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映画評 ソウルフル・ワールド🇺🇸

(C)2020 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

インサイド・ヘッド2』の公開に先立ち、アカデミー賞2部門に輝いた本作が劇場初上映。ジャズミュージシャン志望のジョーと人間として生まれることを拒むソウル”22番”の冒険を描くストーリーは、人生について深く哲学された内容であった。

本作で度々登場する「煌めき」がキーワードとなっており、「生きる意味」として用いられる。ジョーはプロのジャズミュージシャンになり演奏すること。対照的に22番はやりたいことや夢中になれることを見つけられず、コンプレックを抱えている。結論からいえば、「煌めき」=「生きる意味」はミスリードで、むしろ「生きる意味なんてものはない」と一蹴する。哲学者のイマヌエル・カントは「人間とは何か」という問いに対し「人間は自分の存在意義(世界そのもの)を知ることはできない」と導き、「生きる意味」は考えるだけ無駄であると解く。

ジョーも22番も「生きる意味」に捉われてしまったキャラクターとして描かれている。マンホールに落ちてしまうほど夢のことしか見えていないジョーは、迷い込んだソウルの世界で自分史を振り返った際、淡々と日常を過ごす自身の姿に「自分の人生はこんなものじゃない」「夢を叶えていない自分の人生なんて無意味だ」と自己否定に陥る。だがステージに立ち、長年の夢を叶えるも「もっと違った感情になるかと思った」と拍子抜けになり、「これからも同じような日々の繰り返し」として夢が日常に組み込まれていく現実を目の当たりにする。人生を彩る手段の一つであるはずの夢に捉われ、呆気のないものであると理解するジョーはなんとも哀れだ。

22番はさらに深刻だ。生きる意味を見出さなければ生きていく価値がないと強迫観念に駆られており、教育現場にいる「夢を見つけられない子供」「やりたいことが分からない子供」と似たものがある。誰しもが夢を見つけられる訳でもなければ、やりたいことを見つけできる訳ではない。他の子と比べられ劣っていると自らを貶めるだけでなく、夢を持ってない困った子のレッテルを貼られ、生きる意味に捉われる。

さらにプロのミュージシャンの夢を持ってるジョーとの比較からも深刻さが伺える。ある意味夢中になれるものを持っているか否かでもあるのだが22番は持ち合わせていない。『ファイト・クラブ』で主人公が消費社会に飲み込まれ仕事をこなすだけの人生を送り、タイラーがレイモンド・ラッセルにやりたいことは何かと解き行動に移させた啓発を目の当たりにしたにも関わらず、やりたいことや夢中になれるものを見つけられていない状況と通づるものがある。22番は夢を持つこと、やりたいことを見つけることの難しさと現実社会における無気力な人を描いたキャラなのだ。

(C)2020 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

22番にとっての煌めきは些細な日常を楽しむことだ。ソウルの世界では体験できなかった、食べ物の味を噛み締め、町中に混在する匂いを嗅ぎ、色々な人と会話をし、太陽の光に照らされるなど、日常生活を送る上で触れる感触だ。22番は人間世界での交流を通じて生きること楽しさを見出していく。22番の行き着く先は、『PERFECT DAYS』の平山(役所広司)のように日常から些細な変化に気づき楽しめる人かもしれない。日常を楽しむ行為は誰しもが実践可能かつ普遍的な人生の過ごし方なのだ。

ジョーにとっても些細な日常に楽しみを見出していたことを思い出すと同時に、ジャズに夢中になり、ジャズミュージシャンを志したのは成り行きであることに気づく。そのため夢を追いかけることや夢中になれるものに人生をかけて取り組むことを本作では否定しない。むしろそのおかげで道を切り開けたキャラがいたように、あくまでも人生を豊かに彩りを与える側面の一つであるものとして描かれる。夢や夢中になれるものを「生きる意味」と捉える行為は後付けの理由なのだ。

22番がソウルの世界から抜け出せず生きる準備が整わなかったのは、生きる意味に捉われていただけでなく、成り行きに任せられなかったことだ。また、正しい方向性を確実に選択し、そのルートから足を踏み外さないようにする失敗したくない心理も働いている。けれど人生はさまざまな寄り道を経験をして成長し、その過程で思いもよらない夢中になれるものを見出すこともできる。それが些細な日常を精一杯楽しむことであっても。まさに「人生はチョコレート箱。食べるまで中身はわからない」のだ。

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