。彼女は仏像の本を気に入って買いたそうにしていた。どうしてそんなに分厚い仏像の本が必要なのか僕にはわからないけれど、そもそも本を買うのに大した理由なんていらないんだった。また古本市には行きたいと思う。今度はもう少し時間にゆとりを持つことにして。


vol.23につづく




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