見出し画像

成長から「脱成長」へ・・・


こんにちは。

最近読んだ本で興味深いものがあったので、紹介させていただきます!

紹介させていただくのはマルクス主義を専門にする経済思想・社会思想研究者である斎藤幸平さんによる著書、『人新世の「資本論」』です。

みなさんは「脱成長」という概念を知っているでしょうか?

これまで経済成長をすることが「良い」とされ、経済の成長によって国民の生活がより豊かになることが目指されました。しかし、現在ではその成長による恩恵を受けていると感じる国民は少なくなり、豊かさを感じられない人は多くなっていると思います。この本では、気候変動問題を念頭に置き、これまでの経済成長至上主義ないしはそれを司る新自由主義、資本主義批判を通して、本当に豊かな社会とは何かについて考察しています。

何事にも自己責任を問われ、社会に閉塞感を覚える人々にとって、この本は私と同じように新たな社会を構想する上で、認識の転換を起こしてくれるのではと思います。この本の紹介を通して、読者の認識に変化を起こせればと思い、ここから議論していきます!

『人新世の「資本論」』の内容紹介

著者紹介:斎藤幸平さんは、ドイツ・フンボルト大学哲学科にて博士課程を修了して、現在は大阪市立大学大学院経済学研究科の准教授であられます。博士論文を著書にした単著『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』は、近年発見されたマルクスの研究ノートをもとに、エコロジカルな観点からマルクス主義を構築した点が評価され、ドイッチャー賞を受賞している。(この本はかなり高度な専門書です。)

さて、『人新世の「資本論」』ですが内容に入る前に、まずタイトルの一部にある「人新世」とはなんぞや、を説明します。
地質学的に時代区分の一つのあり方として、「人新世」は近年提案されている新しい時代区分のことです。地球全体に人間の影響が及ぼされた状態のことを言い、例えば、地表にはビルが、海にはマイクロ・プラスチックが、空気には二酸化炭素があり、人間の活動の痕跡が地球の表面を覆い尽くした時代になっていることを示しています。気候変動問題に引き寄せるためにこのような時代区分が用いられたと考えられますが、それだけでなくこれまでの生活スタイルや経済のあり方が変化しなければならない、また変化の渦中であることを意識したのかもしれません。

まずざっくりこの本が何を書いているのかについて述べると、ずばり、『人新世の「資本論」』は、気候変動問題の原因を資本主義に求め、マルクス的エコロジカルな観点から資本主義の枠内で行われるあらゆる気候変動対策を批判・検討し、資本主義を超克するために「脱成長コミュニズム」を提案しています。

ここでは三点に絞って、内容を紹介していきたいと思います。

①資本主義が気候変動を起こしている?
②気候変動対策は十分じゃないの?
③「脱成長コミュニズム」とは?

①資本主義が気候変動を起こしている?

これは直感的にも分かりやすいかと思います。世界中で行われる経済活動によって、熱帯雨林が焼失したり、またゴミ問題など私たちの経済活動による環境への悪影響について私たちが知っていることは多いからです。気候変動の問題は、化石燃料の使用がCO2排出の増大をもたらし、気候変動が発生しているということがメインで議論されています。このことについて構造的な観点から分析すると、より深刻な問題であることが浮かび上がります。そこから資本主義がどのように気候変動を引き起こしているか、議論していきます。

キーワードは二つ、「転嫁」と「不可視化」です。

みなさんは、日頃手に取る様々な商品について、その商品がどのような生産過程を経て製造されているか考えていますか。例えば、スマートフォン(以下スマホ)について考えると、重要な部品の一部であるリチウム電池の原材料コバルトはその発掘過程において、コンゴ民主共和国での人権問題が告発されています。さらに、その発掘過程における水資源の乱使用など自然の搾取が著しいと言われています。

食品についても、人間(労働力)と自然の搾取が行われています。有名なのは、アマゾンの熱帯雨林を伐採する大手資本の畜産業でしょう。より生産性を高くするためにすし詰め状態にされた動物だけでなく、その動物たちを倫理的には認められない非道なやり方で加工する労働者に対する搾取が行われています。また熱帯雨林伐採によるCO2の排出や、死骸やゲップから放出されるメタンガスなどが自然環境に対しても悪影響を及ぼしています。

しかし、いざこれらの商品を前にしても私たちは人間と自然の搾取が行われている生産過程を認識することはできないことから、「不可視化」されていると著者は言います。なぜ「不可視化」されているのでしょうか。

それは、企業が私たちが見えない遠くのところに問題を「転嫁」しているからです。資本主義社会において企業は、利潤追求のために新たな市場を開拓することに邁進します。例えば、グローバル化が進んだことによって海外に、特に発展途上国と言われる国々の労働者の賃金の安さから工場を移転し、より安く商品を製造できるようになりました。しかし、一般に途上国(本書では「グローバル・サウス」とされているが分かりやすくここでは途上国と呼ぶ)では法規制が発展途上である場合もあり、政府による企業活動の規制がない場合もあります。有名な例として1997年にナイキ社が製造工場にて人権を侵害していることが発覚し、不買運動に発展したこともありました。私たちが商品を購入することが、このシステムの維持に貢献しているとも言えますし、人間と自然の搾取を行う当事者であるとも言えます。

現在では発展途上国も徐々に経済成長を果たし、賃金は上昇しています。資本主義社会が価値増殖を継続するためにフロンティアを開拓することが必要なのですが、そのフロンティア自体は有限なのです。これまで問題を途上国に転嫁し、不可視化してきたが、環境危機は今や可視化できるほどにまで目前に迫っています。では、どうすればいいのでしょうか?

②気候変動対策では十分ではないのか?

次に、気候変動対策として今行われていること、議論されていることではダメなのだろうか、について説明します。アメリカやヨーロッパなどでは政治的な場において「グリーン・ニューディール」について議論されていたり、経済社会においては活発に「SDGs」について言及されたりしています。しかし、これらは本当に気候変動に寄与できるのでしょうか。

まず、グリーン・ニューディールは再生エネルギーへの転換や、環境に良いとされる技術への大型財政出動や公共投資を行うことを指しています。1929年の大恐慌の対応策としてフランクリン・ルーズベルト大統領が実施したニューディール政策の現代版だとイメージしていいと思います。問題が環境危機であるだけです。

公共投資によって雇用が創出されれば、それだけ商品への需要が高まります。需要が高まったことによって景気が好転すれば、より技術開発への投資が促進され、緑の経済へ加速していくというロジックが働いています。このロジックでは経済成長を前提に組み立てられており、資本主義が何も変わらずにこれまで通りのやり方で環境を良くして行こうというものなのです。

SDGs(持続可能な開発目標)も経済成長を目指す方向性を示しています。この二つに共通していることは、経済成長による負荷は技術によって解消できることを前提にしていることです。

日本でも高度経済成長期に工業廃水や、排気ガスなどによる公害が発生したことがありますが、現在は公害について耳にすることは少なくなりました。なぜなら、工場を途上国に移転し、遠くに転嫁したからです。CO2の排出量も先進国では減少傾向にありますが、これは技術の発展によるものではなく、実際は排出源が他国に転嫁されているからです(この勘違い現象を「オランダの誤謬」と呼びます)。

経済成長による環境への影響を技術によって切り離す試みは、長い時間をかければ成功するとされています。しかし、現在において既に地球は限界を迎えています。それを説明しているのは、プラネタリ・バウンダリーというものです。この概念は、地球が本来持つ自然回復力を優雅に超え、負荷がかかりすぎた時、元の状態に戻ることができずに破壊的な変化を起こすことを様々な項目から説明しています。ティッピング・ポイントはこのうち、CO2排出による空気中の構成の変化が、限界点を超えた場合、地球温暖化が止まることなく進行していくことを述べています。これらによるとすでにいくつかの項目においては限界点を超えているのです。つまり、もうすでにSDGsなどの対策では遅すぎるのです!

著者はグリーン・ニューディールやSDGsを「現実逃避」として非難します。それは技術に任せて、自分たちは今までの生活を何も変えないからです。もちろん、経済成長を諦めることが簡単だとは説明していません。雇用を創出するために、経済を拡張しなければならない「生産性の罠」などから難しさについても言及しています。非難してはいますが、それは十分でないからであり、電気自動車の普及や再生エネルギーへの転換は不可欠です。むしろ必要なのは経済成長ではなく、経済のスケールダウンとスローダウンなのです!しかし、スケールダウンとスローダウンと言っても、どのような脱成長が良いのでしょうか?

③「脱成長コミュニズム」とは?

最後に、いよいよ脱成長について説明していきたいと思います!最初に述べておきたいことは、経済成長は世界の人として最低限の生活を営めない人々にとっては必要であるということです。気候変動は先進国による影響が大きいこともありますが、公平性の観点から見ても彼らを無視し、世界全体で成長するなとは言えませんよね。

まず脱成長は資本主義の下で達成できないのか考えてみる。結論としては、これはできない。なぜなら、資本主義の本質としてここで挙げられているもの自体をやめなければならないからです。その本質とは、利潤追求・市場拡大・不可視化、転嫁・労働者や自然の収奪です。「脱成長」とは、行き過ぎた資本主義にブレーキをかけ、人と自然を最優先にする経済を作り出そうとするプロジェクトであり、労働を変革し、自由、平等で公正かつ持続可能な社会を打ち立てることをいっています。

では、どのように達成するのか?著者はカール・マルクスの思想に着目する。マルクスは『資本論』の第1巻以降も資本主義についての考察を深めており、その中で<コモン>という概念を持ち出している。<コモン>とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことであり、マルクスは地球を<コモン>として管理する社会のことをコミュニズムと定義しています。

コミュニズムと聞くと、日本語で共産主義と訳されることもあり中国の強権体制や独裁体制、ソ連などのことが頭に思い浮かばれると思う。しかし、ここで言われるコミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義によって解体されてしまった<コモン>を再建する試みのことを言っているのです!

マルクスは晩年においてエコロジー研究と共同体研究を盛んに行っていました。彼はエコロジー研究から、人間は自然の一部として存在し、他の動物と同じように循環してきたことに気がつきます。さらに、共同体研究にも取り組み、物質代謝から導かれる「持続可能性」と共同体社会にある「平等」が密接に関係していることを発見します。というのも、共同体社会においては基本的に人間関係は水平的であり、土地・水などの<コモン>は誰のものでもなかったのですが、資本主義が浸透することで私的所有が当たり前になると、この<コモン>が誰かのものになり、搾取されるようになります。そのため、共同体が資本主義に抗う鍵になり得たのです。

次に、<コモン>はどのように解体されたのでしょうか。<コモン>は解体されて、商品に転換されてきたのですが、例えば「水」を例にとって説明してみます。「水」は共同体社会では<コモン>として誰の占有物ではなく、「使用価値(=人々の欲求を満たす性質)」を持つものとして共同で管理されていました。しかし、資本主義が浸透すると、「水」を「価値(=貨幣で測られるもの)」あるものとして扱うようになります。つまり、「水」を希少なものとして人工的に作り出すことが行われました。

このような人工的に希少性を生み出すシステムは労働者や「貨幣」にも働きます。例えば、イス職人について考えると、職人はイスを作るという「構想」を踏まえて、実際に「実行」します。しかし、労働者となり工場で働くことになると「構想」するのは社長や株主になり、労働者は細分化された一部の仕事を「実行」するだけの存在になります。生産手段という<コモン>が解体されると、これまでイスを作ってきたところを購入しなければならないという事態に陥ります。

そうなれば、労働者にとって「貨幣」も希少性を持つようになります。つまり、貨幣がなければ商品を買えなくなり、生きていけないということになるからです。このようにして私たちは資本に包摂されていきます。この状態になると私たちは資本と商品に頼ることでしか生きられなくなり、資本主義でしか生きられないと感じてしますのです。

希少性を本質とする資本主義に対抗するためには、<コモン>を取り戻すことが大切になりますより資本に包摂され、商品を媒介しなければ生きていけず、そのため貨幣に執着する生活から自由になるためにも、占有物としての自然から自然を解放することで持続可能な経済を確立するためにも、<コモン>を取り戻し、資本主義を超克することを通して、経済の減速ないしは「脱成長」することがこれから必要になってくるでしょう。

本書はこれらの説明後に、例えば、スペイン・バロセロナ市の「フィアレス・シティ(Fearless City)」、フランスの黄色いベスト運動から生まれた「気候市民議会」など実際に世界で行われている取り組みについても紹介しています。ここでは詳細には述べませんが、これらの取り組みから学べることは多かったので、気になった方は一読をお勧めします!!

読み終わって・・・

長くなりましたが、以上で『人新世の「資本論」』の紹介をおわらせていただきます!気候変動という目下に迫った課題に社会がどのように対応しなければならないか、という議論をし、ラディカルな提案をしていますが、この先の社会を考える上で非常に参考になると思います。

しかし、一方で理想主義だ、自分の価値観と合わないと感じる人もいるでしょう。私が最近興味を持って調べていることはここにあります。つまり、資本主義が如何にその正統性を持ったかということを社会の意識から見るということです。

これはカール・ポランニーの議論が参考になると思い、一読しました。資本主義が生まれたとされる、18世紀後半では資本主義に抗う抵抗運動が各所で見られていたことが述べられていますし、彼はファシズムはこの抵抗運動の究極的な形であるとも考えています。彼によると、市場経済は自生的に生まれたものではなく、国家によって作り出されたものであり、新自由主義(経済的自由主義)は市場メカニズムによって社会を組織することを目的としているとしています。つまり、私たちは現状の経済システムを維持するために、様々な教育を受け、資本主義に適合した価値観を持つことを無意識的に要請されてきたとも考えられます。

私たちは現代の経済システムがあまりに当たり前だと思っていないでしょうか?自分の価値観自体が、資本主義の影響を受けすぎてはいないでしょうか?この呪縛から解放された時、何が見えるのでしょうか?

私はこれに興味があって本書を手に取りました。ぜひ読者の方も手にとってみてはいかがでしょうか?

ありがとうございました!!!!



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?