俗世から離れたくなって能楽堂へ行ったら幽体離脱したあとで地獄の呵責を見た話


いざ行かん、能楽堂

チラシで知った大島能楽堂

大島能楽堂定期公演

先日、職場でとあるチラシを見つけた。

広島県の福山に能楽堂があるらしい。

地図を見てみると福山駅からちょっと歩いたところに、大島能楽堂はある。

上司にそれとなく聞いてみたところ、大島さんという方が個人でされている能楽堂。

大島能楽堂(喜多流能楽堂)

この春、ここで美しい桜の情景を舞台にした「湯谷」(他流派では「熊野」表記)

そして「阿漕」が上演されるとのこと。

ストレスフルな現代社会…

私は疲れが溜まってくると、俗世から離れたくなります。

そんな時は「そうだ、お能へ行こう」

喜多流との遭遇

今まで観世流や金剛流を観る機会には恵まれていたのですが、喜多流にはなかなか巡り会えませんでした。

いつぞやチラッとテレビで、ほんの数分ほど流れた喜多流の能を観た時「か…格好いい…」

思わず釘付けになって以来、ずっと舞台を拝見する機会を望んでいました。

能「湯谷(ゆや)」

ストーリーの背景

上演前に時代背景についての補足や解説があったので、詞章だけでは読み取るのが難しい部分がよく分かりました。

久しぶりにお能を観る身としては、とても有り難かったです。

あらすじは、the能ドットコムさんが出されているので気になる方は↓

解説で語られていた重要な点は2つ。

  • 時期は、平安時代末期。平家の隆盛に陰りが見えはじめた頃。

  • この曲目で出てくる当時の花見は、政治色の強いイベント。平家の威信をかけた行事。権威を示す意味合いがある花見。

喜多流の芸風

私は初めて喜多流の能を体感したのですが、想像以上に質朴な芸風。

「質実剛健」そういう印象を受けました。

詞章のハイライト

聴いていると、流派よって細かい部分は詞章が異なるのですが、内容は同じです。


個人的に聴いていて、やはり美しいと感じた部をご紹介しますと

春前に雨あって花の開くる事早し。秋後に霜なうして落葉遅し。山外に有って山尽きず。路中に路多うして道きはまりなし。

誰か言ひし春の色。げに長閑なる東山。

この辺りのシテと地謡の掛け合いの部分が聴いていて、とても心地よかったです。

気乗りしないまま花見へ行く牛車に乗り込みむ湯谷の心中と、美しい情景の対比。

春の景色を眺めながらも、病が重い母のことが気にかかる様子が伝わってきます。

散る花に映る心

降るは涙か。降るは涙か桜花。散るを惜しまぬ。人やある。

俄雨で花が散る様子を見て、かの有名な歌を書き付けます。

いかにせん。都の春も惜しけれど。なれし東の花や散るらん。

宗盛は手渡された歌に感じ入り、ようやく湯谷に暇を与えます。

伝わらない男心と女心

この春ばかりの花見の友。

「どうしても供として居てほしい」

宗盛はその一点張りで、母に一目会いたいと言う湯谷の再三の暇請いを許さなかったのですが

最後の最後で、ようやく宗盛は湯谷を母親の元へ行かせてあげます。

では、どうしてそれほどまでに湯谷を引き留めたのか。

そこが引っ掛かってきます。

そもそも宗盛は、その口ぶりからして、ちょっと面倒くさい(機嫌を取るのが難しそうな)やや横柄な人物のようではありますが

それだけが理由ではなさそうです。

その心中を知るためにもう一度、振り返ってみますと

  • この花見は平家の威信をかけたものであり、この行事において重要な湯谷は欠かせない存在だった。

  • 時代背景は、平家に陰りが見えはじめた頃。

上記を踏まえると

どうやら宗盛は、単なる私情でもって湯谷を引き留めていた訳ではなく

これが最後の輝かしい花見になるかもしれない。だからこそ、湯谷には居てもらいたい。

陰りが見えはじめた情勢を、ひしひしと感じていたからこそ、湯谷を引き留めていたと思われます。

宗盛はそういう心中であったようです。

一方で湯谷も母親のことばかりではなく、宗盛のことも気にかけてはいます。

書き付けた歌をもう一度、見てみると

いかにせん。都の春も惜しけれど。なれし東の花や散るらん。

【現代語訳】どうしたらよいのか。都の春(宗盛を指している)を見捨てるのも辛いけれど、馴れ親しんだ東の花(母を指している)が散ってしまうかもしれない。

揺れ動く心を抱えながら、湯谷は母のもとへ旅立って行くエンドです。

湯谷の気持ち

湯谷の心中について、個人的に思うところは

宗盛が引き留める時に、その理由をもう少しハッキリと匂わせてくれていたら、湯谷は留まっていたのではないか。

湯谷からしたら、自分を引き留める宗盛の事情を知りたかったのかもしれません。

理由を言ってくれていたのならば、留まっていたかもしれない。

ただその理由が、ハッキリとは伝えづらいとことだったとは思います。

「阿漕(あこぎ)」

「あこぎな人」と言われた西行法師

こちらも解説があり、その由来が分かりました。

伊勢の海 阿漕が浦に引く綱も
度重さなれば 顕れぞする

「源平盛衰記」の古歌

西行法師から(俗名時代)恋慕された高貴な女性が、重ねて逢うのを断るために引いた歌だそうです。

出家のきっかけだったといわれている大失恋。

なかなか痛々しい西行法師の黒歴史。

その歌に触れる冒頭から「阿漕」がはじまります。

解説で仰られていましたが、似たような内容の曲目は他に数曲あるそうです。

私が以前に観たことがあるのは「鵜飼」

生玉さん(大阪にある生玉神社)の薪能で「鵜飼」を拝見した際は、あまりの悲しさにかなり泣いた記憶があります。

しかし、「阿漕」はそれよりも、重いです。

想像以上に重い。

重いと、感じました。

能楽堂ではたいがい脇正面の橋懸かりが近く、舞台も近いところで拝見します。

能面の表情が、陰影によって移り変わる様子ががよく見える位置になるからです。

そこから観ていると、面(おもて)と何度か目が合うのですが、その目の奥の闇に気がつきます。

阿漕の目は、底なしの闇を湛えている…聴けば聴くほどに…その闇が見えてくるのですが

【間狂言】で僧が浦人から阿漕が浦の話を聞きき終わるぐらいのところで

なぜか記憶が(ちょっと)途切れました。

幽体離脱(予期せぬ寝落ち)

体感的に30秒くらい。実際には2分くらい…

脇正面で観ていて…堂々と幽体離脱できる己の度胸が凄い…

我ながら呆れています。自分自身に…

さりながら…久しぶりのお能で…重さを(阿漕の)覚悟できておりませんでした…

魂の帰還

魂が肉体に帰ってきた時(目覚めたら)

すでに阿漕の亡霊が橋懸かりに居ました。

何やら不穏な気配と共に網を携えています。

阿漕の闇

現れた阿漕の亡霊は、満ち潮の海へ入って、いまだに漁をしている。

「鵜飼」でもそうだったのですが、殺生が悪いこととは言え、魚を捕る彼らにそれほど悪意はなく、どこか無邪気な様子さえあります。

それゆえ、とても悪人には見えません。

詞章はこちら↓

解説で大島輝久さんも仰られていましたが

殺生を生業にする漁師が罪深い存在とされていた中世の時代。

呵責に苦しむ漁師の能が語るところは

貴賤を問わず、生きてゆくためには誰しも殺生を避けることはできないのだということ。

「阿漕」の彷徨う地獄は、他人事ではない。

地獄の呵責

網を投げては、魚を捕る。

悪いこととは分かっていても、止められない。

取り憑かれたかのように阿漕が網を引いていると

突然、波は猛火となり、その熱さに苦しみはじめる。

阿漕が此浦に。なほ執心の心引く網の。
手馴れしうろくづ今はかへつて。悪魚毒蛇となつて。
紅蓮大紅蓮の氷に身をいため。
骨をくだけば叫ぶ息は。焦熱大焦熱の。
焰けぶり雲霧。立居にひまもなき。
冥途の責も度かさなる。阿漕が浦の罪科を。

凄惨な責め苦のなか、僧に弔いを頼み、消えてゆきます。

能の不思議なところ

能の不思議なところは、どれだけ重い話でも

引きずらないところです。(本当に)

能が終わる時はいつもスゥーッと終わります。

今まで確かに地獄の責め苦に苦しむ阿漕が居たのに、終わると

急にその気配が消えるような感覚です。

余韻があっさりとしているため、凄惨な映画を観たあとのような後味の悪さは残りません。

魂の救済

能における大きな目的の一つに「魂の救済」があるのではないかと思います。

苦しみを抱えた人間のありとあらゆる姿が、能には出てきます。

亡霊たちは、弔いを頼んで消えてゆきます。

中世の時代に人々が抱えていた苦悩を、能を通して観ることで分かるのは

時代は変わっても、人間が抱えている苦しみの根本は変わらないということ。

はたして、その苦悩しつづける人間という生き物の魂は救われるのか。

現代においても、その苦悩をテーマにした作品は多いかと思いますが

映画でいうならば、その代表格は映像の詩人と呼ばれるアンドレイ・タルコフスキー監督ではないでしょうか。

遺作「サクリファイス」を観た時に、特にそう感じたのですが

人類の「魂の救済」をタルコフスキーは願っていたのではないかと思いました。

そのメッセージ性は、非常に能に近い精神性を感じました。

人類の永遠の願いである「魂の救済」それは能に託されているのではないでしょうか。

湯谷ゆかりの花といえば

藤の花

歌舞伎だと藤の花と言えば「藤娘」ですが

能だと「熊野/湯谷」だと思います。

湯谷ゆかりの地、遠江の国(静岡県磐田市)にある行興寺では「池田熊野の長藤まつり」が毎年開催されています。

熊野御前の手植えと伝わる古木の藤があるそうです。

命日とされる5月3日には『熊野御前供養祭』

また、春が来る頃にぜひ行ってみたいです。

そんなこんなで、久しぶりのお能だったのですがとても堪能できました。

皆さんも俗世を離れたくなったら、ぜひお能へ行ってみてください。

不思議と心が軽くなって、無事に俗世に戻ってこれます。

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