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メロスと犬

メロスは激怒した。
「ジェノサイドを許すな!」
青空の元で煌々と照らされる彼らは、高らかに看板や拳を掲げ、街を行進している。
昨今の世界情勢はひどいものだ。
もう戦争が起きても、以前ほど驚く反応も得られない。
人々の感覚は少しずつ麻痺している。
彼らの掛け声は威勢よく響く。
Fuck Israel!

メロスは独善的である。
王に怒れる者は、身勝手な結婚式も、友を人質として差し出すことも、犬を蹴とばすことも許容されてしまうのである。
要するに、彼らが行進する道路に面したマンションの一室と同じである。
そこに住む人は、つい口にしてしまう。
「うるさいな。」
全員が朝に起き、夜に眠っているわけではない。
夜に働き、昼に眠る人々のお陰で社会は成り立っているのだ。
しかし彼らは言うだろう。
「うるさいから、それが何だと言うのですか?今世界では、虐殺が行われているのですよ。」
「うるさいと思うなら、虐殺を止めれば良いのです。」
「あなたのような人が沈黙するから、虐殺はおさまらないのです。」
メロスには政治がわからぬ。
けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

差別に反対するために、店を襲撃する人々。
それに反対してさらに暴動を起こす人々。
環境を守るために、ゴッホにトマトスープをかける人々。
それに反対してピストルを持ち出す人。
国を守るために、国を非難する人々。
人を守るために、人を殺す人々。
みんな、メロスなのだと思う。
そして彼らにとって、あのマンションの住人ような人間は犬みたいなものなのだろう。
「蹴り飛ばされたくないなら、私たちに加わりなさい。」
ああ、ヒトラーも地獄で笑っているに違いない。

Fuck Israel!
どれだけ欧州がパレスチナに寄り添っても、ドイツ人は決してこれを言えないことが、この世の滑稽さである。
彼らは一生謝り続け、そして我々日本人も謝り続けなければならない。
私が植民地支配した記憶はないのだが。
そしてこれからはきっと、世界中のユダヤ人も謝り続けなければならなくなる。
加害を知らない者が、被害を知らない者に、謝り続ける。
それに痺れを切らした者たちは言う。
「ニッポンはこんなにスゴい!一方隣国はというと......」
国家とは、主義とは、一体何者なのだろうか。
一人の人間が、一人の人間として存在することが、こんなにも難しいのだろうか。

街中で、SNSで、絶え間なく飛び交う。
ジェノサイドを許すな!
それは嘘だ!
謝罪を要求する!
我々は加害していない!
誠に遺憾です!
その国の人間は排除しろ!
我々はボイコットする!
もうそんなことはやめよう!
オリンピックで平和の祭典!
万博で国際交流!
血税を搾取し莫大な予算を重厚に中抜きし、ハゲたオヤジどもが利権で私腹を肥やすイベントで世界平和を!
素晴らしい!
だめだ、中止しろ!
彼らはなんのために、どこに向かっているのだろうか。
間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。
人の命も問題でないのだ。
メロスは、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

そんな世の中を横目に見て、蹴られた犬は頭を痛めて出勤の準備をするだろう。
家を出る前に安かったバナナを一本くらい食べる。
「生活が苦しいですか?それなら私たちと共に政権を打倒しましょう。あ、そのバナナは安物ですか?あなたは搾取に加担しています。フェアトレードをご存知ないのですか?日本人は反省してください。特に男性なら常に自重しなさい。この国は家父長制に汚染されているのですから。ところであなたは生物学的男性ですか?」
こういう風に言っていたのが誰だったか、もう忘れた。
どうでも、いいのだ。
私は負けたのだ。
正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。
そして家を出たら、犬は疲れた顔でこう言うのである。
「あー......政治とかあんまよく分かんないんだよね笑」
メロスは激怒した。

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