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映画評 あの夏のルカ🇺🇸

(C)2021 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

2021年、パンデミックによって劇場公開が見送られ、ディズニープラスにて配信スルーされていた本作が、『インサイド・ヘッド 2』公開に先立ち、2週間限定で劇場公開が実現。楽しめる要素は多いが、マクガフィンの甘さと現実から離れすぎた理想には一言言いたくなる内容であった。

冒頭、人間とシー・モンスターが、それぞれ互いに恐れ合っていることが示されるシーンは、フランシス・ベーコンが提唱する思い込みを紐解く四つのイドラのうちの一つ「種族のイドラ」を放物とさせられる。人間がシー・モンスターを野蛮で獰猛と見ているのは、人間としての感覚しか持ち合わせていないからだ。実際のシー・モンスターは『ファインディング・ニモ』に登場していたかのようなお茶目な姿が見受けられる。

一方でシー・モンスターも人間を恐れるがあまり、人間に対する偏見に満ち溢れる。人間の文化としてシー・モンスターを敵対視していることを熟知しているからこそ『リトル・マーメイド』のトリトン王やセバスチャンのように、近づくのは愚か、一切の断絶を図ろうとする。だが人間サイドにも、敵視する者もいれば、理解に努める者がいる。一括りにしてレッテルを貼るのは、シー・モンスターとしての感覚しか持ち合わせていないからだ。人間とシー・モンスターの異種を通じて「偏見はなぜ起こるのか」を描けているといえよう。

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まだ幼いルカは人間のことを知らないからこそ、人間に対する偏見を持ち合わせていない。ルカの視点は、知らない知識やまだ見ぬ世界の景色を吸収し、自分の中の世界が広がっていく楽しさを体感できるだけでなく、偏見をなくし互いの理解を深めるヒントが見えてくる。また、本作のヴィランであるエルコレとルカの狭い世界に留まった者と広い世界を見ようとする者との対比は、学びの重要性を紐解いている。

だが、ルカが人間世界に赴く動機は『リトル・マーメイド』のアリエルのように、知的好奇心からの興味本位というよりかは、やむなしに赴いているようにしか見えない。ルカの両親が危機感を持ったことで、深海に住む叔父の元へ連れていこうとするのだが、ルカは反発し、家から抜け出す。この一連の流れだと、行きたくない深海に連れて行かれないように、人間世界へ逃げているようなものだ。人間世界に赴くマクガフィンは、逃げるではなく、知的好奇心にまとめて欲しかった。

シー・モンスターであるルカが人間世界を学ぶために、ジュリアと共に学校へ通うラストで物語は締め括られるのだが、あまりにも現実感が無さすぎる終わり方だ。ルカとアルベルトの活躍によって、ポルトロッソにおけるシー・モンスターに対する偏見は解かれるのだが、あくまでもポルトロッソという小さな港町だから出来たことだ。

文化を学び、信頼を積み重ね、街で一番偉い大人に気に入られる政治力は、異文化の街で生きていく上では重要なことを2人はやってのけている。だが、学校のあるイタリアの大都市ジェノアではそうはいかない。神話に出てくる恐ろしいモンスターが目の前にいる、街のどこかにいるとなれば、授業どころではなく行政案件だ。人種間でも差別や偏見に満ち溢れているのであれば、異生物が対象であれば尚更だ。汽車で学校のあるジェノアに向かうシーンを見て思い浮かべるのは、ルカが学校で仲良くやれている姿ではなく、より酷い差別や偏見に晒される姿だ。

作り手が志す理想は素晴らしいしく、賛同できるものも多いのだが、現実感が無く都合の良さが際立つ理想は、新たな被害者と加害者を生み出しかねないと、強く念押ししておきたい。

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