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"シンプルで力強い"を求めて

周辺の山々に赤や黄が混じり始めた。洛北の紅葉はいい。
視覚的にも明確に秋へと変化していく様を感じる11月。叡山電車鞍馬線も昨年の土砂災害から復旧され、京都北山はハイカーにとって本格的なシーズン入りを迎えている。

この時期に一年を振り返るのはまだ早いかもしれないが、今年を通じて考えていた、"シンプルで力強いデザイン"への憧れのような思いについて、頭の中の冬支度としてここに記しておこうと思う。

​東京五輪を経て

浮世の移り変わりによる何かしらの影響だろうか。今年に入り急にテレビを観るようになった。
主に寝る前の時間、音量を2か3に設定しラジオ感覚で視聴していると、興味のあるなしに関係なく様々な情報がゆるやかに入ってくるため、ついこの前行われた世界的スポーツの祭典であるそれの模様も断片的に知ることとなった。

最初に断っておくが、私はスポーツ観戦には全く興味がない。
すなわち、そうした斜に構えた視点から祭典の模様を眺めていたわけだが、卓球の伊藤美誠選手の試合を目の当たりにしたあたりから、何かグッと惹かれるものを感じ、"ながら見"から一歩乗り出して視聴してしまう感覚を覚えた。

あの五輪特有の盛り上がり、エンタメ感とは一体何だろうか。
スポーツへの興味、競技ルールの理解度などは、その感覚を形成するのにさほど重要な要素には感じられない。

ベースとなる「身体性」

以前に「本質までを身軽に歩く」で、"シンプルさ"や "身軽さ"について書いたが、単純に年齢を重ねていくことで、健康や身体のことに自ずと関心が高まり、考え方もどんどんシンプルになってきた。デザインするにも、山を歩くにも、楽器を弾くにも、美味しいものを口にするにも、ベースとなる身体あってのことだ。いくら良いイメージを持っていても身体に何かしらの問題があれば、しなやかに実行することは難しいだろう。なお、ここで言う問題とは、単に不健康や老いを指すだけではなく、技術や知識の不足なども含む。

「メタスキル」という言葉がある。「技術や知識を獲得するにあたり必要となるスキル」とか、「スキルを使いこなすためのスキル」と言われているものだ。(※参考:多くの若い人より圧倒的に成長速度の速いおっさんと絶望的に遅いおっさんの違いPMAJオンラインジャーナル2010年10月号

振り返ると、とくに20代の頃は学習の仕方はおろか、本の読み方すらよくわかっていなかったように思う。私は音楽の学校に通っていたので、俗に言う「音楽理論」というものも当然学んでいたが、中途半端に"歯抜け"の状態のまま来てしまった感がある。だが、30代頃より本を読むようになったり、社会経験も相応に積み上げられていく中で、この「メタスキル」的な部分が多少伸びてきたのだろうか。最近、久しぶりに理論書をめくってみると、あの頃あまり深いところまで理解が及んでいなかった内容でも、心なしかスムーズに飲み込めるようになっており、歯抜け部分の"知識の差し歯"と忘却の復旧作業を夜な夜な密かに楽しんでいる。

「普遍性」という観点

「五輪とは四年に一度、人間の身体性にクローズアップしたマイナースポーツが注目される特別な時間である。」
少し違ったかもしれないが、確かそのようなことを当時ニュース番組のスポーツコーナーで誰かが語っていた。

この"人間の身体性にクローズアップ"という部分が、五輪が広く多くの人々を惹きつける理由の一つではないだろうか。
なぜなら、健康や身体、技術や知識といったものは、誰にとってもいつの時代においても共通の関心事となりうるものであり、言い換えるならば、極めて「普遍性」の高いテーマということになるからだ。

「普遍性」と言えば、今年の9月30日に亡くなられた作・編曲家すぎやまこういち先生の著書にこんなことが書かれていた。

ベートヴェンの音楽、バッハの音楽といったものは、ヨーロッパ人であろうと、アメリカ人であろうと、東洋人であろうと、全人類を感動させる力を持っている。しかも200年前から現在に至るまで、まだその力を持ち続けている。これが最大の普遍性といえるのではないだろうか。
そして、その普遍性と同時に、モーツァルトやベートヴェンやバッハの音楽というものは、ほかの作家の作った曲にない、その人だけの非常に偉大な独自性を持っている。だからこそ、名曲中の名曲といわれるのだ。

※すぎやまこういち『すぎやまこういちの体験作曲法』P.33より引用

こういった話しはとうの昔に分かったつもりになっていたが、最近では本質的な部分の理解にまで及んでいなかったように思える。
"シンプルに力強く伝わる"ためにはどうすべきか?ということを最近あらゆる面において意識しているが、それに伴って、「普遍性」という観点がいかに重要であるかということが、今年五輪を観たことでようやく少し理解出来た気がする。

パン屋にて

先日、予ねてから気になっていたパン屋を訪ねた。
細い路地を入ったところにある町屋を改装したその店では、50代と推定される男性店主一人が静かな店内の奥で作業をしていた。開店時間からさほど経っていないにも関わらず、残りわずかとなった四角いパンがいくつか並んでる。いらっしゃいませの声はない。
この中から一つ頂こうと吟味していると、ようやく手隙となった店主が奥から現れた。自分が選んだパンを買いたいことを告げると、「そのパンは合わせられる料理が限定的になるので、こちらのパンの方がよいと思うが本当にそれでよいのか?」と聞いてきた。自分が選んだパンの方が美味しそうに思えたので、私は店主のアドバイスをよそにやはり自分で選んだものを買いたいことを告げた。「わかりました」と言われたか言われてないかはよく覚えていない。そこからすぐに会計へと進み、店を後にした。ありがとうございましたの声はなかった。

なんとも言えない気分だった。
自分の行動は正しかったのか、何か店主に対し無礼な振る舞いをしただろうか。いや、客としてただパンを買ったまでであり、そんなことを気にする必要はないのではないか・・・などと、よくわからない苛立ちのような悶々とした感覚が後を引いていた。

夕食の時間。まだ悶々とした感覚が後を引いたまま、家族との会話もどこかピリピリとしてしまっていたのだが、"問題のパン"を口にしたところ、冷たい世界が一気にほころんだ。
正直、恐れ入った。これまで色々なパンを口にしてきたが、思わず笑みまでこぼれてしまうようなものには出会ったことがなかったように思う。”合わせが限定的になる”という店主の前置きをよそに、その味は様々な食事に合いそうな普遍性の高いものでありながらも、他にはない個性をしっかりと感じる。ここまでシンプルなのに、どうしてどうして、本当に力強い訴求力。この味に辿り着くまでに一体彼は何を思い、どんな技術や知識を身に付けてきたのだろうか。そして、店主が薦めた方のパンとは、今回感じたそれよりもさらにこの世界観が明瞭だったというのだろうか?


一口ほおばれば世界が変わる。


"シンプルで力強い"とは、きっとこういうことなのだろう。
自分にもこんなことが出来るだろうか。


悔しいが、またあの洗礼を受けながらも、今度は店主の薦めた方のパンを買い求め、店の門を潜ってしまいそうである。



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