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生み出される小宇宙の曖昧な性質

昨年秋頃、仕事で某プロジェクトのちょっとしたBGM・SEのサウンドデザインを担当する機会があった。私が作ったIDL/Rの音を聴いてくれた方からのオファーであった。その制作期間に少し考えていたことをこちらに整理しておきたいと思いラフに下書きを進めていたのだが、なかなか書き終えられないまま長らく寝かせてしまっていた。

新緑は深緑となり、その濃さを目の舌で堪能しながら近所の無人販売に立ち寄ると、地野菜のラインナップの変化が夏の到来を告げている。もうすっかり初夏だ。
半袖の軽快さが私の心までも軽くしてくれたのか、なんだか筆が進みそうなイメージがよぎったので記憶をサルベージして続きを書き上げたいと思う。
あの時、音符の隙間から覗いた、"小さな希望の光のようなイメージ"を。

"Lo-Fi"の記憶

そのオーダーを端的な言葉で表すならば、"Lo-Fi" というものであった。

"Lo-Fi"と聞いてすぐに思い浮かんだのは、古くは高校時代に購入したYAMAHAのチープなサンプラーに付属のサンプリングCDに入っていた、太く温かみのあるザラついた質感のループ素材群の音。はたまた、昔はまっていた「サムライチャンプルー」というアニメに採用されていたあの音楽の雰囲気。一時は我が家のBGMとして不動の地位を築いていた「Laid Back Radio」という海外ラジオの心地よいウォームな響きなどであった。

それなりに馴染みのある好きな音ではあったが、これまでにその界隈の音源を掘り進めた記憶もなければ、そんな音を作る機会もなかった。そこで少し調べてみたところ「Lo-Fi Hip Hop」なるシーンが存在し、その音のイメージが概ねこれまで聴いてきた好みの雰囲気を包括するLo-Fi感なのだということを知り、ネット上に丁寧にまとめられた関連記事を読み漁ってはYouTubeの再生リストを聴き倒し、その海の中を泳いだ。そして、遊泳中に見つけた音源のいくつかを依頼者に聴かせたところ、「このトンマナでいこう」と話はまとまり、まずは作ってみる流れとなった。


いくつかの夜を経て

IDL/Rの音作りの時と同様、既に依頼者と対話した段階より頭の中では"ふいに頭に浮かんだメロディ現象"が発動していたので、あまり作ったことがない音ではあったが、とくに不安もなく作業画面に向かった。そして、いくつかの夜を経ていくつかのBGM・SEが完成し、その音たちは依頼者にも好評の末とくに修正なども発生しないまま完納となった。

とてもスムーズに進行出来たのだが、この時自分の中ではどこか心地よい違和感というか、"小さな希望の光的な何かを覗き見た感覚"が残っていたのだ。
それについて思案を巡らせていくと、頭の中で描いた世界をいかに頭の外で再現するかの度合いのようなものが、今回はかなり"希薄"だった点から来ているものだと分かってきた。"希薄"と言ってしまうと、どこかネガティブな響きに聞こえるかもしれないが、例えるなら、必要に思って積んではいたものの単に重量を食っていただけの不要だった積荷を降ろすことができたかのような、軽やかな感覚を得ていたのである。


作曲家の幻影

頭の中で思い描いた音をサラサラと譜面に書きおろし、何らかの工程を経てそれを忠実に再現し、聴衆に聴かせる。
一体どこで、何の影響でもって、こんなイメージが焼き付いていたのかは定かではないが、恐らく、これが私の中で作曲家というイメージを持った最古の記憶である。
その漠然としたイメージを長い間頭の片隅に持ち続けていたからであろうか、思い描いたものをなるべく忠実にアウトプットすることやそれを支える技術的な部分に目がいきがちで、それがうまく出来なかった際には、「またイメージと違うものを作ってしまった」と、どこか小手先で物をこしらえてしまったような自責の念に駆られる感覚があった。

今回の制作では、前述の通り「Lo-Fi Hip Hop」的なイメージを道標として作っていくことになったわけだが、その雰囲気を醸成するにあたり、ライブラリから直感的に使えそうな音のサンプルを集め、ざっくり刻んで配置し、よい雰囲気になるポイントを探りながら組み換えたり、足したり引いたり、キーやテンポを変えたり・・・といったことを常時プロトタイプしていくような手法で構築を進めた。

このような作り方の場合、最初に頭の中で鳴らしたイメージは大切に持ちつつも、それを忠実に再現していく作り方とは全く異なり、あくまでサンプルの選び方や編集における判断の指針としてそのイメージを活用していくようなフローとなる。そして、こうして作られた音は、概ね描いていたイメージ/トンマナの範囲に収まりながらも編集過程における"よい偶然"などが加わり、結果的に制作前に自身が想像できていた範囲をはみ出した形でよりよい結果に着地していることが多かった。

頭の中のバーチャル世界でイメージしたものを外のリアル世界に取り出してくる際、なるべく純度の高い状態を保つのか、(よくも悪くも)リアル世界の影響を与えて変化させてみるのか。これらの選択・程度・判断基準などは作り手の自由であると同時に、形づくるために何らかの指針でそれらを決めていくことになる。
これまでは、前者に寄ったイメージで制作に臨むことが多かったように思うが、今回においては経験の浅い領域ということもあり、完全に後者に振り切った形で臨んだことが功を奏したのかもしれない。

"ふいに頭に浮かんだメロディ現象"に囚われ過ぎると、時として発想や可能性を大幅に狭めてしまうことがある。
そのまま具現化することだけに執着せずイメージの指針として活用するなど、もっとお気軽に考えればよいのだ。
今ではそう思えるようになってきた。


小宇宙の曖昧さ

今回私が生み出したものは、ジャストに「Lo-Fi Hip Hop」な音だったのかと問われたら、「否、似て非なるものである」と答えたい。
それは、私がその筋のトラックメイカーではないということも大いに関係すると思うが、限られた時間の中で私というフィルターを通じてそのイメージを捉え抽出したものなので、やはりどうしてもオリジナルテイストとは異なる私なりの解釈が加えられた味わいのものがカップに注がれることになる。でもそれは、今回のお客さまには受け入れられる味であったということだ。

制作と同時期に読んでいた本にこんなことが書かれていた。
私がうまく言葉にできないことを代弁してくれているような気がしたので、少しばかり引用させて頂く。

想像力というのは一種の記憶の再構築だと思う。記憶にないことはまったく想像することはできない。言ってみれば、記憶の再構築で、想像力というのは、常に現実ではない。再構築しているから本物とは違っているわけです。言い換えると、記憶って常に間違っている。想像力は現実ではない。そこがおもしろい。

※坂本龍一『龍一語彙 二〇一一年ー二〇一七年』P.168より引用

そもそも、イメージとは曖昧な性質のものであるから、それを違った形で生み出してしまうことに対して懸念する必要は全くない。むしろ、そこが面白さでもあると考えることが出来るような気がした。

音(音楽)というものは、1つの小宇宙的世界を完成させるような行為であると、どこかで誰かが言っていた。
しかしながら、その完成した小宇宙というものは、聞き手の趣味趣向や置かれている状況、環境などにより、与える(受け取る)意味というものは全く異なってくる。例えば、ある人にはその小宇宙がとても美しい世界に映れば、また別の人にとっては美しいがゆえに窮屈に感じる、などといったことだ。
そう考えると、たとえ全知全能を用いて精魂込めた渾身のアウトプットを世に解き放ったとしても、その人が世に生み出した力作として確かに存在する一方で、その価値は常に変動的なものであるという見方が出来る。

別の本にこんなことが書かれていた。
どこか近いことを言っているような気がしたので、こちらも取り上げておこう。

間違えてはいけないのは、生み落とされた音楽はそもそも誰のものでもないということ。当然レーベルのものではないし、作った本人のものですらない。どんなこだわりで作られ、どんな流れで生まれたかなんて関係ない。音はただの音で、質量を持たない自由な存在なんだ。

※マヒトゥ・ザ・ピーポー『ひかりぼっち』P.104より引用

つまりはそういうことなのだろう。
言い切ってよいのかはわからないが、きっとアウトプットとは非常に曖昧な側面を持ち合わせているものなのだ。
だとすれば、音や写真やアートなどに限らず、日々の仕事で作るちょっとした資料やデザイン、メールやチャットの文章、こうして書いているnoteなど含めて、どうせなら、自分が心地よいと感じること、面白いと思うことをなるべくしっかり織り込んでアウトプットした方がより健全な気持ちでいられないだろうか。



何かを考え、外の世界に吐き出す際、もし自身の中で勝手に"いばらの蔓"を絡めてしまうようなことがあったならば、こうした視点のナイフを懐に携えておくことで、それらを断ち切り、自由に解き放たれた心持ちで様々なことに取り組むことが出来るような気がしてならない。


そう考えた次第である。




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