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海のまちに暮らす vol.10|すべての1日が力強く幕を開けるわけではない

〈前回までのあらすじ〉
住宅地の奥にあるモリザワ商店を訪れた僕は、美しい木製のチェアとチューリップ2輪、編みカゴを手に入れた。天気の良い1日だった。

 朝、まだ暗いうちに目が覚めた。昨日眠りについた時刻はそれほど早くなかった。にもかかわらず、ぱちりと目が覚めた。無機質なデジタルコンピューターが短時間で起動するみたいに。睡眠時間は十分とは言えないけれど、眠たいとは思わなかった。だから僕は活動をはじめることにした。そういう時は起きてしまったほうがいい。

 湯が沸くのを待つあいだに、雨戸を開ける。太陽は海の向こう側にいて、まだその姿を見せてはいない。けれど、その輪郭からほとばしる熱のようなものが、既に大気中にあふれている。春の朝だ。マットレスを窓から外に干しておく。日は出ていない。

 薄暗い部屋に戻って、パソコンを立ち上げる。この時刻の部屋に漂う淡い印象が、僕は好きだ。日がのぼる前、明かりのない室内に朝の光(それは直接の太陽の光ではない。朝の大気中にこれから広がろうとする頼りのない光の粒子みたいなものだ)が横向きに差し込む時間を愛している。薄暗い暗闇を薄暗い光が照らそうとする時間だ。それは空っぽの陶製の小瓶の中を、電池の切れかかった懐中電灯でぼんやりと照らしているような状態かもしれない。あるいは、単なる哀愁みたいなものかもしれない。いずれにしても、それは「さあ、これから元気いっぱい1日がはじまるぞ」というような、溌剌としたエナジーにあふれた予感ではない。夜の暗闇を吸い込んだ洞穴の入り口が徐々に薄紫の朝焼けに染められていくような、段階的なシーンの移り変わりだ。すべての1日が力強く幕を開けるわけではない。むしろ弱々しく開始される1日のほうに、僕はごく自然な親しみを持つことができる。

 食べられるものを適当に口に入れて、家を出る。おおみち通りという、町のメインストリートを海側へ少しいくと図書館がある。石造りの立派な外観をした町の図書館だ。僕はここで週に何度か働いている。

 真鶴へ移住する数ヶ月前に、たまたま町役場が図書館の求人を出しているのを見つけた。元々東京では生活費を稼ぐためにアルバイトをしていたし、ここ真鶴でも何か仕事を探そうと思っていた(月々の家賃を支払わなくてはならない)。できれば週2〜3日の勤務ぐらいで、黙々と穏やかに時間を使うことができ、負担にならない程度に他人とコミュニケーションの取れる仕事がよかった(こうして書かれたものをみると、いささかわがままな感じはする)。そして、図書館の仕事はまさにそれらの条件を余すことなく、ぴたりと満たしているような気がした。それに加えて、僕は本が好きなのだ。だから一も二もなく役場へ履歴書を提出して、その後の面接を受けた。図書館の求人はそうしょっちゅう出されるものではないらしく、採用にまでこぎつけることができたのは幸運なことだった。ちょうど欠けていたピースの隙間に、偶然通りかかった僕の身体が運良くハマったというわけだ。

 オート開閉のドアを開錠し、開館前の朝の図書館に足を踏み入れる。ブラインドシャッターを上げて館内の窓を開け放つ。窓からは家々の屋根の重なりが一望できた。ここは町の中でも比較的小高い場所にあるのだ。落ち着いた暖色系のオレンジや、くすんだ青色、草色、ベージュの色面が、傾斜に沿って規則正しく並べられている。どこかに不自然な隙間が空かないよう、誰かが慎重にパズルを配置したようにもみえる。どの屋根の色もビビッドな色彩ではないから、1つ1つを見ても特別心惹かれるわけではない。だけど、もっと大きなスケールでぼんやりと全体の景色を眺めると、そのなんともいえない色同士の重なりが素晴らしく均整のとれた調和を保っているように思えてくる。どの屋根も隣り合う屋根の存在に気をつかって、自らの色の具合を最適なトーンに調整しているようにみえるのだ。全体の景観の中で自分がどんな色であるべきかをしっかりとわきまえ、自覚しているかのように。あるいは絵描きが配色を吟味しながら絵の具を混ぜて、一手ずつキャンバスに色を置いていくみたいに。個として注目を集めるのではなく、あくまで集団の中で不用意に目立たぬように思慮深く佇んでいる。それはなんとなく僕に、模範的でステレオタイプな日本人の姿を思わせた(そのレッテル自体が美しいかどうかはここでは語らないけれど)。大きなマンションも背の高い建物も見当たらない。同じスケールの家の屋根同士が、運動会の全校整列のように遠くまでつづいている。そしてその景観のいちばん奥に、どこまでも広い海がまっすぐに青い水平線を引いていた。コンパクトな町のサイズ感に対して、その海は大きすぎるように思えた。〈近くにあるほど大きく、遠くにあるほど小さく見える〉というこの世界のルールを、1人だけ無視して横たわっている。

(※人は海の大きさについてはよく言及するけれど、空の大きさにはあまり触れない。どうしてだろう? いつだって空はもっとも広く頭上に覆いかぶさっているのに、その存在が語られることは少ない。あるいは空は余白のようなものかもしれない。人は海や山のように、そこに実在するものに興味を持つから、余白の大きさについては議論が進まないのかもしれない)

 事務室に入って湯を沸かし、プリンタを起動させる。ぶうん、という低いうなりをあげてプリンタが呼吸をはじめる。開けておいた窓から海風が吹き込んで、館内を駆け回っていく。棚いっぱいに並べられた本たちも、植物のように静かに呼吸しているような気がする。その息づかいのようなものを僕はかすかに感じとることができる。本は紙でできていて、紙の多くは植物の繊維でできている。本はいわば、植物の死骸を溶かして漉きあげた化石標本のようなものだ。呼吸をしていたっておかしくはない。そこかしこで鳥の声がする。朝の図書館は思いのほか生命への予感に満ちあふれているのだ。

 「のもとくんおはよう」
 司書のウメムラさんが9時過ぎに来て、その日の朝刊を取り分ける。僕はポストに返却された本の状態を確認して書架へ戻しにいく。本はだいたいジャンルごとにスペースが区切られていて、小説は作家名50音順に並べられている。「うちは小さな図書館だから」とウメムラさんは言っていたけど、それでもけっこうな量の本が置いてある。そしてこんなにも多くの作家が小説を書いている。知らない人の書いた知らない本がたくさんある。こうしてみると、僕はこれまでかなり限定された領域で読書活動に勤しんできたように思えてくる(実際のところそうなのだと思う)。僕はそれなりに本を読むけれど、比較的狭い範囲で読書の興味を広げていくタイプの人間だから、さまざまな本に囲まれた図書館での仕事はこれまでにない新鮮さがあるかもしれない。

 その日は新刊が何冊か届いたので、仕分けをしてコンピューターに登録した。カウンターで来館者の応対をし、合間に本の整理をする。以前までの利用客は平均80人ほど(1日あたり)だったが、今は40人前後に落ち着いているという。館内消毒を徹底してはいるものの、誰かが触ったかもしれない本を読むのは、少なからず抵抗があるのかもしれない。それでも毎日のように新聞を読みにくる人や、どっさり抱え込むように小説を借りていく人、学習席を使いにくる人、いわゆる常連の人たちがいる。だからこの図書館は今も静かに回り続けている。

 少なくとも僕にとっては、働くうえでこれ以上ない空間だった。風のない森林のように静かな館内には、ゆったりとした時間が流れていたし、そこで僕は好きなだけ本を眺めることができた。時々来館した客とカウンターで他愛のない話をすることもあった。
「この本ね、面白くてあっという間に読んじゃった。路上生活のことが書いてあってね、食べ物の話なんてもうすごいのよ」と教えてくれるご婦人もいれば、「こいつは何書いてんのかさっぱりわからねぇのよ、だから半分も読まずに返しにきた」と豪快に笑う男の人もいた。いろいろな年代の人(そのほとんどは二回り以上も歳が上だったが)がいろいろな本を借りていき、読み終わって返しにくる。その新陳代謝のような循環をじっと見守るのが僕の役目だった。どんな本が面白いのか、どんな本がつまらないのかを彼らから聞かされることも度々あった。そうやって僕は知らない本を知り、結果として、これまで刺激されることのなかった分野にまつわる興味の裾野を存分に広げていくことになった。また、昼の休憩時間には本を読むこともできた。書架まで歩いて目についた適当な本を取ってバックヤードに戻り、静かにページをめくったりした。気に入った本はそのまま借りて、家に帰ってからつづきを読んだ。読み終えた本は次に出勤するとき返せばいい。僕は図書館で働きながら、図書館の積極的な利用者の一人になっていた。

 昼過ぎにミカンの差し入れがあった。近くに住む人が、本を返しにくるついでに家で採れたのを持ってきてくれたのだ。ソフトボールくらいの大きさの張りのあるミカンがビニール袋に入れられて、事務室の机にゴロゴロと置いてある。退勤後、そのずっしりと確かな重みのある袋を下げて家まで帰った。袋の口に鼻を近づけると、昼間の太陽の匂いがした。おおみち通りを抜けると目の前に真鶴駅の駅舎がみえてくる。その後ろには箱根へとつづく遥かな山並み。頭上に覆いかぶさる空は燃えるように激しい桃色に塗りたくられて、そのままこちらに落っこちてきそうだ。あまりに美しい夕焼けを目にすると僕はにわかに恐ろしくなる。

 もらったミカンはモリザワ商店で手に入れたカゴ(vol.9)に入れてみた。なかなかしっくりきている。家に着いて台所で米を研いでいるあいだに、あたりはもうすっかり暗くなっていた。炊飯の合間にウエイトトレーニングをする。とはいっても、自分の体重の負荷で行うことができるサーキット・トレーニングのようなものを何周かこなすだけだ。腕立て伏せ、シットアップ、スクワット。それからゴムチューブを使ったいくつかのメニュー。それらを決められた回数だけ食事の前にやり終える。独房に入れられた囚人みたいに熱心に、忠実に、淡々とこなす(これは数少ない僕の習慣になっている)。汗が吹き出し、炊飯器が間の抜けた通知音を鳴らす。僕は席につき、破壊された筋繊維を修繕するための栄養の摂取をはじめる(食事をする)。風呂に入り、ストレッチをし、本を読んで眠る。このようにして、僕の生活は緩やかにフェードアウトしていく。明かりをおとして、翌朝までの一時的な暗闇の中に身を横たえる。そして当たり前のように意識を失っていく。映画のシーンが次へと切り替わるみたいに。


vol.11につづく





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